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二人とも、よく歩いたので、ちょうどお腹が空いていた。
目の前に提灯はあったが、こちらは裏側だったので、道路側に回る。
雰囲気ある建物のいい香りのする木の扉をガラガラ開けて入った。
壁際の席に案内されると、そこも木の香りがして、なんとなく、あのトンカツ屋を思い出す。
「へー、定年して蕎麦屋をはじめられたんですって」
メニューの片隅に、人の良さそうな店長の写真とともに、蕎麦屋をはじめるきっかけなどが書かれていた。
「何故、人は定年すると、蕎麦を打ちたくなるんでしょうね。
あとピザを石窯で焼いたり、パンを焼いたり。
基本、なにかを捏ねたくなるんですかね?
粘土みたいで童心にかえるとか?」
と言って、そんな莫迦な……と耀に言われたとき、温かいお茶がやってきた。
鴨南蛮蕎麦とあんかけ蕎麦と天ぷらの盛り合わせを頼む。
「あー、お茶、あったかいですねー。
あったかいですねー。
あったかいですねー。
あったかい……」
「どっか壊れてんのか、お前は」
いや、寒さから解放されて、温かい物に触れた瞬間、人はこうなるんですよ、と和香は湯呑みの上から耀を見ながら、思っていた。
そのとき、店の中にある大きなテレビが、雪の中、湯に浸かってるサルを映しているのに気がついた。
「サルって、目を合わせてはいけないらしいですね」
「そうだな」
和香は、課長とも目を合わせてはいけないな、と思っていた。
恋に落ちるかもしれないから。
そう思っている時点で、もう落ちてしまっているのだろうが――。
耀は画面の方を見ながら、
「攻撃されるかもしれないからな」
と言う。
「……恋に落ちるからではないですか?」
とつい言って、
「いや、サルとは恋に落ちないだろ」
と言われた。
耀から視線をそらしたせいで、画面のサルと目が合った気がしたが。
やはり、サルとは恋に落ちないまま、蕎麦も天ぷらも美味しくいただいた。
耀に送ってもらい、和香がアパートに帰ると、羽積が外廊下で街を眺めながら、静かに呑んでいた。
和香が近づくと、ほら、と缶ビールを投げてくる。
「ありがとうございます」
ビールは寒いな、と思いながらも酒の誘惑には打ち勝てず、ぷしゅっ、と開けた。
「何処行ってたんだ?」
とスーツ姿もサマになってきた羽積が訊いてくる。
いや、もともとはこういう格好の人なのかもしれないが。
「今、サルと目が合って、恋に落ちかけたんですよ」
「……ビール開けた瞬間に酔ったのか」
なに言ってんだ、と言われる。
和香は冷たい缶を握りしめ、耀ではなく、耀の王子様に向かって告白する。
「――嘘です。
目が合って、恋に落ちかけたのは、課長にです」
それ、もう落ちてるだろとは言わずに、羽積は言った。
「そうか。
俺はお前と目は合ってないが、恋には落ちたぞ」
「え?」
「双眼鏡越しに恋に落ちた気がする」
と言ったあとで、羽積は、
「あ」
と言う。
「なんですか?」
羽積はアパートを指差し言った。
「いや、目、合ってたな。
お前、ときどきこっちを見てた」
「そうですね。
気配を感じたので。
まあ、双眼鏡越しに恋には落ちないと思いますが」
と付け足し、逃げた。
真顔で見つめてこられたからだ。
なにあいつの課長に張り合って告白してんだ。
和香が消えた扉を見ながら、羽積は思う。
恋には落ちない予定だったのに。
というか、今でも、あんな危険な最終兵器みたいな女は、ぜひとも遠慮したいと思っているのに――。
それにしても、和香のことだ。
きっともう、専務たちを追い落とすためのなにかを手に入れているのだろうに。
何故、いつまでも動かないのだろう。
ずっと男とチャラチャラしてるだけじゃないか。
神森耀と平和に暮らしてくれた方がいいと思っているはずなのに。
それくらいなら、復讐を遂げて、あの男の前から消えてくれと思っている自分もいる。
猫の鳴き声がした。
下を見ると、いつぞや、和香たちと捕まえたキジトラの猫が足にスリスリ寄ってきていた。
羽積は、
「なんだ、また逃げてきたのか。
飼い主が心配してるぞ」
とその猫を抱き上げる。
猫は嬉しそうに目を細め、ぐるぐる言っていた。
チラと和香の消えた扉を見たあとで、猫を連れて階段を下りる。
次の日の朝、和香が出勤しようと外に出ると、羽積が立っていた。
「おはよう」
「なにしてるんですか?」
「昨日、また猫が逃げたので、届けてきた」
そうですか、と和香は笑ったあとで思う。
だから、それでなんで、今、ここに立ってたんですか、と。
「また逃げてきてはいけないから見張ってる……という口実のもと。
お前が出てくるのを待っていた」
そこまでしゃべるのなら、口実作る必要ありませんよ、と和香は思ったが。
「……俺自身への口実だ」
と羽積は言う。
「仕事でもないのに、お前につきまとったり、待ち伏せたりする自分に対して。
やめとけ、と思っている、『まだ冷静な俺』への言い訳のようなものだ。
ところで、考えてくれたか?」
「なにをです?」
「俺は昨日、お前に告白した気がするんだが」
するんだがって……と苦笑いしながらも、和香はスーツ姿の羽積を見て言った。
「今日も営業さんをやるんですね」
「ああ、昨日は休日出勤だったし。
なかなか、仮の仕事のわりに忙しくてな」
「……羽積さんは仕事柄、いろんな役を演じていて。
どれが本当の羽積さんかわからないなって思うんです」
「だから、好きになれないと?」
「いえ。
でも、例えば、私が羽積さんを好きになっても、それが本当の羽積さんかはわからないですよね?
でもそれ、私も同じだなって思うんです」
耳は階段を上ってくる足音を聞いていた。
そのリズムから、耀のものだとわかる。
もしかして、迎えに来てくれたのだろうかと思ったが、言葉は止まらなかった。
「私も同じですよね……。
自分の正体隠して、普通のOLを演じて。
それで、誰かが私を好きになってくれたとしても。
その人が見ているのは、本当の私じゃない気がします」
復讐をしたい私と、普通のOLを演じている私と。
どれが本当の私なのか。
そう憂いながら、和香は言ったが。
「いや……全部同じお前に見えるが」
と申し訳なさそうに羽積が言う。
その声に被せるように、階段を上がってきた耀が言った。
「莫迦め!
どの和香でも同じような金太郎飴だ。
演じ分けてるつもりなのか、この大根役者がっ!」
遠慮なく耀は罵倒してくるが。
和香には、それは耀のやさしさなのだとわかっていた。
この人は、どのお前も、なにも違わないから心配するなと言ってくれている。
……でも、私があなたの側にいること自体が問題なのですが。
出世街道を歩んでいるあなたの邪魔をすることになりますからね。
そう和香は思っていた。
俺は今、芸能人になりたい。
スポーツ選手でもいい。
婚約記者会見をやりたい。
昼休み。
ロビーで同期の男や時也と和香が楽しそうに話しているところに通りかかった。
それを横目に見ながら、耀は、婚約記者会見をやりたいな、と思ってしまった。
自分と和香が付き合っていると、みなに知らしめたい、と思ったからだ。
……いや、付き合っているわけではないのだが。
そんな雰囲気は確かにある
……と思っている。
実際には、そこにいる女性は和香だけではなかったのだが。
耀の目には、和香とその取り巻きの男たち、に見えていた。
……楽しそうだな。
いや、どうせしょうもない話をしているとわかっているのだが、と思ったとき、比較的、近くを通ったので、微かに和香の声が聞こえてきた。
「私、ストーブって、可燃粗大ゴミだと思ってたんですよね」
「……いや、なんとなくわかるけど」
とみんな苦笑いしている。
想像以上にしょうもない話だったな……。
なんでもいいが。
和香の周りはいい男が多いな。
羽積王子も含めて。
みんなを牽制するために、和香と噂になりたい。
耀は心底、そう思っていた。