「――?」
何だろう?と思いはしたものの、課長と話している最中だ。ここで課長に背中を向けて背後を確認するのは良くないかな?とも思ってしまって、天莉はひとり振り返れない。
そうこうしていたら、天莉の背中越し。
遠くを見つめるように目を眇めた総務課長が、ガタッと慌てたように立ち上がって。
天莉はその様子に「あの、課長……?」と声を掛けたのだけれど、彼はまるで目の前の天莉なんて目に入っていないみたいにびしっと背筋を伸ばした。
(えっ、何?)
未だ背後で何が起こっているのか把握出来ていない天莉は、ますます訳が分からなくて混乱してしまう。
と――。
いきなり後ろから「風見課長、少しよろしいですか?」とゾクリとするようなバリトンボイスが投げかけられて。
天莉はここ数日ですっかり聞き慣れた、その低音イケボに思わず振り返った。
「……高、嶺、常務……」
すぐそばに立つ長身の男性を見上げて声が震えてしまったのは、まさか尽が今まで殆ど足なんて運んだことのない総務課フロアに現れるとは思っていなかったから。
尽の後方にまるで彼に付き従う影のようにぴったりとくっ付いた直樹に小さく頷かれた天莉は、それがどんな意味で自分に向けられたサインだったのか全く見極められなくて余計に戸惑ってしまう。
「わ、わたっ、わたくしにご用ですか……っ? た、高嶺常務がっ?」
いきなり尽から指名された課長が、動揺の余り声を上ずらせて――。
だが、尽はそんなのお構いなし。
「ええ、風見課長に話があります。ここでは何ですし、後ほど印鑑ご持参のうえ私の執務室まで来ていただけますか?」
言って、ちらりと天莉に視線を投げかけると、尽が当然のように「そこにいらっしゃる玉木さんも一緒に……」と何でもないことのように付け加えてくる。
それを聞いた天莉は「えっ」とつぶやいて大きく瞳を見開いた。
「あ、あのっ、常務っ」
天莉が思わず『何で私まで!?』という思いで尽を見上げたら、それを断ち切るみたいに「では後ほど……」とクルリと踵を返されてしまう。
尽が立ち去っても、しばらくの間フロア内はしん……と静まり返っていて。
その静寂を破るみたいに場違いな声を発したのは江根見紗英だった。
「やぁーん。私ぃ~、初めて高嶺常務と秘書さんを間近で見たんですけどぉ~! お二人ともめちゃめちゃ背が高くてハンサムさんじゃないですかぁー。あ~ん、紗英っ、あんな人たちとお付き合いしたいですぅー!」
先日天莉の彼氏だった男――横野博視との婚約を電撃発表したばかりだというのに、悪びれもせずまるで今からでも遅くないみたいに現在進行形で言い切った紗英に、みんなが「えっ?」という視線を向けたが、本人はそんなの一向に意に介した様子はない。
「お腹の子もぉー、ちゃんと育ってないみたいでしんどいしぃ~、いっそのこと紗英、赤ちゃんとサヨ……」
「江根見さんっ」
このまま紗英にしゃべらせ続けてはいけない、と直感的に思ってしまった天莉だ。
(この子、今絶対赤ちゃんとサヨナラって言い掛けた!)
そんなことをサラリと言ってしまいそうになる紗英のことをたまらなく怖いと思ってしまった天莉だ。
紗英の言葉をさえぎるようにして後輩の元へ駆け寄ると、
「悪いんだけどこの書類のこと、少し教えてくれないかな?」
たまたま目についた書類――どう見ても紗英の仕事だと思われた――を手に取って後輩の眼前に突き付けた。
***
紗英が任された仕事のはずなのに……。
彼女から聞いても一向に埒が明かない、要領を得ない説明しか返って来なくて。
自分で聞いた手前、紗英の説明を途中で切ることがままならなかった天莉が、いい加減時間の無駄かも……とうんざりし始めたところへ、課長から声がかかった。
天莉はこれ幸いと「ごめんなさい、江根見さん。話はまた」と告げて、課長の元へおもむいた。
***
「なぁ玉木くん。キミは上のフロアには縁がなかっただろうから一応釘を刺しておくんだがね、くれぐれも粗相のないように頼むよ? そうだなぁ。上へ行ったら私の後ろにぴったりとくっ付いて、始終私の影にでもなったつもりでいること。――いいね?」
溜め息混じりに告げられたその言葉で、こちらの都合なんてお構いなし。
課長は今から高嶺常務の執務室へ向かう気なんだ、と察した天莉だ。
(確かに役員フロアは私みたいな平社員には縁のない場所ですけど……)
余りに失礼な物言いに、天莉は病み上がりだということもあってだろうか。
いつも以上にモヤモヤしてしまった。
権力におもねるところがあるこの課長は、後ろ盾のない平社員のことはこんな風に見下す傾向がある。
(ホント、嫌な上司……)
入社後すぐに総務課に配属されて五年ちょっと。
紗英が自分の下へ就いた年にここへ配属になったこの課長のことを、天莉は正直好きになれない。
紗英とセットでやって来たからか、紗英の仕事=天莉の仕事と押し付けられてきたことがトラウマになっているとも言えた。
そんな課長に、「それにしても何でキミまで……」とぶつくさ不満げにつぶやかれて、(そんなの私が聞きたいです)と思ったのは必然だろう。
エレベーターを待っている間や、歩いている道すがらなど、散々ネチネチと愚痴られ続けていい加減勘弁してください、と思い始めたころ、やっと尽の執務室に着いた。
(長かったぁぁぁ……)
実際には下から総務課のある七階フロアまでエレベーターが上がってくるのに時間が掛かっただけだったので、天莉としては課長がエレベーターを待っている間、ひとり階段で八階まで上がって、箱がくるのをエレベーターホールで待っておきたいくらいだった。
そうすればお小言タイムが少しは軽減されたかも知れないのに。
(口答えせずよく耐えたわ、私。偉いぞ)
一言えば十返って来ることは分かっていたので、あえて何も言わずに課長の嫌味を聞き続けた天莉だ。
目的地にたどり着いたのがこんなに嬉しかったことはないかも知れない。
【常務取締役室】と札の掛かった扉の前に立つと、課長がわざとらしく姿勢をただして。
「玉木くん、分かっているね? キミは今から私の影だ」
そう言われて課長の後ろへ黙って立ちながら、天莉はここへ来るのは〝あの夜〟以来だなと思って。
でも、考えてみたらこんな風に扉を外からまじまじと見たのは初めてだと気が付いた。
(あの時は私、気を失ってたから)
恐らく尽が自分を抱えてこの扉をくぐったんだろうと想像して、ぶわりと頬が熱くなって。
天莉は慌てて気持ちをそこから引き剥がした。
そうこうしているうちに課長が扉をノックして、「総務課の風見です」と名乗ったのを機に、中から扉が開かれる。
どうやら予めドア付近に秘書の伊藤直樹が控えていたらしい。
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」
直樹に促されて課長の後ろへ付き従うようにして中へ入ると、尽が机に就いた状態でこちらへ鋭い視線を送ってきた。
天莉はここ数日自分と一緒にいた甘々な高嶺尽と、いま目の前にいる猛禽類のような〝高嶺常務〟は別人ではないかと思って。
「とりあえず掛けなさい」
スッと目を眇めるようにしてこちらを見詰めてきた尽から、以前自分が寝かされたソファとは別の応接セットへ目配せされた。
尽も立ち上がってこちらへ歩いてくるのを横目に、やけにぎくしゃくした足取りの課長に付き従って応接セットへと近付いた天莉だったけれど、「玉木さんはこちらへ」と、尽から追加の指示が来て。
尽に指し示されたのは、課長の対面側の席――今から尽が座るであろう側――だったから、天莉は思わず「えっ」とつぶやかずにはいられなかった。
それは課長も同様だったようで、大きく目を見開いて天莉と尽を交互に見遣って。
なのに尽はそんな課長の視線なんてお構いなし。
「聞こえなかったかね? 天莉、キミはこちら側だ」
不敵な笑みを浮かべてサラリと下の名を呼んで天莉の手を取ると、課長から引き剥がしてしまう。
尽が明らかに暴走しているのを感じた天莉は、執務室入口に控えた直樹にちらりと視線を投げかけてSOSを出したのだが――。
何故か直樹は小さくうなずくだけで尽の暴挙を止める気はないらしい。
(な、んでっ?)
頭が混乱する天莉をよそに、尽が「まぁ座って」と声を掛けてきて、皆で一応に着座したのだけれど。
課長と斜向かいに座る格好で、尽の隣へ腰掛ける形になった天莉は、非常に落ち着かない。
だって、これではまるで――。
「実はね、今日こちらへご足労頂いたのはとても個人的な話なんですよ、風見課長」
尽が口を開いた途端、室内の空気がピリリと張りつめて感じられた天莉だ。
単に尽の声音がうっとりするほどに洗練されたバリトンボイスだからというだけではないだろう。
恐らく今から尽が言おうとしていることが分かってしまって、血の気が引いてしまっただけ。
(ダメです、常務っ。そんなことされたら私……)
――ますます貴方から逃げられなくなってしまうではないですかっ。
ギュッと太ももの上に載せた手を握りしめたら、そこへ尽の温かな手がそっと載せられて。
「ひゃっ」
思わず真っ赤になって声を上げたと同時――。
「彼女は私の大切な婚約者だということを、天莉の上司である風見課長にだけは重々知っておいていただきたいと思いましてね」
尽が高らかにそう宣言した。
「はっ、……えっ?」
尽の言葉を受けた課長が、『そうなりますよねぇー、分かります!』という間の抜けた顔になって。
うまく言葉が紡げないみたいに口をパクパクさせながら、天莉と尽を交互に見比べる。
「た、まきくんと……高嶺常務が……?」
「はい、彼女と私が」
天莉が、(この人、普段は〝俺〟と称するくせに、公の場では〝私〟なんだなぁ)とかどうでもいいことを思ってしまうのは、彼女も大概今の状況に順応しきれていないからだろう。
そんな天莉と課長を置き去りに、
「伊藤くん、例のモノを持ってきてくれるかな?」
尽が、戸口付近でどこぞの大貴族に仕える執事よろしく静かに佇んでいた直樹に声を掛ける。
(例のモノって何? 今度は一体何が出てくるの?)
当事者であるはずの天莉もそう思ったのだ。
部外者に近い課長が落ち着かない様子で、指示を出された直樹の動きに注視したのは致し方ないことだろう。
尽の言葉を受けた直樹が、主人に軽く会釈を返すと、尽のデスクから一葉の書類を手にして尽へ手渡した。