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番外編 【新田は書店で気づかれないように立ち止まる】第七話
その夜、新田は家に帰ってから、買ってきた本を机の上に置いた。
もう一冊持っているのに、わざわざ買った本。
帯も、カバーも、書店のしおりもそのままだ。
彼はジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、それから椅子に座って、その本を眺めた。
表紙の猫は相変わらず偉そうだった。
「……何食わぬ顔しやがって」
思わずそう呟く。
猫に向けたのか、作家に向けたのか、自分でもよくわからない。
ただ、その“何食わぬ顔”が、この本には必要だった。
痛みも、みじめさも、生活の湿り気も、全部抱えたまま、それでもどこかで少しだけ可笑しい顔をしていること。
それを形にするまで、長かった。
新田は本を開く。
内容は知っている。
赤字を入れたのも自分だ。
削らせた一文も、残した沈黙も、全部覚えている。
それでも、書店で買って帰ったこの一冊は少し違って見えた。
もうこれは、編集部のデータではない。
作家と編集者のあいだだけにある原稿でもない。
どこかの誰かが、手に取ることのできる一冊だ。
そこまで来たのだと、やっと少し実感が湧いた。
窓の外で、夜の車の音が流れていく。
部屋は静かだった。
出版社の喧騒も、会議の空気もない。
ただ一人で、本と向き合う時間。
新田はふと、自分がこの仕事を続けている理由を考えた。
華やかだからではない。
儲かるからでもない。
報われることなんて、実際には少ない。
でも、と彼は思う。
たまにあるのだ。
こうして、誰かが書いた言葉が、ちゃんとこの世の棚に並んで、
見知らぬ誰かの家へ運ばれていくと知る瞬間が。
そのためなら、もうしばらくはやれる気がした。
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