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氷は自らの口から出た言葉に、自らが驚いていた。自分でもなぜこの言葉が出て来たのか分からなかった。
だが……後悔はない。
目をまん丸に見開き呆然とする雪を見遣る。雪の唇がわなわなと震えた。
「ど……ういう、つもり? わたしから『名』を告げれたくないってこと? わたしの存在意義を……否定するの?」
「……だって、名を告げられたら…………もう一緒にいられないじゃないか」
雪は氷の本心を聞いて、纏う雰囲気を一変させた。頼りない少女のものから、厳格な名告主のものへと。《雪》である彼女と『名告主』である彼女の間には明確な差は存在しない。それでもその違いを感じられるのは、氷が敏感なだけか、それとも。
「……そんなの、迷惑極まりないわ。『名』が要らないのなら、さっさとどこかに行きなさい、『物の怪』」
氷は雪の拒絶にどうしたものかと頬をかいた。別に、今以上の距離を求めているわけではないのだ、そう嫌がる必要はないだろう。彼女の役目が終わるまで、側にいたいだけだ。雪の最後を見届けたいだけだ。
雪は上げていた眉を不意に下げ、泣き疲れた子供のような顔をして、氷の手を取る。
「それとも……何? 今ここで、わたしと死んでくれるの?」
雪は氷の手に爪を立て、壮絶な笑みを湛えて氷を見上げた。氷の呼吸が一瞬止まる。突き放すように雪はこう告げた。
「……それは、嫌なのよね。だったら来ないで。わたしに付き纏わないで。……わたしが汚れてしまうわ」
氷に嫌われるために放った雪の一言は、その実まるで氷を傷付けてはいなかった。
雪の両眼から、水ではない何かが流れ落ちる。今まで流れなかった分を補填するように、止めなく溢れたそれは、かつて雪が欲しくてたまらなかったもの。
雪の手に、また氷の手に、それは零れ落ちた。
「…………泣き虫?」
「……うるさい無礼者。『物の怪』ごときに、わたしが泣かせられるわけないでしょう」
すんと鼻を啜って雪は氷に言い返す。そしてなおも震える彼女の手を、氷は握った。
雪の魂に残っている名がそれほど多くないのは、氷も知っている。名が無くなれば、雪の命の残量も減っていく。それが名告主だ。それが雪だ。
その隙間に、寄り添えるのなら。
「いつか雪がいなくなるその日まで、ぼくは雪について行く。そしてこの目に雪の最後を焼き付ける」
「……何それ。悪趣味」
「それでもいい」
雪は目を伏せた。朝露にも似た粒が、地の草花にかかる。「……うん。もういい、《氷》の好きにすればいい」
氷は雪の言葉に顔を綻ばせた。
……だが。
雪の決意は氷よりも硬かった。
「____氷に、それができるのなら」
氷の意識が遠のく。抗えない眠気に襲われる。氷の耳に残ったのは、淋しげな雪の声のみで。
次に彼が目を覚ました時、雪は彼の側にはいなかった。
○
____当時の名告主が何を思い、氷に名を告げたのかは、今となってはもう分からない。ただその名のせいで氷が不利益を被ってきた事だけが確かだ。
親兄弟はそんな氷でも優しく接してくれた。他のものと変わらない大きな愛情で包んでくれた。
それなのに。
結局の所、氷の《邪悪》が仇となって人間に見つかり、親兄弟は討伐された。
最小年だという理由だけで氷だけが逃がされた。氷は自らの命に何の価値も見出せなかったのに、氷だけが逃がされた。
己が認められぬ自分自身を、認めるもののいなくなった自分自身を、どうして大切にできるだろう。
氷は当てもなく山を彷徨い、空腹に倒れた。
静かに降り積もる雪を見て、このまま死ねば、雪と同じように綺麗になれるのかと思った。あの、白い、精霊のような雪と、小さく、細かく、輝きを内包した雪と同じように。
同じような夢を何度も見て、夢想して、何度繰り返して起きてもも生きている自分が嫌になり、また夢を見た。
それは幸福な夢だ。どこかで優しく名を呼ばれる夢だ。
このまま夢の中に溶けて消えてしまうのも、悪くないかなと氷が思い始めた頃。
『物の怪の子が、簡単にくたばらないで。わたしが助けてあげるから、《死》なんて名前捨てなさい』
《雪》と邂逅した。
____刀身を研ぐ。今よりももっと鋭く、初めの状態へと戻るように。
一人何も喋らず黙々と作業している氷を見て、雪が不思議そうに尋ねた。
『どうしていつも刀を使わないのに、持ち歩いているの?』
氷は少し考え込んでから雪に問い返した。
『雪はなぜ刀を持たないんだ?』
氷にとって刀とは、側にあるのが当たり前の存在だった。物心ついた時から刃の使い方を教わり、片時も離さぬよう厳しく言い付けられていた。
『わたしが刀を嫌っているから』
ゆえに雪のその気持ちは氷には理解できないものだった。危険物であるし、触りたくないのだろうと適当に理由付けをして納得する。
雪がふと思いついたように提案した。
『じゃあ氷。剣技を見せてもらえるかしら?』
『…………どうして』
『わたしが見たいから』
淀みなく言い切った雪の目には期待の色が濃く滲み出ている。こうなっては名告主様の希望を叶える他ない。氷は小さくため息をついて思い腰を持ち上げた。
名の無い氷の愛刀が舞う。散っている花弁の間を縫う針のように雪には見えた事だろう。氷の少ない特技が氷の家系に代々伝わっていたこの剣技だった。
数分ほど剣技を見せたところで氷は刀を鞘に収めた。名残惜しそうな雪の声が響く。
『もう終わり?』
『……ぼくは次の場所に期限までに辿り着けなくても、知らないから』
『それは困るわね』
どうして名告待である自分がわざわざ雪の予定を管理しなければならないのか。心中でそう独りごちた氷の表情は微かに緩んでいた。
雪と過ごした数年間は、氷から何かを奪う事なく過ぎ去った儚く尊いものだった。優しい時間の集まりだった。それを、そんな当たり前の事に雪と別れる直前まで気付けなかった自分に腹が立つ。そして雪の気持ちに、気付かないふりなんてするべきではなかったのに。
それでも、自分を責めて諦めるなんて愚行はもう起こさない。
もう一度、彼女の側にいるために。
自分よりも遥かに短い彼女の生の最後を見届けるために。
____奇跡でも何でも、起こってくれ。
○
長い夢から覚めた氷は、すぐさま雪の足取りを追おうとした。が、しかし。
「雪め……」
氷の口から恨み言が漏れたが、それも致し方ない。氷の周りを囲むのは無数の罠だ。一歩も氷を動かさないという雪の思いが溢れ出ている。
まず氷の右前方と左に見えるのは大きな落とし穴。大きな穴を掘るのに時間がかかったのか、カモフラージュは適当だ。迷惑極まりない。
次に氷の左後方と右後方に見えるのは撒菱だ。どこから調達したのだろう、甚だ疑問である。
その他にも見え見えの罠が仕掛けられていたが、どれもこれも氷の妨げにはなりそうにならなかった。
きっとこの辺り一体の木がなくなってしまうが、その位で思い留まる氷ではない。
__全て斬ればいいのだ。それで全てこの罠を対処できる。
思い立ったら即行動。この時の氷の頭の中に急がば回れという言葉は無かった。
すぅと深く息を吸い、長らく実践で抜いてこなかった刀の柄に手をかける。
____一閃。
たったの一抜きで全ての罠を壊しきる。刀の使い方を体が覚えていた事に、氷は安堵の息を吐いた。
空を見上げ、氷は太陽の位置で時間を測る。どうやらあれから三日は寝込んでいたらしい。
日時を確認した彼は人目もくれずに駆け出す。持てる限り全ての力を注ぎ込み、物の怪の全速力で走る。
雪が行きそうな場所には、心当たりがあった。
「…………やっと来たか、この鈍間」
「雪の居場所を教えてくれ、神楽」
「い・や・じゃ」
神楽は突然何の前触れもなく訪れた氷に冷たい目線を浴びせると、駄々っ子のように横を向いた。やはり雪はここに来ていたのだ。誤魔化せられようが何としてでも情報を引き出さねば、と緊張感を持っていた氷は、あっけなくこの座敷童が真実を告げた事に拍子抜けする。
いやだ、と言うからには、確実に神楽は知っている。
「頼む」
「いやと言ったらいやじゃ。諦めろ、氷」
神楽は雪が向かった先も、その目的も行き着く先も見えているのだろうか。前回会った時のような頑なさはなくなり、その代わりにやるせなさをその瞳に宿していた。
「お主も、神楽も予想しなかった目的のために雪は動いている。神楽達にできる事は何もない」
「……そう言う割には、やけにあっさり話してくれているな」
「お主を諦めさせるためじゃ」
「それは無理だな」
氷は肩をすくめた。自分でも、こうする、と決めたらそれに向かって一直線になってしまうなんて思っていなかったのだ。この湧き出る原動力と呼ぶべき何かは、たとえ雪がいなくなっていたとしてもなくならないだろう。
神楽は氷の答えに目を大きく見開き、きっと氷を睨む。神楽の両眼から大粒の涙が流れ出す。そしてずっと溢れ続けていたものを、氷にぶつけた。
「…………それなら……どうしてッ、雪がこうする前に止めなかった! どうして名を受け取らなかった! どうして……どうして……お主が代替わりして新たな名告主にならなかった!」
「……代替わり?」
氷の声にはっとしたのか、神楽は頭を振った。
「……何でもない。忘れてくれ、今のは戯言じゃ」
見え見えの嘘をつく神楽の顔は、今までに見ないほど蒼白で、まるで先ほどの失言の中に隠すべきものがあったようだった。
攻めるならここだ、と氷は察する。
「代替わりとは何だ。名告主は死ぬまでその責を負うのではないのか」
「…………」
「それとも、自らの寿命を残したまま、他のものに負わせる事ができるのか? その責を。役目を」
「………………」
神楽は唇を噛んだまま何も喋らない。何も告げない。雪との約束を守らなければならないという義務と、彼女の幸せを願う想いとが拮抗する。
神楽は『守り』に特化した物の怪だ。そう易々と約束を破れはしない。ここに氷と神楽しかいないのであれば、氷はこのまま何の情報も得られなかったであろう。
けれどもここには、『神楽を守る』事に特化した物の怪が、いた。
大きく聖域が揺れる。十秒、二十秒と揺れる。神楽の制止の声も聴かずに、ただ空間を揺らすのは__風雅だ。
「止まれと言っているであろう風雅っ。何をしているっ⁉︎」
「だって神楽。嘘ばっかり。辛い。悲しい。のに。いいよ。雪との。約束。守らなくて。いい。自分。減らして。いらない」
拙い言葉で紡ぎ出されたのは風雅の本心だ。ずっと独りで苦しんできた神楽の側に寄り添いたいと願い生まれた物の怪の心だ。
「神楽。動けない。風雅も。無理。だから。託せば。いい。代わりに」
神楽を第一に考える物の怪は、他がどうなろうと知ったことではない。神楽の心の平穏が守られればそれでいい。守ってくれていた神楽に報いる事が風雅の存在意義だ。
だからこそ、ぶれない。その言葉が本心からのものだと分かる。
神楽は涙で濡れた顔をくしゃくしゃに歪めた。
「うるさい……っ、うるさい……っ!どうせ神楽には、何もできないし何も決められない! それはどの物の怪でも同じだ! 存在が不確かなもの達が、何かを変えられるわけがないだろう……!」
物の怪でなければ。例えば人であったなら、雪と同じ半妖であったなら。そんな仮定の話ばかり浮かぶのは、神楽が現状に疲れ切っている証拠だ。
「……そんなの、当たり前じゃないか」
神楽の叫びを受け止めた氷は、そう淡々と己に告げた。神楽の言ったことは事実だ。そんな事、とうの昔に知っている。だから、そもそも氷は雪の何かを変えるつもりは全く無かった。
ただ側に在るだけだ。かの半人半妖半神の行き着く先を、その終わりをみるだけだ。ただそれだけなのだ。
「それなら……どうしてお主はあの子の、雪の側に行くのだ」
「そこが、その居場所が好きだから」
「…………物好きな奴」
神楽も同じようなものだろうと氷は考える。__そう考えると、何だか非常事態だというのに笑いが込み上げてきた。
神楽は乱暴に涙を拭う。涙を流す前に、やる事ができた。神楽は氷を、確かな決意が篭った目で見つめた。
最後の『名告げ』まで。
____あと、数時間。