テラーノベル
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世田谷の美術館を騒がせた強盗事件は、案外あっさりと幕を閉じた。
犯人の逃走経路から内部犯の関与を見抜いた柊さんがカマをかけ、犯人のボロを出させたからだ。パトカーの赤い光が夜の街を染め、連行されていく犯人の背中を見送りながら、私は大きく溜息をついた。
解決の余韻に浸る暇はない。私の左手首と、柊さんの右手首は、いまだに銀色の手錠で繋がれたままだ。
「……南、悪いが俺は署に戻って報告書の山を捌かなきゃならん。その指名手配犯の身柄は、小宮が来るまでお前が預かっておけ。じゃあな」
現場の指揮官は、有無を言わさぬ口調でそう言い残すと、夜の闇へと消えていった。
私は溜息をつき、腰のポーチに手を入れた。手錠を外し、この男をしかるべき場所へ連行するために。
「……え?」
指先に触れるはずの、硬い金属の感触がない。冷や汗が背中を伝う。ポーチの底まで指を這わせ、ポケットの隅々まで探るが、そこにあるのは虚無だけだった。
「……葵さん。さっきから何をそんなに、必死に自分をまさぐっているんだい? 僕への歓迎の儀式にしては、少しばかり場所と状況が不適切だと思うけど」
隣に立つ男が、繋がれた手首をわざとらしく持ち上げて、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「……鍵が、ありません」
「は?」
「手錠の鍵を、失くしました。……たぶん、さっきの犯人との格闘の最中に」
しばしの沈黙。夜風が通り過ぎる音だけが、虚しく響いた。
「……驚いたな。現役の刑事が、犯人を捕まえた直後に手錠の鍵を紛失するなんて。君のその正義感は、詰めの甘さの上に成り立っているのかい? それとも、僕と一秒でも長く繋がっていたいという、情熱的なアピールなのかな」
「……そんなわけないでしょう! ああもう、最悪です」
責め立てる柊さんの言葉が、真っ直ぐに突き刺さる。言い返す言葉もない。
私は渋々、スマートフォンを取り出した。
「……小宮さんですか? すみません、実は……手錠の鍵を紛失しまして。予備を持って、至急現場まで来てもらえませんか。……はい、すみません。本当に……」
電話の向こうで小宮さんが激昂しているのが、受話器を離していても分かった。到着までには一時間近くかかるという。
「……腹が空かないか?」
柊さんはそう言って、ラーメンというキーワードを繰り返した。
結局、私たちは駅裏のガード下にある、カウンターだけのラーメン屋にいた。
仕事帰りのサラリーマンが数人いるだけの狭い店内。私たちは一番端の席に、文字通り肩を寄せ合って座った。手錠を隠すように、上から私のトレンチコートをかけて。
「……葵さん、そんなに不機嫌な顔をしないでくれ。君のドジのおかげで、こうして美味しい食卓を囲めているんだ。感謝してほしいくらいだよ」
「誰のせいで鍵をなくしたと思ってるんですか。あなたが無防備に突っ立っているから、私が無理な体勢で犯人を抑え込む羽目になったんですよ」
「おや、責任転嫁かい? 警察官としての危機管理能力を疑わざるを得ないね」
柊さんは事もなげに言い、運ばれてきた背脂の浮いた真っ黒な醤油ラーメンを眺めた。
「ああ……これだ。この体に悪そうな濃縮された悪意の味。詐欺師の僕は舌が二枚あるから、これくらいの嘘臭い旨味がちょうどいい」
彼は一口スープを啜ると、恍惚とした表情で目を細めた。私は左手で無理やりレンゲを持ち、右利きの彼の邪魔にならないよう、不自然な体勢で麺を啜る。
「……自分のことを詐欺師って言うのは相変わらずですね」
「そこは変えずに行こうと思う。ところで、左手で食べる姿が随分と不器用だ。……貸してごらん、食べさせてあげようか?」
「結構です」
繋がった手首から、彼の微かな拍動が伝わってくる。その一定のリズムが、私の焦りを少しずつ静めていくのが分かった。
完食した後、柊さんは空になった丼を眺めながら、私の顔をじっと覗き込んだ。
「……さて。一文無しの僕には、残念ながら会計を済ませる能力がない。葵さん、ここは君が立て替えておいてくれないかな。……鍵を失くしたお詫びとしてね」
「……詐欺師の次はタカリ屋ですね、あなた」
私は溜息をつき、財布を取り出した。会計を済ませて外に出ると、夜風が火照った顔に心地よく当たった。
「ごちそうさま。これで僕は君に一つ借りができたわけだ」
「一つどころか、過去の分を入れると両手じゃ足りないくらいありますよ」
遠くから、パトカーが近づいてくる。予備の鍵を持った小宮さんが疲れた顔でこちらへ向かっている。
「……行きましょう、柊さん。ようやく解放ですよ。でも勝手にいなくなった件は小宮さんにこってり絞ってもらいますからね」
「やれやれ。手首だけじゃなくてそっちからも解放されたいな」
柊さんはそう言って、繋がれたままの手をひらひらと振った。
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