翌朝
窓から差し込む陽光は眩しいほどに輝き、世界を祝福しているようだった。
けれど、それとは裏腹に、目の前に座るベル様を包む空気は、まるで吹雪の中にいるかのように冷たく凍りついていた。
昨夜、ゼノス公爵から聞いた彼の過去が、今も鋭い棘となって私の胸を締め付けている。
(どれほど寂しかったことか。どれほど、自分の心を殺して生きてきたのか……)
私は彼に少しでも元気を出してほしくて、凍りついた空気を溶かすように、努めて明るい声で話しかけた。
「ベル様、今日は良ければお仕事の後に、隣町まで行ってみませんか? ちょうどベル様が気に入りそうな、可愛らしい雑貨も売っているようで──」
私が精一杯の微笑みを向け、彼の大きな、けれど今は強張っている手を握ろうとした
そのときだった
「……っ!」
ベル様は、まるで熱い鉄にでも触れたかのように、私の手を激しく振り払った。
静かな部屋に、肌が弾かれる乾いた音が響く。
拒絶の衝撃に、私の指先は行き場を失って空を切った。
「……ベル様……?」
「……す、すまない。……しばらく、一人にしてくれないか」
ベル様は私と目を合わせようともせず、低く掠れた声でそう告げた。
その瞳は、何か恐ろしいものを見るかのように揺れている。
私はショックで心臓を掴まれたような心地だったけれど
ここで泣いてはいけないと、無理に口角を上げた。
「……わかりました。ごめんなさい、お邪魔したみたいで。また、今度誘いますね」
精一杯の笑顔を作って部屋を出た。
けれど、扉を閉めた瞬間に背後から聞こえたベル様の重く深い溜息が、鋭い刃となって私の胸に深く突き刺さった。
それから数日。
ベル様は目に見えて、より強固な「殻」の中に閉じこもってしまった気がする。
夜、寝室に彼が来ることは完全になくなり
心配してお夜食を届けても、扉越しに「そこに置いておいてくれ」と冷たく拒まれるだけ。
(私の存在が、彼を追い詰めているの……?)
良かれと思ってしたこと、彼の過去を知って寄り添いたいと思ったことが
彼にとっては耐えがたい重荷だったのではないか。
そんな不安が黒い霧のように頭をよぎり、居ても立ってもいられなくなった私は、一人で街へ出た。
そこで偶然、再びゼノス公爵に出会ったのだ。
私は藁にもすがる思いで、公爵に現状を相談することにした。
「最近…ベル様の様子がおかしくて、どうすればいいか分からないのです……」
「おかしい、っていうのは…?」
「どうも、私を避けているようで。でも、どこか誤解があるようで。私の言葉も、もう彼の耳には届いていないようで……っ」
弱々しく、今にも消え入りそうな声で語る私を見て、公爵は静かに目を細めた。
「それは……悩ましいね。だけど、そんなことでそれほどまでに悩むということは……君は本当にベルのことが好きなのだね」
以前の私なら、恥ずかしさから否定していただろう。
だが、今回ばかりは隠せなかった。
「そうです、好きなんです……。だから、なにかしてしまったなら謝りたいですし、どうにかしたいんです」
正直に、魂を削るような思いで告げると、公爵は少しだけ驚いた後、真剣な顔で言葉を返してくれた。
「それなら……ちゃんと二人で向き合って話してごらんよ……ベルのためにもね」
その言葉は厳しくもあったが、私に最後の一歩を踏み出す勇気をくれた。
私は公爵に深く頭を下げると、走り出すように屋敷へと向かった。
◆◇◆◇
帰宅し、震える鼓動を抑えながらベル様の私室に向かう。
今度は拒まれることもなく、彼はすんなりと扉を開けてくれた。だが、その代わり。
彼は私を見ると、表情を一切変えず、石像のような冷たさで、けれど声だけを僅かに震わせて言い放った。
「単刀直入に言うが……。もう、無理して私の傍にいなくていい。……リリア、君が離婚したければ、そうする。手配は私がすべて済ませよう」
心臓が止まるかと思った。
視界が白く明滅する。
「……急になにを、言ってるんですか……? どうして、そんなことを」
「さっき、君が公爵と親しげに話しているのを見かけた。盗み見るつもりはなかったが……彼と笑い合う君を見て、ようやく目が覚めたんだ」
「それは……! ベル様のことを相談していただけで……っ!」
必死に否定したが、ベル様はどこまでも哀しげに、自嘲気味に首を振った。
「やはり、か。……すまない。私の存在そのものが、君の善意を搾取していたのだと気づいたんだ。私の惨めな過去に同情し、責任感から私を支えようとしてくれているのだろう」
「だが、君の優しさに甘えて、君の人生を浪費させるわけにはいかない。私のような男を、君が心から好いてくれるはずがなかったんだ。……それを、ただ伝えたかっただけだ」
「違います、ベル様! 私は──」
叫びながら彼の手を掴もうとしたけれど、その瞬間に至近距離で見えた彼の瞳に、私は息を呑んだ。
そこにあるのは、冷酷な拒絶などではなかった。
今にも泣き出しそうなほど、深く、絶望的なほどに揺れている──。
それは、大人の男の瞳ではない。
信じていたものに裏切られ、捨てられるのをただ待つことしかできない子供のような、悲痛な光だった。
「……頼むから、考えておいてくれ、リリア」
私の言葉を待たず、ベル様は逃げるように背を向けて部屋を出て行ってしまった。
追いかけるべきなのに、足が震えて一歩も動かない。
その夜、広いベッドで一人。
私は彼が振り払った手の熱を、あの時の彼の悲鳴のような瞳を思い出しながら、止まらない涙をシーツに零し続けた。







