テラーノベル
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朝の光が
カーテン越しにゆっくりと
リビングを染めていた。
淡い金色が木目の床を優しく撫で
窓辺に揺れる桜の葉の影を
水面のように煌めかせる。
外では微かに鳥が鳴き
風が枝を揺らす音がする。
けれど、その穏やかな朝にしては──
あまりに静かすぎた。
時也はキッチンカウンターに立ち
手元の白磁のカップに
熱く香ばしいコーヒーを注いでいた。
焙煎された豆の香りが
湯気とともに立ちのぼり
まだ少し冷たい空気に温もりを添える。
一杯のコーヒーが満ちる音。
それだけが
この空間に生きているように思えた。
ふと、時也は視線を階段の扉へと向ける。
二階──
その先の部屋からは
今朝になってから一度も気配がない。
(レーファさんと、エルネストさん⋯⋯)
瞼を伏せ
心の中で名を呼ぶように思案する。
ほんの少し目を細め
カップを持ち上げると
深く香りを吸い込んだ。
少し熱を帯びた苦味と
ほのかな酸味の調和が
思考の澱を静かに洗い流してくれる。
(⋯⋯転生者の方が
アリアさんに怨嗟を向けた直後は
身体にも心にも大きな疲労が残りますし
それに、まだ人に慣れていないお二人のこと。
こうして空気を読むように
距離を置かれるのは当然かもしれませんね)
言葉にせずとも
その心は優しさに満ちていた。
彼らを責めることなど
一度も考えたことはなかった。
トレーにコーヒーを載せると
時也はゆったりと歩き出す。
彼の動きは常に丁寧で、無駄がなく
まるで長年の儀式のように静かだった。
アリアはソファの端
窓際の陽光が
柔らかく差し込む場所に座っていた。
その背筋はまっすぐで
白磁の人形のように静止している。
その長い金髪に朝の光が淡く透け
まるで薄桜色の羽のように揺れていた。
「アリアさん、コーヒーを。
熱すぎないようにいたしました」
無言のまま、アリアは手を伸ばした。
彼女の指先がカップの取っ手に触れると
微かに瞬き、まぶたを伏せる。
その仕草は、言葉を持たぬ礼に等しかった。
(⋯⋯レイチェルさんも
まだ眠っているのでしょうか。
ソーレンさんも
まだ一度も姿を見せておられませんし⋯⋯)
リビングには
二人の欠けた気配が
空白のように広がっていた。
時也はソファに腰を下ろし
膝の上で手を組んだまま、ぽつりと呟いた。
「⋯⋯今日は臨時休業にいたしますか」
それは
自身への確認のような独り言だった。
けれど、その声を捉えた者がいた。
「す、すみません、時也様⋯⋯っ!」
アビゲイルの
慌ただしい声とともに椅子が軋む。
彼女は素早く立ち上がり
両手を胸元に添えて、深く頭を下げた。
「わたくしがまだ⋯⋯
お店のお手伝いも
満足にできないばかりに⋯⋯っ」
その姿は
まるで過ちを犯した侍女のようだった。
だが、その言葉には打算も偽りもなかった。
時也は一瞬驚いたように目を瞬かせたが
すぐにふっと微笑んで首を横に振った。
「いえ、大丈夫ですよ。
小さなお店ですし
もともと僕とソーレンさんだけで
回していた時期も長いんです。
それに、今は誰もが
少し休むべき時だと思いますから──
気負わないでくださいね」
その言葉に
アビゲイルはゆっくりと顔を上げた。
彼の言葉が、まるで布のように心を包み
固くなっていた肩が僅かに解けてゆく。
「⋯⋯ありがとうございます。
それでしたら
本日はお店がお休みということですし⋯⋯
お買い物に出かけてまいりますわ。
もちろん、ルキウスも一緒に!」
ちょうど彼女の肩口に止まっていた
桃色のオウムが
タイミングを図ったように羽を広げた。
「ご安心を、アビゲイル様。
このルキウス、しかと護衛の任
務めさせていただきます」
その低く、重みのある声に
アビゲイルが小さく笑みを返す。
「ありがとうございます、ルキウス!
頼もしい限りですわ」
時也もまた
そのやり取りにふっと目を細めた。
「ふふ⋯⋯お気をつけて、アビゲイルさん。
街の様子も
少しだけ不穏な気配があるようですから──
念の為
人通りの多い道をお選びくださいね」
「はい!
時也様も、昨日の出来事でお疲れのはず⋯⋯
どうか、本日は
ごゆっくりお過ごしくださいませ」
アビゲイルが優雅に一礼し
ルキウスを肩に乗せて玄関へと向かう。
その後ろ姿は清楚で凛とし
黒から紫へ移る長い髪が光に揺れながら
柔らかく後ろへ流れていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
再び静寂がリビングに降りる。
時也はその背を見送ると
そっと背凭れに身体を預けた。
指先のカップはまだ熱く
彼の掌をやさしく温めている。
香りだけが残る朝。
アリアの沈黙。
そして、少女の足音。
それらすべてが──
今朝という時間に
静かな輪郭を与えていた。
(⋯⋯少し二階の方々の様子も
確認しておきますか)
コーヒーカップをテーブルに戻すと
時也は音もなく立ち上がった。
アリアに向けて穏やかに一礼し
控えめに声をかける。
「アリアさん。
少し二階に皆様の様子を
見に行って参りますね」
返事は、いつもどおりの無言。
けれど
彼女はわずかに睫毛を伏せて頷いた。
それが
〝承諾〟である事を時也はよく知っている。
階段を静かに上がりながら
彼はまず一つ目の扉の前に立ち止まった。
──レイチェルの部屋。
コン、コン。
寝ているかもしれない相手への配慮を込めて
極めて控えめなノック音が響く。
(時也さん?
そうだったら、静かに入ってきて!)
(⋯⋯レイチェルさんの心の声、ですね)
静かに微笑んだ時也は、取っ手に手をかけ
鍵のかかっていない扉をそっと押し開けた。
木製の蝶番が
まるで彼の気配を感じ取ったように
音を立てず開く。
朝の光が
レースのカーテン越しにふんわりと
差し込む室内。
淡い光に包まれながら
ベッドに腰を下ろしていたレイチェルが
膝の上に開いた本をそっと閉じて
笑顔でこちらを見た。
彼女の傍──
その細い腰に、逞しく絡んだ腕。
ソーレンが
レイチェルの腰に額を寄せるようにして
深い眠りについていた。
寝息は静かで、呼吸は落ち着いており
窓辺からの風に揺れる髪が
彼の安らぎを物語っていた。
(おはよう、時也さん!
リビングに降りれなくて、ごめんね?
ソーレンを起こしたくなかったの。
昨晩、ずっと看病してくれてたから⋯⋯
きっと、疲れちゃったのね。
私はもうほぼ元気だから、心配しないで!)
彼女の心の声が優しく届き
時也の胸に静かな安心が広がる。
言葉は交わさず
けれど、それ以上に深く想いは通じていた。
時也は微笑んだまま、音もなく一礼し
そっと扉を閉じた。
重なる板が、静かに世界を隔てる。
(レイチェルさんの体調が戻ってきていて
本当に良かった。
さすが、レーファさんのペニシリンですね)
そう心で呟きながら
次の扉の前へと足を運ぶ。
──レーファの部屋。
その扉の前には、白い毛並みの猫──
ティアナが、丸くなって眠っていた。
陽の光に照らされたその姿は
神聖ささえ纏っており
時也はつい、小さく目を細める。
(ここにも、ティアナさん専用のベッドを
置いた方が良さそうですね)
しゃがんでそっと頭を撫でると
ティアナはうっすらと片目を開けた。
けれど敵意も驚きも見せず
再びその瞼を閉じる。
彼が〝大丈夫な存在〟であることを
彼女はちゃんと知っている。
軽くノックをする。
「おはようございます、レーファさん。
時也です。
入ってもよろしいですか?」
しばしの沈黙のあと
内側からか細い声が漏れる。
「⋯⋯お、おは、おはようございます⋯⋯
ど、どうぞ⋯⋯」
「失礼しますね」
扉を開けた先
部屋には朝の淡光が優しく満ちていた。
机の前の椅子に座るレーファが
膝の上に手を置いて
緊張したように固まっている。
けれど、その顔色は
昨夜よりも幾分か良くなっていた。
「少しは眠れましたか?」
レーファは
恥ずかしそうに視線を逸らしながら
小さく──けれど何度も
こくん、こくんと頷いた。
その様子に
時也はふっと安堵の笑みを浮かべた。
「それは良かったです。
今日はお店をお休みにしましたので
紹介ついでにお庭で朝ご飯にしましょうか。
エルネストさんも、まだですから
三人で一緒に。
良ければ、支度して待っていてくださいね」
その言葉に、レーファの瞳がぱっと輝く。
不安や戸惑いの色が少しずつ薄れ
まるで水を与えられた蕾のように
心が緩やかに開いていく。
時也はそっと手を伸ばし
彼女の煤竹色の髪を優しく撫でた。
その掌に伝わる温もりは
細くても確かな鼓動。
「それでは、後ほど」
一礼して立ち上がると
ティアナが床から身を起こし
静かに後を追うように伸びをした。
廊下に戻った時也の歩みは
どこまでも静かで、優しかった。
確かに──
〝家族〟が、ここに根付き始めている。
そんな確信が、胸の奥に小さく灯っていた。
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