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ゼミ室の空気が重たかった。
教授が席を外した瞬間、空気は変わる。誰もが合図を待っていたかのように。
「なあ、悠翔。さ、これ見ろよ。例のやつ更新されてたぞ」
男がスマホを突きつけてくる。画面には、“大学内告発系”を装ったSNSアカウント。「大学の闇」などと銘打たれ、そこには盗撮された悠翔の写真。アパートの玄関前、大学のトイレ、何度も目にした自分の横顔。
“あの有名兄弟の弟。自己憐憫の天才、ってやつ?”
小さく笑いが漏れる。女子学生のひとりがつぶやく。
「悠翔くんって、撮られるの好きなんじゃない?」
「やっぱあれ性癖じゃない?」
「そういう研究テーマなら応援するけどね」
言葉の刃は、外側から刺すのではなく、内側で錆びていく。
机に貼られたガム、レポートに勝手に書き加えられた「自白文」、ゼミメールに流された編集済みの「感謝文」。
“兄に触れられると安心する、って、あれ本音?”
笑いながら、教授の椅子に座った学生がいた。
手には悠翔のノート。中を破きながら、こう言う。
「さ、いつもの“お礼”しようか。静かに座ってれば、痛くはしない」
悠翔は椅子から立ち上がる。だがドアの鍵は、もうかけられていた。
誰も助けない。教授もまた、見て見ぬふりをする。
彼の背に、音が走った。
パァンッという乾いた音が、空気の皮を裂いたように響く。
反射的に身をよじろうとした瞬間、背後から腕をつかまれ、無理やり前屈みの体勢に押さえつけられる。
「じっとして。逃げると余計、悪化するよ」
声は穏やかだった。まるで、授業のプレゼンを促すような口調で。
だが、その手には黒いベルトが握られていた。教卓に置き去りにされていた教授の私物だ。
パシン――ッ!
二発目は背筋に沿って走り、皮膚の下に熱を残した。
脊椎が撓んだ感覚とともに、呼吸がずれた。
喉の奥で息が止まりそうになる。けれど声をあげれば、「悦んでる」と笑われる。悠翔は知っていた。
「こういうのってさ、兄貴たちにもされてたんでしょ? 慣れてるじゃん」
前から別の学生が顔を覗き込んでくる。
視線が合う。だが、そこに“人”はいなかった。レンズのような無感情だけが、悠翔の表情を写していた。
「なに黙ってんの。お礼、言ったら?」
その言葉と同時に、三発目。
今度は腰骨に当たった。ベルトのバックルが、骨の出っ張りを叩く。
金属の冷たさが、皮膚に喰い込む。
痛みはもう感覚ではなかった。頭の奥で鐘のように鳴っていた。
――また、この感じだ。
――昔も、何度も、こうだった。
記憶が重なる。
小学六年の夜。風呂上がりにリビングで正座させられ、兄・蒼翔がベルトを引きずって入ってきた夜。
“泣くな。泣いたらまた、やるからな”と吐き捨てる声が耳に残る。
その頃と、今と。
時間の距離だけが、なにも変えてくれなかった。
「服、脱げよ。そっちのが痛覚、伝わりやすいんだってさ」
誰かが笑った。
誰かが椅子を蹴った。
誰かが、スマホの録画ボタンを押した。
悠翔は、服の襟をつかまれた。
無理やり引き裂くことはしない。自分で脱がせることに意味があると、彼らは知っている。
羞恥が痛みに上書きされる前に、言葉が来る。
「“兄に触れられると安心する”って……これ、ほんと?」
そう言いながら、笑い交じりに「感謝文」を音読される。
悠翔の筆跡を模して書かれた、その手紙。
“ぼくは家族が大好きです。兄たちは、ぼくを良くしようとしてくれてるんです。
だから、叩かれても、罵られても、それは愛なんだと思います。”
「じゃ、これは愛だよな? 俺ら、愛してるってことか?」
そう言いながら、次の一撃が加えられた。
こんどは棒だった。
黒板の横に立てかけてあった、木製の指示棒。端がささくれている。
肋骨の下に、打ち込まれる。
乾いた咳がこぼれた。吐きそうになる感覚を、喉でせき止める。
静かに血がにじんでいた。
視界の端に、椅子の脚が映る。
床には、ページを破かれたノートの断片。
破かれた一枚には、自分が書いた本物の感謝文の断片があった。
“だれも、信じてはくれない。
でも、それでも、ぼくは——”
それ以上の言葉は、赤いしみで読めなくなっていた。