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「真面目で一途なキミのことだ。どうせバカ女にほだされてキミを裏切ったクソ男のことにでも思いを馳せているんだろうが――」
わざとバカだのクソだの言い連ねて天莉を裏切った二人を貶める言い方をした尽の言葉に、天莉が貴方のご指摘は図星です……と言わんばかりに小さく肩を震わせるから。
尽は苛立たしさに思わず舌打ちをせずにはいられなかった。
「キミのような素敵な女性があんなろくでもないヤツらのために涙なんて流してやる必要はない。キミはあんな奴らなんて足元にも及ばないくらい価値のある人間だと思い知るべきだ」
「……そんな……私に価値なんて……」
尽が天莉の心を上向かせようと告げた言葉は、どうやら自己肯定感の下がった天莉には届かないらしい。
(五年も付き合った男に裏切られたばかりだ。無理もないか)
そう思いはしたものの、尽はその気持ちを肯定してやる気なんてさらさらないのだ。
「天莉、ひょっとしてキミは自分には価値がないって言いたいの? それを本気で言ってるんだとしたら、俺は見る目がない男だって遠回しに侮辱されてるとも取れるんだけど?」
「え……?」
「だって、さっき俺はキミに言ったよね? 俺は天莉のことを娶りたいと思ってるって。忘れたとは言わせないよ?」
そこだけはあえて背後に控える直樹にも聞こえるように声をワントーン大きくして告げた尽だ。
どうせゆくゆくは彼女をものにするつもりで自分が天莉に近付いていることは、直樹にだってとうの昔に知られている。
だが、それを天莉自身に告げているかどうかに関して、直樹はまだ知らなかったはずだから。
そこも明確にした上で覚悟を持って動いているのだと分かってくれたなら、直樹だって今から自分がすることにきっと目をつぶってくれるだろう。
(ま、イヤでもつぶらせるけどな)
案の定、背後で「尽、お前……」と直樹がつぶやく声がして。
尽は天莉と直樹のどちらへともなく「俺は本気だよ」と言葉を重ねた。
その言葉に天莉が涙に潤んだ瞳を大きく見開いて、「でも高嶺常務……」と小さな声で反論しようとするから。
尽はそのセリフを最後まで言わせたくないみたいにさらに畳み掛けるのだ。
「俺の認めた女性が、あんなクソ野郎と釣り合いが取れないのなんて必然だと思わないか?」
――だから天莉が横野博視と別れたのは当然の成り行きで、あれは天莉が次のステップへ進むために必要な通過儀礼に他ならなかったのだ。
そう思ってもらわないと困る。
「――そうだろう?」
尽は天莉の頬にそっと触れると、あえて彼女の瞳を真正面から見据えた。
「いつまでもキミがクソみたいな連中のために思い悩んでいる姿を見せられるのは正直気分が悪い。――なぁ、天莉。どうせ頭を悩ませるなら俺の申し出をどう承諾するかに全振りしてはどうかね? その方が余程建設的だし、正直な話、俺は天莉が俺以外の男のことを考えてると思うだけで死ぬほど胸くそが悪いんだけど」
さらりと結婚をOKする選択肢しかないのだと言い切った尽に、天莉がどうしたらいいか分からないみたいに瞳を揺らせるから。
尽は天莉との距離をグッと削って――。
「んんっ……!」
戸惑いを口にしようと開いた天莉の唇を、吐息ごと塞いだ。
***
じっくり数えてジャスト二秒――。
天莉から唇を離すと同時。
「こぉの大馬鹿野郎がっ!」
あごめがけて直樹の右ストレートが飛んできた。
天莉に許可なく触れたのだ。
直樹から叱責されることは覚悟していたけれど、さすがに言葉と一緒にここまで本気のパンチが飛んでくるとは思わなかった。
それで思わず条件反射。
自分に到達する前にパシッと直樹の拳を手のひらで受け止めてしまった尽だ。
まるで平手打ちでもされたみたいな乾いた音がして、直樹の攻撃を受け止めた右手にじん……と重い痛みが走る。
「直樹、お前……いくら何でも本気で殴りすぎだろ」
ギュッと直樹の手を握り込みながら言ったら、直樹が怒りに肩を震わせたまま尽を睨み付けてきた。
直樹は尽に握られたままの手を強引に引き抜くと、「玉木さんっ、大丈夫ですか?」と呆然自失のままの天莉に駆け寄る。
尽はそれを見下ろしながら天莉に問うのだ。
「――なぁ天莉。キミは今、俺に口付けられてイヤだったか?」
と――。
***
尽にいきなり口付けられてパニックになった天莉は、余りの衝撃に動作のすべてが停止した。
でも頭の中では、『高嶺常務の唇、柔らかかったな』とか、『舌を入れられたわけじゃないし……もしかして常務、足を滑らせちゃったのかな?』とか、『あ、うん。やっぱり事故だ、そうに違いない』とか……取り留めのない思考がグルグルと回る。
そんな呆然自失の天莉の目の前で、直樹が尽を殴ろうとして。
いつもなら慌てふためくシーンのはずなのに、それすら映画の中での出来事みたいにぼんやり眺めてしまっていた天莉だ。
「玉木さんっ、大丈夫ですか?」
自分の目の前にひざを折った直樹にそう詰め寄られてやっと。
天莉は、『あれはやっぱり現実だった?』と思ってにわかに恥ずかしくなる。
そんな天莉に、直樹の攻撃を軽くいなした尽が、「俺に口付けられてイヤだったか?」と問いかけてきて――。
天莉は小さく吐息を飲んだ。
(私……)
尽の柔らかな唇の感触が残る口元に触れて、天莉は直樹の背後から自分を見下ろしている尽を見詰め返した。
(びっくりしたけど……嫌じゃ……なかった……)
今まで付き合ってもいない異性と不用意に接近することを、絶対にありえないと思ってきた天莉だ。
なのに――。
(私、どうしちゃったの?)
傷心の身と言うのはガードが甘くなるというのは漫画や小説やドラマで〝知識として〟何となく知っていたけれど。
これでは自分もまるでそうなのだと現実を突きつけられているようで、何だかいたたまれない気持ちになってしまった。
(私、高嶺常務のこと、どう思ってるの? まさか……彼とどうこうなりたいって望んでる……? 博視にフラれたばかりなのに? 有り得ないでしょ)
――いや、もしかしたらフラれたばかりだからかも知れない。
自分の本心が分からなくて戸惑いに揺れる瞳で尽を見上げたら、直樹がそっと尽との間を遮るように立ち位置を変えてきた。
直樹の表情から、彼が自分のことを気遣ってくれているのを感じた天莉だ。
一見冷たそうに見える高嶺常務専属の秘書だけれど、実際はそんなことないのだと、天莉はここ数分で思い知ってしまったから。
答えの見えない自分の気持ちを先延ばしにするための拠り所として、天莉は直樹を縋るような眼差しで見詰めた。
***
直樹は天莉からの不安そうな視線を受け止めると、小さく吐息を落として立ち上がった。
そうしてゆっくりと幼なじみの方を振り返る。
そのまま天莉を庇うように彼女と尽の間に立ちふさがったまま――。
「尽、いま玉木さんにそういうことを聞くのはフェアじゃないだろ」
尽を睨み付けながらそう告げたら、幼なじみは何らひるむことなく半歩ばかり距離を詰めてきた。
ばかりか、そのまま直樹の耳元に唇を寄せると、直樹にだけ聞こえるくらいに低めた小声で言うのだ。
「直樹、お前はいつからそんなに馬鹿になってしまったの? 俺は本気で玉木天莉を口説きにかかってるって言ったよね? 彼女にもそう告げた上で動いている、とも示唆したはずだ。まさか……もう忘れてしまったの?」
確かに尽は直樹にそう宣言したのだ。
忘れるわけがない。
だけど目の前にいる玉木天莉という女性が、今まで尽が遊んできた他の女性たちと比べると、余りにも初心そうに見えて……。
尽に近付くことのメリットなんて微塵も計算していなさそうな雰囲気が、直樹の良心をやたらと刺激したのだ。
彼女を尽の毒牙にかけるのは忍びない、と思ってしまうほどに。
それに……。
(彼女はうちの娘の名前を――ひいては俺の大事な璃杜のセンスを褒めてくれたから)
出来れば天莉を自分たちの――というより尽の事情に巻き込みたくないと思ってしまった直樹だ。
幼なじみの今までの女性遍歴のように、尽が男としての欲求――主に性欲――を満たすためだけに動いていて……なおかつ相手も尽のステータスに利益を見出そうとしているのが透けて見えたなら。
その火遊びが尽の足を引っ張る綻びとならないよう、直樹は全力で尽を止められるのだが。
今みたいに本気で天莉を口説いているのだと言われたら、直樹は尽を全身全霊でバックアップしなければならなくなる。
(――僕はそのつもりで尽に仕えてきたはずだ)
そう。直樹は、幼い頃からずっと……。全ての柵から尽を守るのが自分の使命だと思って彼のそばにいたのだから。
「……忘れてはいない」
絞り出すようにポツンとつぶやいた直樹に、尽がわざとらしく吐息を落とした。
追い詰められたみたいに何も言えなくなってしまった直樹に、まるでとどめを刺すみたいに尽が続ける。
「――さっきお前はフェアじゃないって言ったよね?」
そこでいったん言葉を止めた尽が、喉の奥、ククッと押し殺したように楽し気に笑って。
「それが勝機になるんなら大いに結構じゃないか。俺はそれを最大限に利用させてもらうつもりだよ?」
尽は直樹の肩にポンと手を載せると、
「立場をわきまえろ、直樹。お前は俺の邪魔をするために俺のそばにいるわけじゃないだろう?」
静かな声音でそう問い掛けてきた。
いつも〝なお〟と呼び掛けてくるくせに、直樹に反論を許さないときにだけ、尽は自分のことを〝なおき〟と呼んでくる。
それは幼い頃からずっと変わらない暗黙のルールみたいなものだったから。
直樹はややしてポツンと――。
「玉木さん、申し訳ありません」
背中を向けたまま天莉に謝った。