開店の支度を終えると、白百合の店内はほどなくして慌ただしくなった。
昼時ともなれば、帝大や近くの役所勤めの人々で席は直ぐに埋まる。
かやは湯気の向こうで盆を抱え、忙しなく立ち働いていた。
客の笑い声の中に、ひときわ静かな青年の姿があることに気づく。
肩に黒いバンカラマントを掛けた帝大の學生。
少し猫っ毛な黒髪が柔らかく揺れる。
目許の線は穏やかで、けれどどこか遠くを見つめているような__
そんな美しい青年だった。
彼は「珈琲を」とだけ頼み、席に座ると懐から一冊のノートを取りだした。
ページをめくる指は、まるで何かを確かめるように丁寧で、
時折、ペン先が紙を擦る微かな音がした。
(熱心な方だな……お昼どきくらい、休まれたらいいのに )
かやはそう思いながら、湯気立つ珈琲を運んだ。 すると、青年は静かに礼を言い、再びペンを握った。
やがて昼の喧騒が過ぎ去り、夕方の風が窓を震わせるころ__
かやがテーブルを拭いていると、先ほどの席に一冊のノートが残されていた。
(あ……あの學生さんのだ……忘れ物?)
かやは千代に尋ねる。
「千代さん…これ、どうしましょう?お客さんの忘れ物ですよね?」
「あぁ、大丈夫、取りに来るさ。」
と千代は軽く笑って言う。
そのまま日が傾き、店内が橙に染まった。
閉店の支度をしていた千代が溜息をつきながらノートを手に取る。
「……柳 慶一?! 」
驚いた声で表紙に書いてある名前を読む千代。
「お知り合いですか?」
かやが首をかしげると、千代が目を丸くして言葉を続ける。
「柳 慶一って……あの帝大を首席で入ったって噂の學生さんじゃないのかい?」
かやは驚きとともに、小さく息をのんだ。
昼間に見たあの學生が、そんな人だとは思いもしなかった。
「ちょーっとだけ、中見てみようか。」
千代がいたずらっぽく笑う。
「でも……いいんですかね?」
「平気平気〜」
ノートを開く千代。
千代は読み書きできないかやに気を使い、ノートに書いてある文字を声に出して読み始めた。
文字が声となって空気を震わせ、夕陽の射す店内に響く。
そこには、雨上がりの路地、すれ違う人々の表情、湯気の立つ珈琲の香り__
日常の情景を淡々と綴ったものだった。
だがその一文一文が不思議と胸に残る。
「すごい……」
かやは目を輝かせながら呟いた。
意味のわからぬ“文字”が、千代の声を通して形になる。
まるで、知らない世界を少し覗いたような気がした。
そのとき、店の扉が勢いよく開いた。
まだ冷たい夕風が吹き込み、ベルが短く鳴る。
「はぁ……よかった、間に合った…… 」
息を切らしながら立っていたのは、昼間の青年
柳 慶一だった。
走って来たのか、頬は赤く染まり、少し汗ばんでいる。
「申し訳ありません……ノートを忘れてしまって……」
「あ、……こちらですか?」
かやがノートを両手で差し出すと、慶一はそれを大切そうに胸へ抱き寄せ、 勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
その拍子に、頭に被っていた角帽がぽとりと床へ落ちる。
「あ…………」
慶一は慌てて拾い上げ、恥ずかしそうに苦笑を浮かべた。
「すみません……」
かやは思わず微笑む。
帝大を首席で入学と聞き、完璧な人かと思えば、こんなふうに少し抜けたところがある。
昼間との印象の違いに、胸の奥がほんのり温かくなる。
「授業が長引いてしまい、戻るのが遅くなりました。ご迷惑をおかけしました。」
「いえいえ…とんでもないです……!」
かやの言葉に慶一は安堵の笑みを浮かべ、少し照れたように目を伏せた。
「……中、見ました…か?」
「すこーしだけね?」
千代がいたずらっぽく笑いながら言う。
「素敵な言葉ばっかりだったわ。」
慶一は肩をすくめ、
「恐縮です…ただ、書き留めて起きたいことを並べているだけです……!
大したものではございません。」
だが、その声には照れの奥に確かな情熱があった。
「もしかして……小説家の方ですか? 」
かやは思わず声をかけた。
慶一は目を瞬かせ、次の瞬間、少し困ったように笑った。
「小説家?……」
「あ、…その……文章があまりにも綺麗で……」
慶一は目を逸らしながら言う。
「……残念ながら、僕はただの學生ですよ。
……でも、ありがとうございます。」
慶一は少しだけ微笑んで、胸の前でノートをそっと抱きしめた。
「ノートありがとうございました。……僕はこれで、失礼します。」
かやはノートを抱きしめて帰っていったあの姿が、目に焼きついて離れなかった。