冷気が辺りに満ち満ちている。薄らと、空から雪が舞い降りてきた。
まるで、いつかの冬のようだ。そう何の感慨もなく呟いた《雪》は、吐く息が白くなっている事に気がつく。白く濁ったそれらは、他でもない雪の心中を表しているのだろうか。
雪は手を擦り合わせる。寒くはないが、万が一悴み手元が狂ってしまてはいけない。
準備は整っている。あとは__名を告げて返すだけだ。
先代でもできなかったそれを、雪が成し遂げられる保証はない。失敗する確率の方が遥かに高い。だが、雪は成功しなければならない。
雪が失敗した時、次に名告主になってしまうのは、雪もよく知る少年だ。それだけは絶対に避けなければ。
「…………」
名告主になる方法は主に二つ。世界が選び出す方法と、名告主が次の名告主を決める方法。雪は後者の方法で選ばれたのだと思う。というのは、結局先代の名告主は雪を次の名告主にするつもりはなかったからだ。あくまで自らがしくじった時の保険として、雪を育てていただけにすぎない。
……そして、名告主が後継を指示せずに死んだ場合、魂に告げられた名の最も多いものが次代の名告主となる。
だから、絶対に雪は失敗してはならないのだ。
雪の身体が、寒さではない何かで震える。
____怖い。
ここには雪ひとりしかいない。成功しなかった時に、雪の首を斬るものはいない。独りで全てこなす必要がある。誰にも雪は赦されない。
____独りは、怖い。
いつの間にか雪はがたがたと震え出した身体を抱き締めていた。珍しい事に、彼女は不安に駆られている。歯を食いしばってみるが、震えは治らない。むしろより一層震え出す。
____声が、聞きたい。
何だか辛くて苦しい。温かい声が聞きたい。雪が、知っているひとの。雪の、大事なひとの、声が聞きたい。
彼らを遠ざけたのは他ならぬ自分自身だというのに、この願いは矛盾していると自分でも思う。とうとう壊れてしまったのかと雪は自嘲する。大きく笑おうとして、何度か息を吸って、吐いた。雪はとうとう笑えなかった。
雪の口から笑い声の代わりに漏れたのは、ただの嗚咽だった。迷い子の泣き声だった。あるいは家出した行く当てのない少女の叫びだった。氷と別れた時から枯れていた涙が、また流れ出す。真白の精霊が、雪の頬を撫でた。
こんな仮初の温かさは雪には要らないのだ。流して、自分は独りだと再確認するようなものは、あっても虚しくなるだけだ。だから雪はこの涙を、この苦しみを捨て去ってしまいたかった。
……そんな事はできないと雪は自分でも分かっている。
これが心だ。これが人であり物の怪であり、そしてまた神である己の、大事な構成要素なのだ。
__あぁ、心とは、こんなにも憎らしくて鋭くて、甘えたがり屋で、寂しがり屋で、愛おしいものなのか。
今まで雪は、それを分かっていたようで分かっていなかった。
__ならば。痛みを原動力に変えよう。ぼやけた視界のまま進もう。温かさは、きっともうないけれど。
冬の空は、あの日と変わらず、同じように雪を見下ろしていた。
○
同時刻。神楽の聖域にて。
神楽から全ての情報を聞き出した氷は、雪の計画の無謀さに驚いていた。
「…………それで丸く事が収まると思っているのか、雪は」
「さあ。失敗したらそれでもいいと考えてそうじゃな。神楽は雪のこころまでは分からん」
鞠に座った神楽は氷の胸辺りを指差す。縁側に座った氷は風雅に問いかけた。
「なあ風雅。お前は何か知らないか?」
「風雅。知らない。寝てた。から。神楽。雪に。何か。した?」
耳に直接響くような風雅の声の出し方も、慣れてしまえば会話も簡単に成立する。風雅の問いに神楽は目を泳がせながら、ボソッとこう呟いた。
「……目下一番の障害は、神楽が雪に張った隠密の結界だ。あれがある限り正確な居場所は掴めぬ」
「……何してるんだよ」
「……面目次第もない」
雪に頼まれたから断れなかったと開き直る神楽。言い訳は嫌いだと言っていたのに、ものの見事に自分の事は棚に上げている。氷と風雅、そして神楽の間に気まずい沈黙が転がり落ちた。
「と、ともかくまずはあの、公家の屋敷に行くのじゃ。うまくいけば椿が雪の行先を教えてくれるかもしれぬ」
神楽は紙に筆を走らせ、速筆で手紙を書く。氷は嫌いな人間のいる屋敷に行かなければならない事にひと知れずため息をついた。氷が何をしても、あの老婆から情報なんて得られそうにない。煙に巻かれそうな気さえする。
氷の背中を神楽が叩いた。
「ほら、しゃきっとしろ。神楽からの紹介状があればきっとすぐに協力してくれる」
神楽と佐野は数十年前、この屋敷で会って遊んでいたそうだ。もっともそれは、佐野が子供の頃の話で、神楽が守護していた一家が潰れてからは会っていないそうなのだが。
「椿はいい子だから、きっと氷も仲良くなれるはずだ」
神楽の中の佐野は、いつまで経っても子供のままのようだった。
「名告主様ですか? 確かにここに来ましたけれど……彼女の行方は教えられませんよ」
「……なぜ」
「相応の口止め量を頂きましたから」
頬に手を当て、困ったように微笑む佐野はどこか上機嫌だ。前よりも更に腐臭の強くなった屋敷に氷が顔を顰めると、佐野は悪趣味にも「上がります?」と尋ねる。氷は首を振る代わりに、威圧を声音に乗せた。
「口止め量としてお前は何を要求したんだ」
「命を」
氷が殺気立つ。佐野は氷の反応をも楽しんでいるようで、氷の殺気に怯むどころか笑いながら続きを口にする。
「……と願いましたが、さすがに却下されましたよ。命以外で、儀式に支障が出ないものでと。だから、髪を少しばかり頂きました」
半人半妖の名告主が現れるなど相当に珍しく、その身体の一部はとても貴重なものだ。一時彼女の言いなりになろうとも、十分にお釣りが来る、価値の高い代物。術の贄としても最高品質を誇るだろう。
佐野の機嫌がいい訳をようやく理解した氷は、雪がここへ来た理由へと思いを巡らす。それは雪の目的に必要で、この佐野の家でしか手に入らぬものだ。人脈か、術の知識か、それとも。
考え込む氷を微笑ましげに見つめる佐野は、雪がこれから成そうとしている事を知っているようだった。
「まあ、精々頑張って『あの子』を探して上げてくださいな。これでも私、あなた達を応援しているのです」
「…………だったら関わらないでくれるか」
「今回先に接触してきたのはあなた方ですよ? 私はそれに応えただけで、これ以上関わる気はありません」
ゆっくりと目を閉じる佐野。彼女を訝しげな目で見つめる氷。「…………」
氷は何も言わずに佐野に背を向けた。血の匂いの蔓延しているこの場所から一秒でも早く去りたかったのかもしれない。
佐野は、去り行く氷の背中に言葉を投げかける。
「神楽様にはよろしくお伝えください。また機会があれば伺うと」
それから、一際張った声で。
「あの子の決意は何に基づいているのか……くれぐれもお忘れのないように」
氷は小さく「分かっている」と、そう返した。
○
白く染まった大地に、紅の血で弧を描く。手早く繊細に丁寧に描く。大量の失血により頭がくらくらするが、我慢する。
一度見た正解を脳裏に思い描いて、細部まで調整する。少しのズレも許されない。
ひと段落ついたところで、雪は大きく息を吐いた。額に滲む汗を拭う。
「まだ、大丈夫」
竹の水筒に汲んだ川の水は少し前に底をついた。水分補給はもうできそうにない。いつも懐に忍ばせていた小刀を再度手に取り、握る。血が溢れた。これで三度目だというのに、痛覚は麻痺せずに雪に訴えかける。じんじんと傷口は痛み、妙な熱を持つ。最低限の止血を済ませ、雪はまた血で紋様を描き始める。白に朱色がよく映えた。
淡々とした、面白味の欠片もない作業。体力ばかりが削られる。師である彼は、どうやってこれを描いていたのかと雪はふと考えたた。出来上がった陣の壮大さばかりに気を取られて、その事はあまり覚えていない。けれど、雪の記憶にある彼はいつも喜怒哀楽を前面に出していた。さぞかし煩く雪に面倒臭がれながらこの作業を行なっていたのかと思うと、少しだけ雪の気持ちが楽になった。
まだなお、雪の手に残る師の首を斬った時の生々しい感触も、今ばかりはありがたく感じる。自分を、自分の意思を、役目を再認識できるからだ。
__かつて雪の師は、自らの代で名告主を終わらせようとし、失敗した。彼に残された時間はそれ程多くなく、また名告主としての役目を多くこなした為、人格にまで影響が出ていた。だからこそ、儀式が失敗した際に自決したのだ。
全くもっておかしな師だと雪は思った。弟子の気持ちも何も分かっていなかったではないかと。恨みまじりに心の中で罵る。もちろん、返事はない。
陣の生成は最終段階に入った。あとは微調整をして、祝詞を唱えるだけだ。
「……………………」
意味もなく雪は辺りを見渡す。ここへ来られないようにあらゆる策を練ったはずで、何に期待しているのだろう。
「誰も……いないわよね」
神楽に隠密の結界をかけて貰い、わざわざ佐野のところまで赴いてひと目に付かない土地を借用し、双方に口止めをした。神楽は約束を破らないはずだ。佐野も、雪の髪を超える価値のものを渡されない限り、口は割らない。
____だから、氷はここには来ない。
そのはずだ。そしてもう二度と雪とは会わないだろう。失敗したとしても、成功したとしても、世界に叛いた雪にどんな罰が下されるのか分からない。例えば、自我を完全に奪われ、暴走してしまうのかもしれない。そうなる前に、雪も師と同じように自決するつもりだ。
死ぬのは不思議と怖くない。自分のせいで誰かがいなくなる方がよほど怖い。ただどうせ死ぬのなら、楽に死にたいと雪は思う。
それでいい。この身に過ぎた願いは、叶わないのだから。誰も叶えてくれないのだから。
雪は名告主として、最後の名告主となる為に、今生で最後の名を告げる。相手は他でもない、この世界だ。狂って歪で、嫌いで、愛おしいこの世界だ。
雪は重い口を開けた。血の味が、微かにする。悲しみも昂揚も織り交ぜて、雪は言の葉を紡ぐ。
「____今から我が告げるのは、汝から託された、ただの役目の御名なり」
気を抜くと声が震えそうになる。表面上は平静を装わなければならない。数十文字しかない祝詞は、告げるものに確かな精神的重圧をかける。
「我は常なる少女なり。役目を果たせぬ身の上なれば、汝から託たれし名を、返す要ありとぞ思ふ」
雪はここまで述べたところで、焦りに焦っていた。次の祝詞を、思い出せない。必死で記憶の中を探る。幸いなことに、見つかった。
「いざいざこの名を受け取り給へ。汝のものは汝が持ちたるべし」
あと少しだ。そう心中で呟いた雪は、目に映る光景が揺れている事に遅ればせながら気が付いた。地震ではない。貧血により雪の身体が揺れているのだ。気が付いた瞬間、痛みが雪の精神に追いつく。意識が朦朧とする。
もう、終わってしまうのだろうか。この命も、雪としての生きた意味も。
雪は脳裏にそんな言葉を浮かばせ、意識を手放し____。
倒れる彼女を支えた手の感触に、覚醒した。
○
氷は必死で、倒れそうになっている雪の背中を受け止めた。間に合ってよかったと内心でほっとするのも束の間、雪の意識を取り戻させようと彼女の背を揺らそうとして、その目が大きく見開かれている事に気が付いた。
父親譲りだという青い目の色の中には、驚愕と安堵と怒りが混ぜ混ぜになっている。怒鳴りたいのだろう、何度も口を開いて閉じてを繰り返している。怒鳴りたいのは、言いたい事が沢山あるのは氷も同じだ。だからそんな恨みがましい目で見ないでほしい。
本当に大変だったのだ。神楽の掛けた結界の隙間から漏れ出る雪の匂いや佐野家が保有する土地をしらみ潰しに調べ上げ、やっとの事で見つけたら、とうの本人は疲労で倒れかかっているなんて誰が想像できるだろう。
私怨はさておき、はやく成功させろ、という意味を込めて氷は肩まで短くなった雪の白い髪を引っ張る。頭を押さえて氷を睨んだ雪は、彼の表情の持つ意味に気が付いただろうか。
雪は口の端でいつものように微笑み、意志の強さをその瞳に宿して氷に頷いてみせた。
____そしてただの少女は、最後の『名』を告げる。
「汝に告げる『名』は《名告主》。…………今、ここに、古き役目の終はりを宣言する!」
そう言うと同時に、雪の身体はまるで糸が切れたかのように、崩れ落ちた。
あなたが汚いと思うものでも、わたしは綺麗だと思ったり。
あなたが好きというものでも、わたしは嫌いといったり。
全く同じひとはいない。そう分かっていても完全な相互理解は難しいのでしょう。
だからこそ争いが起こり、悲劇は生まれます。どうして分かってくれないのと嘆きます。
____けれど、あなたが等身大のわたしを見てくれた時。わたしを見つけてくれた時。わたしを求めてくれた時。
その時わたしはそこに、一片の希望を見つける事ができるのです。
●
__ねぇ、知ってる? 最後の名告主様の話。世紀の大事件について。
もちろん知ってるわ。彼女、最後には死んだんですってね。それも仕方ないのかしら。
え? 彼女は名告待だった少年と一緒に寿命が尽きるまで旅したんじゃあないの?
でも結局、名告主の名をこの世界に返した後、世界は変わらず動いて、名なんて今はもう何の意味のなさないものになったんでしょ。何だか変な気分になるわ。果たして彼女達は本当に幸せだったのかしら?
私は最後、その少年も悲しみに暮れて、彼女の後を追って自殺したって聞いたよ? 悲劇でしょ、この話。
皆、てんでばらばらね。どれが本当か分からないでしょ。
それは……まあ。うん。
そういうあなたは知ってるの? 本当の彼女達の話。
もちろん。……あぁ、でもね。彼女達の話に、明確な終わりはないのよ。それはなぜか分かる?
えー。もう頭使いたくないよ。
まあまあ、そんな事言わずに。その理由はね。
____《終わり》の名を告げるものが、いなくなったからよ。
●
温かい太陽が月に遠慮しながら顔を覗かせる。冬の早朝だ。鳥も獣も、そして物の怪も寒さに身を縮こませ、今日を始める準備をする。それは無謀にも冬の野山で野宿をしたこの少年少女も例外ではない。
夢の中へと戻ろうとする目を擦る少女は、純白の髪と宝石のような青色の瞳を持っている。彼女の名は《雪》と言った。彼女はただの半人半妖だ。
そしてそんな彼女に起こされている漆黒の髪を持つ少年の名は《氷》といった。彼はただの物の怪だ。
役目を返して絶賛休暇を満喫中の雪は今、楽しみ見分を広める為の旅をしていた。氷は道連れだ。それを氷も受け入れている。
__半分を三つ足したものから半分を一つ引いても、それは何の影響も及ぼさず、むしろ不安定だった雪の存在を安定したものへと戻しただけに過ぎなかった。
これはただそれだけの、最後の名告主の話だ。だからこの話の続きは語られない。もしこれから何か語られるとすれば………………そう。
____ただの雪と、氷の話だろう。
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