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階下から差し込む朝の光が
階段の隙間を通って
緩やかに二階へと這い上がっていた。
時也は
その静かな陽の気配に耳を澄ませながら
廊下の奥──
最後の部屋の前で足を止めた。
扉は重厚な木製で
昨夜と同じく固く閉ざされている。
彼はそっと、滑らかな指先でノックした。
「エルネストさん、おはようございます。
時也です。
入ってもよろしいでしょうか?」
数秒の沈黙ののち──
低く、短い返答が扉の内側から転がる。
「⋯⋯いる」
それだけの言葉に
時也は静かに微笑んだ。
「失礼しますね」
扉をゆっくりと押し開ける。
だが、部屋の中央──
ベッドの上にも、窓辺にも
彼の姿は見当たらなかった。
「⋯⋯おや?」
視線を滑らせた先。
開いた扉の陰、部屋の隅の
朝陽の届かぬ〝死角〟──
そこに、彼はいた。
壁に背を預け、蹲るようにして
じっとこちらを見上げていた。
蘇芳の瞳は、どこか夜の名残を孕んだまま
無表情に瞬きもせず揺らいでいた。
(⋯⋯死角に身を潜めるのが
癖になっているのかもしれませんね)
そう心で呟いた時也は
変わらぬ穏やかさで口を開いた。
「エルネストさん
お庭を少しご案内がてら
そこで朝食にしましょう。
準備ができましたら
下に降りてきてくださいね」
扉の陰の彼は
しばしの間じっとこちらを見つめていた。
やがて立ち上がると、無言のまま──
時也の袖を掴んだ。
「⋯⋯今、一緒に行く」
それは〝一人には、しないで〟と
告げるような仕草だった。
彼の手は冷たく
けれど握る力は意外な程しっかりしていた。
「では、ご一緒しましょうか」
時也は微笑むと、ゆっくりと歩を進めた。
二人は並んで階段を下りていく。
リビングへと足を踏み入れると
柔らかな陽光が床を照らしていた。
アリアはその光の中に佇み
静かにカップを手にしていた。
すると──
「⋯⋯あんたも」
エルネストが
駆けるようにしてアリアの前へ出た。
そのまま手を伸ばす。
「⋯⋯これ、食え。
怪我、させたから、栄養だ⋯⋯」
その掌には
ぷっくりと膨らんだ〝蜂の子〟が乗っていた
つややかな胴が陽に照らされ
ほのかに甘い発酵の香りが立ち昇る。
(ま、まさかエルネストさん⋯⋯!?)
驚いた時也が、慌てて止めに入ろうとする。
「あ、あの⋯⋯アリアさんには──」
だが、その手が届く前に。
アリアは、微かに睫毛を伏せると──
無言のまま
差し出された蜂の子を取り、口に運んだ。
噛む。
咀嚼する。
そして、飲み込む。
その一連の動作に
迷いも、嫌悪も、なかった。
時也の鳶色の瞳が驚愕に揺れる。
アリアは
ちらりと時也に視線を向ける。
(構わん⋯⋯
前世の〝虫の魔女〟も
こうして渡してくる奴だった⋯⋯)
その心の声は、懐かしむように
僅かな慈しみを湛えていた。
「⋯⋯お前も、いるか?」
エルネストが、無造作にもう一つ取り出す。
時也は苦笑を浮かべながら
軽く両手を挙げた。
「ぼ、僕は昨夜いただいて
もう元気ですから、大丈夫ですよ。
ありがとうございます」
言いながらも、心の中では
(⋯⋯アリアさん、すごすぎます⋯⋯)
と、静かに尊敬が渦巻いていた。
空気が和んだのを見て
時也は改めて口を開く。
「では
お庭で食べる朝食を用意してきますね。
エルネストさんは⋯⋯
ここにいらっしゃいますか?
それとも、一緒にキッチンに来ますか?」
「⋯⋯行く」
短く、だがはっきりとした返答。
そのまま二人は、キッチンへと向かった。
キッチンに入ると
エルネストは昨夜と同じように
隅の観葉植物の傍へ歩いていき
静かに腰を下ろした。
葉の影が
彼の輪郭を優しく包み込んでいた。
時也はそれを横目に
流れるような手つきで炊きたてのご飯を握る
おにぎりを形作る手は温かく、静かで
慈愛に満ちていた。
その掌から生まれる〝朝〟は
今日という一日を
優しく照らす灯火のように──
静かに香り立っていた。
(レイチェルさんと
ソーレンさんのも握って⋯⋯
お庭で、レーファさんとエルネストさんが
召し上がっている間の
アリアさんのお茶とお茶菓子も
用意しなくては⋯⋯
ふふ。
家族が増えると、作り甲斐も増しますね)
木の葉が擦れる音に似た鼻歌を
口ずさみながら
時也は炊き立てのご飯を
艶やかな漆塗りの器から掬い
白く繊細な手の中でふわりと形を整えていく
焼き塩鮭を包んだおにぎり
梅の果肉をふんだんに用いたもの
そして少し特別に
紫蘇味噌を忍ばせたもの──
一つひとつの仕上がりに目を細めながら
彼は桜模様の陶器のポットに手を伸ばした。
ポットの中には、アリアのための紅茶。
茶葉は彼女が好んでいた
薔薇と林檎の香りを帯びたもの。
その香気を逃さぬよう、そっと蓋を閉じる。
やがて──
すぅ、と音もなく扉が開き
幼子の姿をした白銀髪の青龍が現れた。
山吹色の双眸は鋭くも穏やかに周囲を見渡し
すぐに目的のものを見つける。
「⋯⋯青龍」
時也は振り返ると
微笑んで声をかけた。
「貴方も、お庭でお茶はいかがですか?」
青龍は、小柄な体躯に見合わぬ重みを持って
古色を帯びた棚から
藍染のレジャーシートを引き出していた。
縁に金糸の刺繍が施されたその布は
まるで貴族のピクニックを思わせる気品を
湛えている。
「有難きお言葉ですが⋯⋯
まだ建物内の清掃が終わっておりませぬ故
それが終わり次第、相伴に与りたく存じます」
その言葉に、時也は目元を和ませた。
「そうですか⋯⋯
では、玉露も用意しておきますね。
後程、ゆっくり味わってください」
青龍は小さく頷き
レジャーシートを抱えると踵を返しかけた。
「それと──」
時也が軽やかに声をかける。
「それを敷いた後
レイチェルさんとソーレンさんの分も
お部屋にお願いしていいですか?」
「御意」
その応えは凛として
空気を正すようだった。
青龍の足取りは静かでありながら
ひとたび動けば迷いがなかった。
式神としての誇りをその小さな背に宿し
彼は扉の向こうへと去っていく。
そして時也は再び手を動かし始めた。
洗練された陶器の皿に
季節のフルーツと
手焼きのフィナンシェを並べ
銀のトレーに静かに乗せる。
その横に
香気を湛える紅茶のポットを添えて──
アリアと家族のための〝朝〟が
静かに完成されてゆく。
その表情には、ただの義務ではない。
この家で共に朝を迎えられることへの
深い慈しみと感謝が滲んでいた。
家族が増えるとは、こういうことだ。
今日という一日が
誰かの〝はじまり〟になるように──
そう願う祈りが
手の動きに自然と宿っていた。