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冬の昼は物憂げで、労働を強いられることのない政治犯が息づくだけの独房のように寂しい空気が漂っている。その空気を破るように、しかし物々しいというほどではない人の声が集まる。
ベルニージュが魔法使いたちを警吏本部前の広場へと集めていた。昨夜得たひらめきを魔法使いたちに話し、共にこの街に残る古文書を虱潰しにし、その歴史を徹底的に調べ上げた。そうして得た秘められた歴史に基づいた調査をする価値はあると、この街の魔法使いも他所から来た魔法使いたちも、皆が賛同してくれた。ついでに警吏たちに見せつけてやろうということになった。
魔法使いたちは手に手に魔法の込められた鶴嘴や興味深い由来を持つ円匙を持ち寄って、広場の地面を掘り返し始める。サンヴィア地方には地面を掘る時にうたう歌が沢山あって、彼らもまたその古くからの倣いに従って元気にうたい、元気に掘り返す。事の成り行きを知らない人々も昼の仕事の手を止めて声を合わせて口ずさんだ。
当然警吏たちもよく知る歌とはいえ、慌てて魔法使いたちを叱りつけに来るが、ベルニージュたちはすでに壁崩壊の調査の一環としてお上に許可を得ていたので、彼らは引っ込むしかなく、地面を掘る時の歌や土を運び去る時の歌を聞いて悔しそうに身を揺らすのだった。
歌に乗せて鶴嘴を地面に突き立て、歌に合わせて円匙で土を掻き出す。普段机や本に齧りついている魔法使いたちの、その慣れない作業は決して軽快とは言えなかった。しかしユカリへの同情やベルニージュにお裾分けされたひらめきが、魔法使いとしての彼らの魂を大きく震わせ、やる気を急き立てて、力仕事は順調に進む。まるで巨大な怪物の口が開くように、見る見るうちに広場には大穴が開き、徐々に深くなっていく。
しばらくして、掘り出した土の底の下からとても古い日干し煉瓦が現れた。そこには確かに壁と同様の古き時代から働き続けていた力強い呪文が刻み込まれていて、そしてとても傷んでいる。
ベルニージュの見立てではこの街に城壁が作られたほとんど最初期の煉瓦だ。ベルニージュと言い争ったかの白い山羊髭の魔法使いも、ベルニージュの元へ駆けつけ、喜びを分かち合った。
「よくぞ分かったものだ。この街の下に煉瓦が埋まっているとは。初めにその話を聞いた時は何を馬鹿なことを、と思ったものだが」
ベルニージュは得意そうな笑みを浮かべて弾むような声で言う。「というよりも、これも壁なんです。街の周囲を巡る壁と一続きになっているはずですよ。言うなればこの街は日干し煉瓦でできた一つの器の中にあるんですね」
山羊髭を撫でさすりながら魔法使いは深く感心する。
「なるほどなあ。それはまさにこの街の壁の強度を説明する事実だ。お前さんの言っておった壁の呪文の密度が少ない分は地下に秘められていたというわけか」
「はい」ベルニージュは広場に開けられた大穴を見下ろして言う。「しかし日干し煉瓦はただでさえ、放っておけば土に還ってしまうものですし、特に踏みつけられ続ける表面はすぐに毀損してしまいます」
「それゆえに土へと戻ってしまい、いつの頃からか、我らはアルハトラムの地下に施された術を忘れてしまっていた、というわけだ。嘆かわしいことに」
「とはいえ、五百年前の時点で既に呪文部分を内に秘める方法は取られていて、だからこそ長い年月こうして保たれ続けたんですね。これは魔術史を塗り替える発見ですよ」とベルニージュは誇らしげに語る。
「と、なると。調査すべきは崩壊現場の下だな」山羊髭の魔法使いは伸び放題の眉を垂らして言う。「しかし地面の下とはずいぶん面倒なことだ」
「保守点検が一切できない魔術ということはないでしょう」ベルニージュは楽観的な仮説を立てる。「地下通路か何か構造物があるのでは? サンヴィアといえば地下街ですし」
今後このアルハトラムの街で、この魔術をどのように扱うのかはともかく、こうしてベルニージュの仮説とユカリの無実が証明されたのだった。
その時、「ベル!」と声をかけてきたのは見知らぬ警吏の男だった。
ベルは驚いて飛び退いて、しかしまじまじと警吏の顔を見つめる。「え? 何? 誰? ユ、エイカ?」
警吏はあどけない笑顔で元気に頷く。ユカリが魔法少女の第三魔法、憑依の魔法を使っているらしい。
「うん。ちょうど皆さん集まっているみたいなので、協力して欲しいんだけど」とその武骨な警吏には相応しくない口調で言う。
「ちょうどって、ワタシたちユカリの無罪を証明したところだったんだよ」
「あ、そうなんだ。ありがとう。嬉しさの余り抱き締められなくて残念。それで協力して欲しいことっていうのは……」
魔法使いたちを使って、人文字で【堅固】を形作れというのだった。それを昨夜ひらめいたらしい。ベルニージュはその魔術初心者に適切な助言を与えようかと思ったが、ユカリを傷つけかねない言葉しか思いつかなかったので黙って従うことにした。失敗より偉大な教師はいないというものだ。
ベルニージュのお願いを聞き、よく分からないままに指示に従い、魔法使いたちは広場に並んで【堅固】の形を作る。
そしてその時は訪れた。突然、人文字を形作る魔法使いたちの体が、まるで地上に墜ちた太陽のように眩く発光した。それは一瞬のことだった。人々は混乱し、しかもことはそれで収束せず、それ以上の事態が続く。
最初に人々が気付いたのは揺れで、次に音だ。通りの向こうから、千の軍勢が足を踏み鳴らすような地響きと万の投石が降ってくるような崩壊音が響いている。まるで戦が始まる時のような物々しい音が聞こえてくるが、とんと戦をしてこなかったアルハトラムの人々は、聞き慣れぬ音に耳が好奇心を寄せるばかりだった。
ベルニージュを含め、その場にいる全ての者たちが一様に一方向に、音が聞こえる方に耳と目を向ける。広場の向こう、通りの向こうにあるべき悠久の壁が、今まさに崩れ去ってしまった。濛々と土煙が立ち、追って人々の悲鳴が聞こえてくる。昨日崩壊した壁を起点に次々と連鎖的に壁が崩れているのだった。
ベルニージュは呆けたようになっている警吏の男を捕まえて囁く。「ユカリ。逃げるよ」
ベルニージュは壁の方へ走り出し、間もなく魂だけでなく、自らの体も脱獄したユカリが空から降ってきて合流した。そしてひたすらに走った。追ってくる者といえば二人の中の罪悪感だけだった。
「あれって私のせいだよね」とユカリは呟く。
「ワタシたちの、ね。おそらくだけど」
「せっかくベルが無実を証明してくれたのに、本当に壁を崩しちゃった」
二人は疲れ切り、今は無人の荒野の片隅で息を切らして休んでいる。
ベルニージュにもユカリの心が大いに凹んでいることは分かった。慰めの言葉は思いつくが、どれ一つとしてまともな効果は得られないだろうとベルニージュには分かっていた。
「大きな発見は得られたし、気にしないことだよ」
ユカリは呆れたようにベルニージュを見上げる。「気にしないようにしようと思ってできる?」
「ワタシはできる。それより見て」
ベルニージュは預かったままの合切袋から魔導書の衣、茜色の円套を取り出して、広げて見せる。裏地に記された禁忌文字の一つ、【堅固】が満天の星空において最も暗い星のように淡く光っていた。小さな光だが、大きな称賛のようだ。
ユカリが、誰かに聞かれて咎められるのを恐れているかのように、控えめに歓声を上げる。
「やっぱり。思った通り。つまり、この魔導書はこうして禁忌文字を作っていくことで完成に近づくってことだよね?」
「おそらく」ベルニージュは感心して、そして少しだけ悔しそうに頷く。「今までの魔導書に比べればかなり簡単に完成させられそうじゃない? 数はちょっと多いけど、魔導書そのものを探す必要はないんだから」
ユカリは無言で頷き、途端に落ち込んだ言葉で言う。
「それで、禁忌文字を完成させるたびに、その文字の力はこの世から失われてしまうってことだよね。だからアルハトラムの城壁は崩れてしまった」
ベルニージュはユカリを励ますように努めて明るく喋る。「どうだろう。結論を出すのは早いよ。試してみよう」
ベルニージュは背嚢から筆と墨を取り出し、手近な石を一つ拾って、【堅固】を使った呪文を書き記していく。最も原始的な、呪術との境界にある魔術の一つだ。そしてその魔法の力に満ちた石を別の石に叩きつける。
呪文を書き記した石は壊れなかった。それどころか傷一つついていない。
「禁忌文字の力は世界の理から消えてない。弱まってもいない。むしろ強化されているかもしれない」とベルニージュは声を弾ませる。
「どういうこと? 世界? 理?」
「例えばさ。今までも魔導書で誰かが傷ついたことはあるじゃない? そして魔導書を完成させて、魔導書の力が失われても、魔導書が既にもたらした結果がなかったことになるわけじゃないでしょ? 傷は治ったりしない」
「それは、そうだね」と同意してユカリは頷く。「当たり前のことのように聞こえる。それがどう繋がるの?」
「この文字はすでにこの世界にもたらされているってわけ。魔導書が完成しても、その影響は消えない」
「うーん。なるほど?」ユカリは首を傾げつつ頷く。「それじゃあ何で壁は崩壊したの?」
「そうだなあ。何らかの理由で、例えば完成した時のあの光を発するために、周囲の禁忌文字の力が一時的に失われた、とか」
「そうなの?」
やはりユカリはあまり腑に落ちていないようだった。
「あくまで仮説だからね」
ベルニージュがユカリに衣を返そうとすると、ユカリは押し戻した。
「これはベルが持ってて」と言って、ユカリは慌てて付け加える。「もちろん禁忌文字は引き続き学んでいくつもりだけど、これはベルの方が上手く使いこなせると思う」
「使うようなものじゃないけど、まあいいや。そうさせてもらおう」ベルニージュは衣を纏って、話を切り替える。「さて、次はどの文字を完成させようか」
ユカリは腕を組んで頭の中に教本を思い浮かべる。「手当たり次第で構わないと思うけど、でも難しそうなのは気に留めておいた方が良いね」
「そうだね。だとすれば、ああ……」ベルニージュは芝居がかったため息をつく。「面倒なのがあるな。玉座って書かれてたよね」
「うん。面倒そうだね。どこかの王国に行って、王様に頼まないと。ちょっと玉座を貸してくれませんか?」とユカリは冗談めかして言う。
ベルニージュは真剣な表情で言う。「そもそもサンヴィア地方には、つまり十都市連盟が一つ、サンヴィア会議には王国が一つしかないんだよね。北の果ての盟主都市、トンド」
「じゃあ、そこへ向かいながら一つ一つ完成させていくってことだね」
見果てぬ冒険に心躍らせている様子のユカリを見て、ベルニージュは小さな安堵の溜息をついた。