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翡翠
昼下がりの江戸。見回りの途中、土方は一人で町を歩いていた。
人混みのざわめき、団子屋の甘い匂い、子供の笑い声。
いつもと変わらない風景。
――なのに、落ち着かない。
角を曲がった瞬間。
白い天然パーマが視界に入った。
銀時。
思わず足が止まる。
向こうも気づいたらしい。
一瞬だけ目が合う。
だが銀時は、いつもの調子で手をひらりと上げた。
「よォ、土方。真面目に見回り? 偉いねぇ副長サン」
軽い。いつも通りだ。
あの日の狂気も、あの部屋も、あの告白も。
まるで何もなかったかのように。
土方は口を開く。
「……お前、」
それ以上、言葉が出ない。
喉がやけに渇く。
怒鳴るべきか。殴るべきか。問い詰めるべきか。
何を言えばいいのか分からない。
沈黙が落ちる。
銀時は少しだけ目を細めた。
返ってこない言葉を待つように、数秒。
やがて――
その口元が、かすかに歪んだ。
笑っているようで、笑っていない。
どこか、申し訳なさそうな。
自嘲するような。
「……悪かったな」
小さく呟く。
土方が反応する前に、銀時は視線を逸らした。
「安心しろよ。もう攫ったりしねぇから」
冗談めかして言うが、声は乾いている。
そのまま、土方の横をすれ違う。
肩が触れそうな距離。
だが触れない。
土方は振り返らなかった。
いや、振り返れなかった。
数歩分の足音が遠ざかる。
胸の奥が、妙にざわつく。
何も言えなかった自分に、苛立ちが込み上げる。
思わず振り向いた。
遠ざかる白い背中。
その歩いた道。
石畳に、ぽつり。
ぽつり、と。
数滴の水が染み込んでいた。
(……雨?)
空を見上げる。
晴天。
雲ひとつない。
視線を、もう一度地面へ。
まだ乾いていない、小さな跡。
胸が、強く締めつけられる。
(…あいつ…泣いて……)
あの男が。
どれだけ斬られても笑っていたあいつが。
自分の背中を向けたまま、涙を落としている。
足が、勝手に一歩前へ出る。
呼び止めるか。
何を言う?
許すのか?
責めるのか?
――それとも。
喉まで出かかった名前を、土方は飲み込んだ。
拳を握り締める。
白い背中は、雑踏の中に溶けていく。
石畳の水跡だけが、やけに鮮明に残っていた。
土方の胸に、重く、鈍く、何かが沈んでいく。
それが怒りなのか、哀れみなのか。
それとも。
まだ、名前のない感情なのか。
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