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午後 のゼミ室は、冬でも暖房が効きすぎていた。閉め切られた窓、ゆるく施錠されたドア、横長のブラインド。その中で、悠翔の存在だけが、別の気温で動いているようだった。
「なあ、これ、見てくれよ。俺たち、ちょっとした“表現者”になったかも」
そう言って笑ったのは、いつも前列に座る文学志望の男だった。彼はスマホを差し出す。
画面には、匿名SNSの投稿。そこには――
『某有名兄弟の末弟、大学での「観察記録」始めました。記録、加工、分析、再構成――すべては研究のため。』
悠翔の写真が何枚も貼られていた。
食堂で膝を抱える姿、講義室で寝ている姿、トイレ前で手を洗う姿。
どれも隠し撮り。どれも、日常の一部を歪んだ視点から切り取ったものだった。
「もうさ、“素材”にしか見えないんだよね、悠翔くん」
声をかけた女子学生が、指で彼のシャツを引っ張った。
その手つきは優しげで、だからこそ皮膚の奥まで痛んだ。
「で、こっちは“自白文”。君のノートに挟んでおいたよ」
そう言って差し出されたプリント。そこには筆跡を真似た字で、こう書かれていた。
ぼくは、兄たちにされることが、嫌いじゃない。
たぶん好きなんだと思う。
殴られたり、罵倒されたりすると、自分が“生きてる”って気がする。
ぼくはそういうふうに、壊れてしまいました。
(202X年某日、大学内某所にて)
「ほら、“文章としての完成度”高いだろ?」
別の男が笑う。スライド式の教室ドアに鍵をかけた音が響いた。
窓のブラインドが一枚ずつ下ろされ、最後には教卓上の備品収納棚が開かれた。
中から取り出されたのは、旧式の木製指示棒と革のベルトだった。
「教授、これ置きっぱにしてたんだよな。よくないよな〜」
そのベルトは誰のものか分からない。けれど、それが今、悠翔の存在に向けられていた。
「じゃ、演習始めよっか。“痛みの描写”ってやつ」
指示棒が机の端にたたきつけられ、木の音が教室に反響する。
悠翔が肩をすくめた瞬間、別の学生が背後から襟をつかんで椅子に押しつけた。
「なに驚いてんの。ほら、“慣れてる”んじゃなかったの?」
スライドが切り替わるように、次の道具が出てきた。
ビニール袋の中に入った何本かのケーブル。延長コード。洗濯バサミ。
誰かが言った。
「こういうの、きみの“おうち”でも使われてたんでしょ?」
冷たい声だった。軽蔑ではなく、関心すらない声。
彼らはそれを使って悠翔の身体を「実験台」にした。
コードを足首に巻きつけ、ケーブルを椅子の足に結び、服の上から“感度テスト”と称して指示棒で叩いた。
洗濯バサミは、手首の内側と耳たぶに。
「身体が硬いな。もっとほら、力抜けよ」
悠翔は声を出さなかった。出せば、「悦んでる」とされると知っていたから。
教卓の上には「感謝文」が置かれていた。
いつも皆さんにはお世話になっております。
優しい皆さんのおかげで、ぼくは“矯正”されつつあります。
怖い兄たちの代わりに、やさしく叩いてくれてありがとう。
もう少しで、“正しい弟”になれそうです。
感謝をこめて。〇〇ゼミ・悠翔
「これは教授が“添削”してくれたんだよ」
教員も――知っていた。
一度だけ、悠翔が血のにじんだ手を隠そうとしたとき、教授はこう言った。
「そういうの、君の家庭的背景が見えて良いよ。作品性がある」
つまり、黙認ではなく、積極的に取り込んでいた。
ドアが開いたのは、小一時間後だった。
授業が終わったという知らせのチャイムが鳴っても、誰も席を立たなかった。
悠翔だけが、床に膝をついたまま、ノートのページを一枚ずつ引き裂いていた。