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「――天莉、キミに来てもらったのは他でもない。風見課長にもお力添えを頂いて、この書類を仕上げてしまいたくてね」
言われて目の前に広げられたのは、小豆色で印刷されたA3サイズの書類。
シンプルな見た目のそれには、左肩に【婚姻届】と印字されていた。
天莉がそれを見て瞳を見開いたのは当然の反応だ。
だってその書類は、先日尽の家で天莉が書かされた猫柄の可愛いのとは明らかに違っていたのだから。
(な、んで……また婚姻届!? 前のはどこに行っちゃったの?)
当然目の前に広げられた小豆色の書類はまっさらで、天莉には何が何やらさっぱり分からない。
「え、あ、あのっ……」
疑問を挟もうとしたら、握られた手に力を込められてグイッと尽の方へ引かれて。
スッと彼の唇が耳元へ寄せられた。
「天莉、とりあえず今は俺の言う通りにして? 事情は後でちゃんと説明するから」
「ひゃうっ」
そのままぼそぼそと耳孔へ直接吹き込むようにささやかれた天莉は、言葉の内容もさることながら突然尽に距離を削られたことにビクッと身体を跳ねさせてしまう。
(かっ、課長の前でいきなりっ、こんなっ)
一気に熱を持った耳を押さえて尽を睨んだら、ふわりと優しく微笑まれた。
「ごめんね、天莉。キミが余りに可愛い反応をするものだから、つい……」
まるで今、自分は衝動的に恋人の耳朶にキスをしてしまったんだ、と言わんばかりの口振りでそう告げた尽に、天莉はパクパクと口をわななかせる。
要らないことを言おうものなら、何をされるか分からない、と思った天莉だ。
「実は彼女にもこの書類のことは秘密にしていましてね」
スッと声の調子を変えて尽が告げた言葉は、目の前で突然見せつけられたイチャイチャに戸惑う課長への言葉らしかった。
「サプライズだったので、驚かせてしまったようです」
「あ、そ、そう……だったの……です、ね」
課長は情報量の多さに色々処理しきれていないのか、目が虚ろに見えた。
そしてそれは天莉にしても同様で。
尽の真意が全く理解できなくてソワソワと落ち着かない天莉に、直樹がスッと何かを差し出してくる。
よく分からないままに受け取って何気なく眺めたそれは、【玉木】と刻まれた印鑑だった。
「風見課長は先ほど私がお願いした通り、印鑑、持ってきて下さっていますよね?」
そういえば、課長が先ほど総務課で尽からそう指示を受けていたことを思い出した天莉が、すぐ横に座る尽の横顔を見詰めたら「天莉のは俺が家から持ってきたからね?」と、同棲していることを思いっきり仄めかすような発言をぶち込んでくる。
(ちょ、ちょっと待ってください、常務っ。私、こんな印鑑持ってません!)
と天莉が心の中で抗議しているのも、きっと全てお見通しなのだ。
天莉が反論しようとするたび、握られたままの手にギュッと力が込められるから。
そう。今、天莉が手にしている印鑑は、天莉自身初見のもの。
家から持ってきたという言葉さえ怪しい、まっさらな印鑑だった。
非難がましく尽を見詰めてみたけれど華麗にスルーされて。
助けを求めて直樹に視線を転じたら、何故か小さくうなずかれて会釈されてしまった。
(伊藤さん、その首肯の意味を教えて下さい! 私、このまま流されてしまっても大丈夫ですか?)
実は失礼な話だが、尽よりも彼の秘書の方が誠実さは上だと思っている天莉だ。
尽だけではなく直樹にまで、『問題ないですよ』と言った感じでに現状を受け入れるよう促されては従うしかない。
尽がいつぞや見せてくれた『パーカー社』のソネットシリーズの高級ペンを取り出して、サラサラと天莉の横で『夫になる人』の欄を埋めていくのを見詰めながら、天莉は戸惑いつつ、自分も肚をくくるしかないのかなと思って。
過日猫の婚姻届に予め書かれていた文字を見た時にも思ったけれど、尽はとても綺麗な字を書く男性だ。
筆圧は少し高め。跳ねる所はしっかりと跳ね、止める所はグッと止まる、堂々として男らしい、まさに尽自身のように威風堂々とした自信に満ち溢れた文字。
それでいて整っているからだろう。
とても読みやすいのだ。
そんな文字で一通り自身が書くべき欄を埋め終えた尽が、天莉にそのペンを差し出してきて。
手渡されるままに受け取ったペンの軸部分には、まだじんわりと尽の手の温もりが残っていた。
一度書いたことがある書類だ。
天莉は前ほど惑わずに『妻になる人』の欄を埋めることが出来た。
出来たのだけれど――。
「天莉の書く字は本当に繊細で女性らしいよね。実に俺好みの文字だ」
書き終えたと同時、ついっと距離を詰めてきた尽に、手にしたままのペンをスッと抜き取られざま、そう耳打ちされて。
天莉は予期せぬ不意打ちに思わずビクッと肩を跳ねさせた。
そんな自分たちの茶番を、課長がずっとうかがうように見ているのが、天莉はどうしても気になって仕方がない。
尽が天莉から引き取ったペンをスーツの胸ポケットに仕舞ったと同時、直樹が別のペンをサッと添えて、書類の向きをくるりと変えた。
天莉がまさか、という思いで見つめていたら、尽が「風見課長にはこちらを埋めて頂きたいのです」と、証人欄を指さして。
天莉は『(偽装とは言え)何でそれを彼に頼みますかね!?』と思わずにはいられない。
「えっ、わたくしが、ですかっ?」
課長の言葉にもっともだと心の中で激しく同意しながらすぐ隣に座る尽をそわそわしながら見詰めたら、二人の疑念を封じるみたいに尽が言葉を継いだ。
「風見課長は私の大事なフィアンセの上司でいらっしゃいます。貴方は総務課内において、社員同士の先輩後輩などと言った縦の繋がりをとても大切にしておられると、そこの伊藤から報告を受けていましてね。この証人欄はそんな貴方だからこそ、是非とも埋めて頂きたいのですよ」
尽の声はとても穏やかだったけれど、それは暗に教育係だったからという繋がりだけで、いつまでも江根見紗英の仕事を先輩である天莉に押し付け、尻拭いさせていることを自分は把握していますよ、と示唆しているようにも聞こえて。
目の前で課長がヒュッと息を詰めたのが分かった。
「た、まきくん、もしかしてキミ、高嶺常務に……」
その気まずさの矛先を天莉に向け、まさか恋人へ告げ口をしたのか?と問おうとでもしたのだろうか。
どう責めるべきか逡巡した様子で言い淀んだ課長へ、「玉木さんからは何も上がってきていませんよ? ひょっとしてわたくしが高嶺常務へ報告したことに、何かまずいことでもございましたでしょうか?」と直樹が割って入る。
「あ、いえ、別にまずいことなど――」
直樹の助け舟に課長が慌てて口をつぐんで。
「――おや? やけに汗をかいておられますね。もしかして部屋の換気がよくありませんでしたかな?」
変な汗をかきながらギュッと身体を縮こまらせた課長に、尽が追い打ちをかけるようにそんな声を掛けるから。
課長は「だっ、大丈夫です! とても快適であります!」と下級兵のように答えながらますます小さく萎んでしまう。
天莉は課長のそんな姿を見て、少しだけ溜飲が下がった気がして。
震える手で、猫の婚姻届では空きのままなはずの『証人欄』に、〝風見斗利彦〟という課長の名前などが埋められていくのを存外穏やかな気持ちで見守ることが出来た。
だって、きっといま目の前で書かれている小豆色の書類は、課長に圧を掛けるためだけに用意された偽物に違いないと確信できたから。
課長が使っている、会社から支給されている安いボールペンを見詰めながら、(本当に信頼している相手になら、高嶺常務はご自分のペンをそのまま手渡したはずだもん)とさえ思ってしまった。