コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
子供の頃、学校から帰ったらすでに玄関には小さな靴が並んでいて、リビングの隣にある防音室では自分よりも小さな子供達に母がピアノのレッスンをしていた。そして、レッスンを終えて親が迎えに来るまでの時間をリビングで過ごしていく教え子達。睦美がリビングでテレビを眺めながらお菓子を食べていると、横からチャンネルを奪われて観たくもない幼児用の番組に勝手に変えられ、食べているお菓子まで取られることもあった。
夕方になると、別に仲がいいわけでもない同級生が当然のようにやってきて、家の中を勝手知ったると歩き回られるのも嫌だった。もちろん、生徒の都合でレッスン時間が遅れてしまった時は、当然のように夕ご飯の時間まで大幅にズレる。
親が自宅でピアノ教室をしているせいで、睦美のプライベートは容赦なく生徒達に侵略されていた。
もちろん、学校でだって嫌な思いをすることはたくさんあった。音楽の授業で鍵盤ハーモニカの演奏を少し間違えてしまっただけでも、「ピアノの先生の子なのに……」とクスクス笑われることもあったし、何よりも毎年秋に行われる音楽会でピアノ奏者に選ばれないことを母から強く叱られ続けた。
「亜希子ちゃんは二年連続で選ばれたんですって。次のレッスンから課題曲の練習をしたいって、すごく頑張ってるのよ」
語尾に付けられる「それに比べて、睦美は……」に続く台詞はいつも耳を塞いで聞かないようにしていた。まともに聞いてしまえば、才能もなく無個性な自分が嫌になるだけだ。
こないだのステージの動画を母へメールで送ったと姉から聞かされていたけれど、実家からの連絡は何もなかった。きっと、年甲斐もない派手な格好でいい加減な演奏をしていた娘に呆れて物も言えないってことなんだろう。母は誰よりも世間体を気にする人だったし、完璧主義者でもあったから。
「ま、別にいいけど……」
就職が決まって実家を出てから何年も経つ。自分のやりたいことくらい、自分で決められる。母が反対したとしても、香苗とのユニットを辞めるつもりなんてない。ピアノのお姉さんは、睦美が見つけた自分自身の居場所でもあり、存在意義でもあった。世間がお姉さんと呼んでくれるうちは辞める気なんてないんだから。
以前にも訪れたことのある市民センターの廊下で、睦美は目の前のドアが開くのを静かに待っていた。中からは司会役の民生委員のおじさんが、保護者へ向けて挨拶をしているのが漏れて聞こえてくる。
――そう言えば、佐山さんも出産してなかったら来るって言ってたよね。もう生まれたのかなぁ?
二人目がまだ生まれてなければ観に来ると宣言していた佐山千佳。娘が睦美達のことがお気に入りだと言って貰えたのは嬉しかった。大人から何を言われようが、子供達に楽しんでもらえるのならそれだけでいい。
スタッフから合図され、会場となる大会議室のドアを押し開けると、中からワッと歓声が上がる。子供達に向けて手を振りながらステージへ上り、黒いグランドピアノの前に座ってから、楽譜を見上げて鍵盤に指を置いていく。今日もステージの最前列にはツインテール姿の姪っ子、沙耶の顔があった。姉と甥がどこにいるのかまでは見つけられなかったけれど、またみんなで来てくれたんだろう。
赤ちゃん連れの目立つこの会場では、優しい童謡から弾き始める。睦美が奏でるゆったりとした前奏に合わせて、リンリンお姉さんがマイクを片手に手を振りながら会場へと登場する。歌い始める前に一度だけ互いに目を合わせてから始まる、ピアノと歌のステージ。膝に子供を乗せて、曲に合わせて身体を揺らしている親子の様子を、睦美は微笑みながら見下ろした。子供と育む思い出の時間。それを構成する一役を担えていることが誇らしい。
会場の雰囲気を見ながら三曲目を演奏し始めた時、睦美は客席の後方に意外な顔を見つけて手が震え出しそうになる。遠慮がちに他の親子連れとは離れた場所で、口元をライトブルーの花柄のハンカチで抑えながら、その人はこちらのことをじっと見ていた。
――お、お母さんっ⁉︎ え、なんでっ⁉︎ さーちゃん、お姉ちゃん達と来たんじゃないのっ⁉︎
直接顔を見るのは半年ぶりくらいだったけれど、それは紛れもなく睦美と里依紗の母だ。癖のある髪を後ろできっちりとまとめて、隣には沙耶のピンクのリュックを自分のバッグと一緒に置き、カーペットの上に横座りしていた。
動揺で指が滑りそうになるのを必死で堪える。落ち着く為にも視線を楽譜に戻し、リズムに合わせつつ息をゆっくりと吐き出して、耳は香苗の歌声だけに集中する。今はピアノのお姉さんとしてやり切ることが最優先だ。香苗の透き通った声が、睦美に平静へと引き戻してくれる。
リンリンと共に歌う元気な行進曲に、ステージ前の子供達が飛び跳ねている。その元気な姿こそが香苗がここで演奏している理由だ。
観客の中でこちらに向けて手を振っている母親がいるなと思ったら、佐山千佳だった。娘の身体をリズムに合わせて揺らしながら、一緒になって口ずさんでくれているのが見えた。二人目はまだお腹の中にいるみたいだ。