春が終わって、夏が来た頃のことです。
学校から帰ってきた和真は僕と母が住む1Kのぼろアパートの一室に帰ってくるなりこう言いました。
「…もう学校行きたくない。しばらく休んでいい?」
自分用の机の引き出しを開きながら、和真は悲しそうな顔をしていました。
和真の机の右端には母から貰ったお小遣いやお年玉を貯めた貯金箱があって、その隣には僕と同じで教科書や
ノートが詰められた引き出しがあります。
「急にどうしたの和真。何があったの」
僕がそう返すと、和真は目にじわじわと涙を貯めて震えるような声で僕にこう告げたのでした。
「家庭環境の事、クラスメイトに馬鹿にされた」
母は、確かに僕や和真には厳しいときもあるけど完全な悪者ではありません。
ふとした瞬間にスイッチが入ったように狂い、頭を掻きむしり、断末魔の様に怒鳴り声をあげるのです。
そしてそれが始まったら最後、母の気が済むまで終わらない。
母の機嫌が悪いと、僕は和真と二人で狭い押し入れの中に入り一晩を過ごしたこともあります。
その日の朝は決まってお味噌汁の匂いと卵焼きの焼ける匂いで起きて、そして母におはようを告げるのです。
「どうして馬鹿にされたの?誰に?」
「俺と同じ学校の、隣のクラスの奴。……特に仲良いわけじゃないんだ」
和真は吐き捨てる様にそう言いました。
僕は何も言えませんでした。和真のクラスメイトを全員知っているわけではないし、
それにその人がどんな人なのかも知りませんから。
「そいつにさ、言われたんだよ。『お前ん家って貧乏なの?』ってさ」
「……うん」
「それで俺ムキになって言い返したんだ。そしたら、『お前もしかしてあそこのヒステリックおばさんの子か』って」
和真は拳を握りしめて、小さく震えていて僕は何も言えませんでした。
クラスメイトに母を馬鹿にされたという事よりも、僕がさっきかけた言葉が和真の心を傷付けている事に気が付きました。
「それに、真優のことも、傷つけられた。『お前の姉ちゃん、女のくせに男っぽい振る舞い方してるの気持ち悪い』って」
「和真」
「俺、許せなくて。でも、何も言えないんだ」
それは多分、今まで僕と和真が過ごしてきた部屋に自分用の机と椅子があるのにどこかむず痒いように
感じてしまっているのと同じ気持ちなのなんでしょう。僕らの部屋にある家具は全部母のお下がりです。
「だから学校行きたくない。しばらく休んでいい?」
僕はなんて言えば良かったのでしょうか?きっと、何を言っても和真の心を傷付けてしまうような気さえしてきました。
涙をこぼしながらその場に小さく丸まって俯く彼に、僕はなんと声を掛けたらよかったんでしょうね。
___