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恋する警護パロ『護衛以上恋人未満』~i×f~
Side深澤
春の風って、なんでこんなに胸を高鳴らせるんだろう。
駅を降りて、桜並木を抜けて、まだ真新しい学生証をポケットに忍ばせながら歩いているだけで、俺はもう浮き足立っていた。
やっと、やっと俺の大学生活が始まる。
これまで実家から高校に通う毎日で、「一人暮らししたい」って何度も親に訴えてきたけど、いつも「危ないから」とか「お金がかかるから」とか言われて相手にされなかった。だけど今回は違う。親も「大学で新しい世界に飛び込むんだから」と渋々首を縦に振ってくれた。
――――――――念願の一人暮らし。
――――――――自由。
誰にも邪魔されない俺だけの空間。
友達を呼んで夜通ししゃべってもいいし、気になってる女の子……いや、大学生だし彼女、だよね。彼女を作って家に呼んだっていい。深夜にラーメンすすっても、ゲームしても、誰からも小言言われない。
俺はこの日のために、家具もカーテンも全部、自分の好みに合わせて選んでおいた。シンプルな白のカーテンに、ベージュのソファ。部屋全体は落ち着いたトーンでまとめたつもりだけど、クッションだけはオレンジやブルーを置いてアクセントにした。……いや、まだ見てないけど、想像するだけで笑顔になってしまう。
スーツケースをゴロゴロ転がしながらエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。ボタンを押す指が震えてるのは、緊張じゃなくて高揚感のせいだ。
「俺の部屋……俺の部屋かぁ」
思わず声に出してしまう。誰もいないから、こうやってひとりごとを言えるのも一人暮らしの醍醐味だろう。
エレベーターが目的の階で止まると、カチリと軽い音が鳴って扉が開いた。廊下に差し込む午後の光がやけにまぶしくて、俺は眩しそうに目を細めた。まだ新しい建物特有の香りが漂っていて、思わず深呼吸をする。
ここが、これから俺の毎日が始まる場所。
ポケットから鍵を取り出す。銀色の新しい鍵はまだピカピカしていて、光を反射して俺の胸の奥まで輝かせる。
「よし、第一歩だ」
心の中で気合を入れ、鍵穴に差し込む。カチャリと音がしてドアノブが回る瞬間、胸が高鳴った。
……でも、次の瞬間。
「――あれ?」
ドアを押し開けると、そこには俺が想像していた静かな部屋ではなく、すでに”人の気配”があった。
玄関に立っていたのは、見知らぬ男。
黒いスーツに身を包み、背は俺より高い。肩幅が広くて、姿勢は軍人みたいに真っすぐ。鋭い目つきでこちらを見据え、表情は固く動かない。
「……っ!」
思わず荷物を落としかけた。
なんで? なんで俺の部屋に人がいるんだ?
誰? なんでスーツ? なんでこんな無表情?
男は一歩前に出た。靴音がやけに大きく響く。
俺の心臓は、期待と興奮で跳ねていたはずなのに、急に警報みたいに鳴り響いて、息を呑んだ。
男は名乗りもせず、まっすぐ俺の目を射抜くように見ていた。
口を開こうとした瞬間、先に言葉を発したのは彼の方だった。
「防犯がなっていません」
低く、よく通る声。その声に思わず背筋が伸びる。
「は?」
俺がきょとんとする間もなく、男はドアの内側に手を伸ばし、鍵のつまみをカチリと回した。
「例えばここのロック。外から少しの力で細工すれば、すぐに開いてしまいます。普通の学生や家族向けならまだしも、あなたの立場では危険です」
そう言いながら、懐から細い金属の器具を取り出すと、ほんの数秒で鍵を外側から開けて見せた。
「……お、おい! ちょ、ちょっと待てよ!」
「見てください。たったこれだけです。泥棒や不審者は、数分で侵入できます」
冷静に説明しながら、淡々とドアを開閉してみせる。その所作は無駄がなく、俺の抗議なんてまるで耳に入っていないようだった。
「さらに、この窓。低層階でなくても油断は禁物です。侵入者は上階からでも降りてくる。格子は形だけのもの、鍵は簡単に壊されます。衝撃に弱い。補強が必要ですね」
男は靴を脱ぐこともなく部屋の奥へと進み、窓辺に立つと指先でサッシを軽く押した。ガタリと音がして、確かに少し緩んだ。
「ほら、こうなる。……危険です」
「いや、ちょ、ちょっと待ってよ! 誰なんだよあんた!」
思わず声を張り上げたが、男はまったく怯む気配を見せない。むしろ、こちらの言葉を遮るように続けた。
「この玄関からキッチンまでの動線もよくない。死角が多い。もし侵入者が刃物を持っていた場合、あなたは逃げ場を失います。家具の配置も考え直した方がいい」
「は、はぁ!? 家具は俺が選んだんだけど!?」
「安全性が優先です」
断言されてしまい、口をぱくぱくさせることしかできなかった。
「それに、このカーテン。白。外から影が丸見えになります。夜に電気を点ければ、あなたがどこに立っているか、何をしているかもわかってしまう。狙う側からすれば格好の的です」
カーテンをシャッと引き、透け感を指摘する。俺は頭を抱えた。
「……いや、知らないよ! 俺はただ、おしゃれだと思っただけで……」
「センスは理解します。しかし、防犯としては失格です」
容赦のない言葉が次々に降ってくる。まるで講習会。しかも俺の部屋で。
「さらにこの位置にあるソファ。背後に窓があるのは良くない。狙撃される危険性が高まります」
「狙撃って! 誰がそんな大げさなことするんだよ!?」
「油断が一番危険です」
またもきっぱり言い切られ、俺は押され気味でただ頷きそうになる。だめだめ、この流れに飲まれたら負けだ。
「――って、違う違う!」
俺は思い切って声を張った。
「ていうかあんたが誰なんだよ!あんたこそ不法侵入でしょ!」
勢いに任せて叫んだその瞬間。
男の動きがピタリと止まった。
振り返ったその顔は、驚きも怒りも浮かべず、ただ真剣そのもの。
「……それは失礼しました」
短く頭を下げ、ようやく彼は言った。
「私の名前は〇〇照。あなたの専属SPです」
「……は」
一拍、理解が追いつかない。
耳がおかしくなったんじゃないかと疑った。
「専属……え? えぇ? SP? 俺の?」
間抜けな声しか出ない。
「そうです。あなたの安全を守るため、二十四時間体制で警護します」
淡々と告げられたその言葉に、思考が一瞬で真っ白になった。
「は……はぁぁぁ!!?????」
俺の絶叫が、まだ何も置いていない新しい部屋に反響した。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
俺は慌ててポケットからスマホを取り出した。指が震えて、うまく画面のロックが外れない。何度もパスコードを押し間違えて「このデバイスは○分使用できません」なんて出てきたらどうしよう、なんて頭をよぎりながら必死で数字を叩いた。
隣で無表情のまま立っている岩本とかいう男の視線を背中に感じる。こっちはパニックで頭が真っ白なのに、あいつは一歩も動かずに冷静そのもの。まるでこの状況を”当たり前”と思ってるみたいだ。
……いやいやいや、当たり前じゃない!
俺の部屋だぞ!? 俺の自由の城だぞ!?
何で開けた途端にSPやら何やらがいるんだよ!
「出ろ出ろ出ろ……っ!」
呼び出し音が鳴り響き、ようやく親の声がスマホから聞こえてきた。
「おー、辰哉? もう部屋ついたのか?」
「ついたのか? 違うよ! ついたら知らない男が立ってる!こわい!」
俺は開口一番、怒鳴ってしまった。
「……ん? ああ、もういたか。早いなぁ」
「早いなぁ、じゃないでしょ!? 誰なんだよあいつ!!」
「いや、大事な息子が心配でなぁ」
のんびりした父親の声。
「心配? 心配だからって何勝手なことしてるんだよ!」
「そこのマンション、専属SP付きのマンションなんだ」
「……は?」
耳を疑った。
「専属……SP?」
「そうそう。だから今そこにいるSPさんが、隣の部屋に住んでてね。お前のことを二十四時間、警護してくれるんだ」
「……はぁぁぁあああああ!?!?!?」
叫び声でスマホを取り落としかけた。慌てて拾い直し、半分泣きそうになりながら親に食ってかかる。
「SPって……SPってなんだよ!!! すっぱいプリンの略!? あんなのがお隣さんってどういうことなんだよ!! ていうか二十四時間警護って……最悪だ!!」
後ろで岩本が、無表情のままピクリと眉を動かした気がした。いや、気のせいだろうか……?
「お前なぁ、何言ってるんだ。SPはSpecial Policeだ」
「そうなのかよバカー!!!」
「まぁそう言うなよ。母さんも父さんも、お前が心配なんだ」
横から母の声まで割って入ってきた。柔らかいけど、有無を言わせないトーン。
「心配じゃなくて! 俺は自由な大学生活を……!」
「最近物騒な事件多いでしょ?」
「事件って……」
「ほら、通り魔とかニュースでやってただろ。道歩いてたら急に襲われるとか。そういうの、母さん怖いんだよ」
「いや俺を守りたい気持ちは分かるけどさ!? でもやりすぎでしょ! SPだよ!? お隣さんだよ!? 四六時中監視されるってことでしょ!?」
「監視じゃない。守ってもらうんだ」
「言い方の問題じゃないよ!!」
スマホを握る手に汗がにじむ。
後ろでは岩本が静かに腕を組み、まるで「どうせ無駄だ」とでも言いたげに俺を見ていた。
「俺はね、大学デビューなんだ!友達作って、サークル入って、遊んで……そんなのにSPとかついて来てたら浮くに決まってるでしょ!!」
「浮いてもいいじゃん」
「よくないよ!!」
「彼女ができてもSPいると思ったら安心でしょ?」
「彼女!?いや余計気まずいでしょ!!! 何を考えてるんだよ!」
「安心のほうが大事だ」
叫びすぎて喉がカラカラになる。
母がため息をつく。
「辰哉。あんた一人暮らし初めてでしょ? なにかあったらどうするの。助けを呼んでも、誰も駆けつけてくれない。けどSPさんがいたらすぐ対応してくれる。親としては、それが安心なのよ」
「……っ」
言葉に詰まった。
心配してるのは、分かってる。
分かってるけど……。
「ほら見た事あるでしょ、ニュース。こないだも学生狙われてたじゃない。うちの辰哉がそんな目に遭ったら……母さん生きてられない」
母の声が少し震えていて、俺はぐっと唇を噛んだ。
「……でもなぁ……」
悔しそうに視線を落とす俺。
父の声が優しく重なる。
「辰哉。自由はね、大事。でも命あってのものなの。今はちょっと不自由に感じるかもしれないけど、そのうち慣れるわ、ね?」
「……っ……」
ぐうの音も出ない。
「とりあえず、しばらく様子見なさい」
母がとどめを刺すように言った。
俺は肩を落とし、スマホを握りしめたまま天井を仰ぐ。
「……分かったよ。分かったってば」
「いい子ね」
「辰哉、頑張るんだよ」
ブツリと通話が切れた。
……静寂。
部屋に残された俺と、腕を組んだまま無表情で立つSP――岩本。
親には押し切られてしまった。
俺の抗議は、開始早々にして撃沈だ。
……いや、まだだ。
ここからどうやって自分の自由を守るか、考えればいい。
でも、その前に。
「……はぁぁ……」
深いため息が、がらんとした部屋に響いた。
通話を切ったあと、俺はしばらく天井を仰いだまま動けなかった。
さっきまでのワクワクした気持ちはどこへやら。春の桜色に染まっていた心は、一瞬で黒雲に覆われてしまった気分だ。
……こんなはずじゃない。
俺の大学生活はもっと、自由で、キラキラしたものだと思ってたのに。
ゆっくりと、重い首を回す。そこに立っていたのは、腕を組み、微動だにしないスーツ姿の男。
「……ね」
思わず、俺は声をかけていた。
「ここに、どうやって入ったの?」
岩本は一拍の間を置いて、淡々と口を開く。
「合鍵を頂いていますので」
「……は?」
「マンションの契約の際に、ご両親からお預かりしました。専属SPとしては当然の権限です」
「当然じゃないよ!!」
思わず素で叫んだ。
「プライバシー侵害でしょ! 返してよ!」
「それはできません」
あっさり切り捨てられる。
「なんでだよ!! 俺の部屋だぞ!?」
「あなたの安全を守るために必要です。それに、もし私から鍵を取り上げることができたとしても……」
そこで彼は少し視線を落とし、冷静に続けた。
「マンションの管理人に頼めば、すぐに開けてもらえるようになっていますので」
「……っ!!」
俺は頭を抱えた。
「なんだそれ……最悪だ……! 俺の部屋なのに、俺より他人のほうが入りやすいじゃん……」
「そういうことになりますね」
真顔で肯定するな! 俺は絶望のあまり膝から崩れ落ちそうになった。
「と、とにかく!」
気を取り直して指を突きつける。
「勝手に入ってくるの禁止だよ!禁止!」
岩本は一瞬だけまばたきした。だがすぐ、冷ややかに言葉を返す。
「であれば、私が先ほど指摘したセキュリティの箇所をまず直してください」
「……は?」
「玄関ロック、窓の補強、カーテンの透過性。あの状態では、外部からの侵入を完全には防げません。修繕の手配を」
「いやいや、待て待て待て! なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ! そんなの俺の自由でしょ!!」
「自由ではありません」
きっぱりと断言する。
「だめです。SPとして見過ごせません」
「見過ごせませんって……! 俺のインテリアなんだよ! おしゃれ優先して何が悪いんだよ!」
「おしゃれより安全が優先です」
「くっ……!」
俺は悔しくて唇を噛む。
「このソファも移動させるべきです」
岩本が勝手に部屋の奥へ進み、ソファの背もたれを軽く叩いた。
「背後に窓があるのは不適切。狙撃の危険が――」
「だから誰が狙撃するんだよ!? 俺はただの大学生だ!!」
「だからこそ、守るのです」
「いやいやいや!! 逆でしょ! ただの大学生にSPなんて必要ないんだよ!!」
「ご両親の判断です」
「俺の意思は!? 俺の人権は!?!?」
「……人権は尊重します。ただし、任務は遂行します」
「どの口が言ってるんだよそれ!!!」
思わずテーブルを叩いた。新品の木の表面にパシンと乾いた音が響き、俺の苛立ちをそのまま表してくれる。
岩本は眉ひとつ動かさない。
「私の立場を理解してください」
「俺の立場も理解しろよ!!」
「危険を未然に防ぐこと。それが私の仕事です」
「俺は普通に大学行って普通に友達作って青春したいだけなんだ!!」
「青春は安全の上に成り立ちます」
「くそー!! なんだこの押し問答……!」
俺は床にしゃがみ込み、頭を抱えた。
こいつ、話が通じない。まるで壁だ。鉄の壁だ。
でも負けない。ここで引いたら、俺の大学生活が終わってしまう。
「とにかくね!」
顔を上げ、もう一度宣言する。
「勝手に入ってくるのは禁止! それだけは絶対だ!」
しばし沈黙ののち、岩本は小さく首をかしげた。
「……検討します」
「検討って!! 今決めろよ!!」
「では条件があります」
「なんだよその条件って!」
「窓に補強を入れてください」
「嫌だ!!」
「カーテンを遮光に替えてください」
「嫌だって言ってるでしょ!!」
「では勝手に入ります」
「脅迫かぁぁぁ!!!?」
俺の叫びが、まだ空っぽの部屋にこだした。
「……はぁ、はぁ……」
俺は肩で息をした。
さっきまでの押し問答で体力を使い果たしたみたいに、胸が上下する。なんで初日からこんなに疲れなきゃいけないんだ。
「も、もういいよ……」
両手を振って降参のポーズを取る。
「とりあえず……飲み物買いに行く」
そう言って立ち上がると、すかさず隣で影が動いた。
「……」
スーツ姿の男――〇〇照。俺が動けば、当然のように一歩後ろへついてくる。
「え……なんでついてくるんだよ」
「SPなので、当たり前のことですが」
さらりとした答え。抑揚がなく、まるで業務報告。
「いやいやいや! コンビニ行くだけだよ!? 五分で戻るから! 待ってて」
「いえ」
即答。
「いや、いえって……」
俺は額を押さえた。
「だから待ってろって。俺ひとりで買えるから」
「危険があるかもしれません」
「危険って! コンビニだよ!? 何が起こるんだよ!」
「予測不能の事態こそ、最も危険です」
「出たー! 正論っぽいこと言って押し切るやつ!!」
必死に食い下がってみるが、岩本は微動だにしない。
「……」
「いや、無言になるなよ! せめて何か言えよ!」
部屋から出ようとすると、無言で背後にぴたりとついてくる。その距離、ほぼ一メートル。足音まで揃ってて、なんか余計に怖い。
「~~~~~もういいよ!!」
両手をあげて叫ぶ。
こうして、結局俺は岩本と一緒にコンビニへ向かうことになった。
夜風が頬を撫でる。桜が街灯に照らされて、花びらがひらひら舞い落ちる。本当だったら、この春の空気を全身で吸い込みながら「新生活最高だ!」って浮かれてるはずだった。
……なのに今、俺の横には無言のSP。無愛想な巨体。
「ね……」
思わず声をかける。
「なんですか」
「距離近いんだよ。もっと離れろよ」
「三歩以内が基本です」
「いや、俺は犬か! 散歩か! リード付けられてる気分だよ!」
「リードは付けていません」
「分かってるよ!! 例えだよ!!!」
道行くカップルに、ジロジロ見られる。
「やば、イケメン二人歩いてる」とか「SPごっこ?」とか、ヒソヒソ声が聞こえてきて、顔から火が出そうだ。
「頼むから少し距離開けてくれ……」
「できません」
「融通利かない奴だなぁ……」
ようやくコンビニに到着。
自動ドアがウィーンと開くと、涼しい空気が流れ込んできた。
「ふぅ……」
冷気を浴びて少し落ち着く。
俺は飲み物コーナーに直行し、冷えたペットボトルの水を手に取った。
「これだね……」
さらに惣菜コーナーで唐揚げ弁当とサラダ、カップ味噌汁をカゴに入れる。
ふと、チラリと背後を見る。
黒いスーツ姿のまま、きっちり背筋を伸ばして立つ岩本。まるで店内警備員だ。
店員さんもチラチラ気にしてる。
「……お前、浮きすぎでしょ……」
小声でぼやくが、岩本は聞こえてないのか無反応。
会計を済ませて店を出る。夜風がまた頬を撫でた。両手には買い物袋。
「……ね」
ふと、俺はカゴから取り出した水のペットボトルを差し出した。
「はい」
「……?」
岩本がわずかに首をかしげる。
「喉乾いたでしょ? 飲みなよ」
精一杯の気遣い。だって、こんな無愛想でも人間だし、喉くらい乾くでしょ。俺だって差し出せる優しさくらいはある。
けど――
「いえ」
岩本は即座に首を振った。
「任務中ですので。お気持ちだけで」
「……っ!」
断られた。
きっぱり。ためらいゼロ。
「なんなんだよ……」
俺はしゅんと肩を落とす。
「せっかく気遣ったのに……」
「職務ですので」
「職務職務って……本当に、ロボットかお前は」
「ロボットではありません」
「分かってるよ!!!」
俺の声が夜道に響いた。
通り過ぎたおばちゃんがビクッと振り返る。
買い物袋をぶら下げながら歩く俺の隣で、岩本は相変わらず無言。無駄口を叩かず、ただ黙々と歩幅を合わせてくる。
「はぁぁ……」
俺は深いため息をついた。
こんな奴が、四六時中一緒にいるんだ……。
大学生活、どうなるんだろう。友達に紹介できるわけもないし、絶対浮く。
未来が真っ暗に思えて、胃がきゅっと縮む。
買い物袋をぶら下げたまま部屋に戻ると、岩本は当然のように靴を脱ぎ、俺より先にリビングへと上がり込んだ。
「……お前ね」
呆れを通り越して笑いが出そうになる。
「なんで当たり前みたいに入っていくんだよ。俺の部屋だぞ」
「職務ですので」
まるで呼吸をするみたいに自然に出てくる言葉。
「またそれか……」
俺は肩を落とし、とりあえずソファに腰を下ろした。新品のクッションが沈んで、ようやく自分の部屋に帰ってきた実感がじんわり広がる。だが隣に立つ黒スーツの存在が、それをすべて打ち消してしまう。
「ね」
俺は姿勢を正し、岩本に向き合った。
「ちょっと聞きたいんだけど……大学行くときって、SPってどうするの?」
ほんの少しの希望を込めて尋ねる。
だが返ってきた答えは、想像以上に冷徹だった。
「登下校もついていきます。そして大学側の許可を取って、講義中は一番後ろで監視させてもらいます」
「……は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
理解が追いつかない。いや、理解したくないだけかもしれない。
「いやいやいや、だめだめだめ!!!」
俺は思わず立ち上がった。
「なぜ?」
岩本は首を傾げ、きょとんとした表情――いや、無表情のまま淡々と問う。
「何でって……恥ずかしすぎるでしょ!! 俺だけだよ!? 講義室にSP連れて入る大学生とか!!」
「安全を確保するためです」
「いや安全じゃなくて! むしろ目立ちすぎて逆に危険だよ!! 友達できない!!絶対浮く!!」
両手をぶんぶん振って必死に否定する。
岩本は少しの間考えるように目を伏せたが、すぐにまた冷静な声を落とした。
「それが仕事ですので」
「だからその仕事がおかしいって言ってるんだよ!!!」
俺はソファにドンと腰を下ろし、頭を抱えた。
こんなんじゃ大学生活が始まる前から終わってしまう。
……でも、ただ拒否するだけじゃだめだ。交渉だ。ここは一歩引いて妥協案を出すしかない。
「分かった」
大きく息を吸い、言葉を絞り出した。
「俺もここは譲歩する。登下校のみ監視していいよ。ただし話しかけるな」
「……講義中は?」
岩本の視線が突き刺さる。
「……~~~っ」
言葉に詰まる。
苦し紛れに、なんとか案を捻り出した。
「大学の周り見張っておいてくれればいいんじゃないかな……」
「しかし、それでは――」
「でもさ!」
俺は食い気味に遮った。
「大学の許可はまだ取れてないんでしょ?」
「……はい」
「なら部外者は立入禁止だよ。規則だ。法律だ。警備やるんならまずルール守れよ?」
「……なるほど」
わずかに顎を引き、納得したように頷く岩本。
「ほ、本当?」
思わず身を乗り出す。
「理屈は理解しました」
「理解した!?やった!!」
胸を張ってガッツポーズ。
でもその次の瞬間、冷たい声が追い打ちをかける。
「……しかし、大学周辺は危険が多い。したがって、正門付近で常に監視させてもらいます」
「……いや結局いるのかよ!!!」
「当然です」
「なんでそんな当然みたいに言えるんだよ……」
「講義中にもし何かあれば、すぐに駆けつけられるように配置します。それが現実的な妥協案です」
「妥協案って……! 俺に妥協はないの!?」
「ありません」
「即答か!!!」
俺は頭を抱え、ソファに沈み込んだ。
もう……もう疲れた。
部屋の空気はしんと静まり返り、冷蔵庫の小さなモーター音だけが響いていた。
新品のソファはふかふかで、さっき選んだときは「大学生っぽいオシャレな部屋だ!」ってウキウキしたのに、今はやけに居心地が悪い。
「ね」
俺はふと顔を上げる。
「お前、ずっとそんな感じで俺に付きまとうの?」
「はい」
「……マジで?」
「はい」
「……はぁぁぁ……」
盛大なため息がこぼれ落ちた。
春の夜はまだ冷えるのに、なんで俺は汗びっしょりなんだろう。
――こんな生活、本当に続けられるのかな?
大学生活、始まる前から前途多難だ。
俺はぼんやり天井を見上げながら、改めて思った。
この無愛想なSP――〇〇照との日々は、きっと俺の想像をはるかに超えて、とんでもなくややこしい。
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作者名「木結」(雪だるまアイコン)でご検索ください。