「あ、あのっ、奥様は――」
(もし殺してしまったと言われたら、自分はどうしたらいいのだろう?)
頭の中がグルグルして、座っていなかったらきっと、美春はその場にくず折れていたと思う。
「前に話したことあったよね。結葉の幼馴染みの男。彼が来て僕を止めてくれたから……彼女は無事だよ」
偉央の言葉に、美春はホッとして今度こそ椅子からずり落ちて床にくず折れた。
***
「妻が出ていった理由、僕、美春にもちゃんと話していなかったよね」
偉央は小さく吐息を落とすと、床に座り込んだままの美春をじっと見つめてきた。
「立てる?」
聞かれてコクッと頷いて。
何とか椅子に座り直したけれど、美春の心の中はぐちゃぐちゃで、収拾がつかない。
偉央が自分のことを加屋ではなく、美春で呼んできたのは、彼が結婚してからは初めてのことだったから。
こんな状況にもかかわらず、美春は心臓がドキドキと恋心に弾んでしまうことに困惑する。
偉央は美春が前の職場に勤め始めた時、同期として一緒に入った唯一の仲間だ。
お互い独身の頃は、プライベートでは下の名前で呼び合って、ふたりでよく飲みに行ったりしていた。
もちろん、男と女なのでそう言う関係になったことも一度や二度ではない。
だけど、恋愛関係にまでは発展しないまま、宙ぶらりんで偉央が結婚してからは、一線引くようにどちらからともなく互いに苗字で呼び合うようになっていたのだけれど。
それが、久々に崩された瞬間だった。
「……性格の……不一致が理由じゃないの?」
美春は偉央から奥さんが出て行ったと聞かされたとき、勝手にそう思い込んでいたのだけれど、違ったのだろうか。
美春の視線の先、偉央はしばし逡巡するような素振りを見せてから、それでも顔を上げて美春を見つめてくると、ハッキリとした声音で告げた。
「僕は……結葉を失いたくなくて……鎖に繋いで監禁していたんだ。彼女は……そんな生活に耐えきれなくなって僕の隙をついて逃げ出した」
「え……?」
「――それが、妻が出て行った本当の理由だよ」
そう続けられて、美春はどう反応したらいいのか分からなくて。
「最低……だよね……」
なのに偉央が悲しそうにポツンとつぶやいた瞬間――。
「最低? 私は逆に奥さんが羨ましいって思ったよ? だって偉央、私にはそこまでしてくれなかったもの」
気が付いたら、自分でも意味がわからないことを口走って、偉央に驚いた顔をさせていた。
***
マンションでの一件があったからだろうか。
偉央と結葉の離婚は、ふたりの協議に想が同席する形で割とすんなり進んで。
偉央は結葉に財産分与とは別に慰謝料を上乗せすることを提示してきた。
結葉が、偉央のモラハラやDVで数年間苦しめられたことは明白だったから。
だけど結葉は偉央が提示した金額が相場より大きすぎることに渋って、そこの話し合いに一番時間を要した感じだった。
「絶対にっ。以前送っていただいたこの小切手の金額もそこから差し引いて下さいね?」
何度差し出してもそれを受け取ろうとしない偉央に、結葉が小さく吐息を落としてそう付け加えて。
結局相場にほんの少し上乗せした金額で話がついた二人だったけれど、想は二人のやり取りを聞いていて、結葉はもっと欲張ってもいいんじゃないかと言う言葉をグッと飲み込む。
あくまでも自分は以前のような間違いが起こらないよう、偉央を監視するためだけに同席しているに過ぎないのだと自分に言い聞かせて、二人の話し合いには一切口を出さなかった想だ。
それが結構ストレスだと気づかれたら、結葉はきっと気にするだろうから、その辺はおくびにも出さないよう気をつけた。
想は二人が協議離婚で離婚できないようなら調停離婚もありだと思って見守っていたのだけれど、二人はお互いに相手を思いやるばかり。
結局その辺りで話し合いが難航することはあっても、争う感じは微塵もなかった。
***
「マンションは売って財産分与の手続きをしようと思ってる」
偉央に言われて、結葉は瞳を見開いた。
マンションの購入資金は偉央が結婚前から持っていた蓄えから全て支払ったからだ。
結葉も生計をともにするのだから、と貯めていた貯金を差し出したけれど、きっとそんなの偉央が出した金額に比べたら雀の涙ほどにしかならなかったはずだ。
「でも……私、元々お金なんて殆ど出してないです。だから――」
もらうのはおかしいと眉根を寄せた結葉に、偉央は「結婚するときに生計をともにするんだから、と貯金をひとつにまとめてしまったのは誰?」と、ここに関しては譲る気はないと意見を押し通して。
慰謝料に関しては偉央が折れる形になったけれど、結局結葉は離婚にあたってかなりまとまったお金を偉央から受け取ることになった。
「離婚届は、結葉が出して?」と偉央は言ったけれど、結葉は「提出するところを偉央さんにも見届けていただきたいです」と言って譲らなくて。
結局偉央は自分で車を出して、結葉は想が乗せて行く形で連れ立って役所まで行く形になった。
結葉が離婚届を提出するのを、少し離れたところで偉央と想が見守って、ある意味とても呆気なく二人の離婚は成立したのだった。
***
離婚届を提出して、さあ帰ろうと車にエンジンをかけたところで。
「想ちゃん。私ね、偉央さんのご両親に……子供が産めない嫁は要らないって言われちゃった……」
結葉がポツンとつぶやいた。
「えっ。――何だよそれ。いつの話だ⁉︎」
そんなの初耳だった想だ。
思わず「いつ」とか責めるみたいに問いかけてしまって。
グッとハンドルを握りしめて、心の中に渦巻く激情を何とか逃そうと頑張る。
「――ちょっと前に。その……向こうの親御さんから私の携帯に電話がかかって……きたの」
結葉は山波建設宛に偉央からの荷物が届いてすぐ、偉央と離婚する様になるであろうことは伏せたまま、義理両親に連絡先が新しくなった旨を知らせたらしい。
「教えるかどうか迷ったんだけどね、キッズ携帯は通じないから……ご心配お掛けしちゃうかなって思って。それで――」
「だからってわざわざ」
「うん。想ちゃんの言いたい事も分かってるつもり。だから今まで言えずに黙ってたの。ごめんなさい」
しゅんとする結葉に、想は小さく吐息を落とす。
「俺の方こそ頭ごなしに否定しちまってすまん。多分……お前にはお前なりの考えがあってのことだったんだよな? ――ちゃんと聞くから。お前の思い、俺に聞かせてくれるか?」
想の言葉に、結葉がギュッと手指を握り締めたのが分かった。
コメント
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子供が産めない嫁はいらないって😢 そんな事を今言う? もっと早く想ちゃんに話せばいいのに😔 偉央さんにも言えば良かったのに。