テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第二十二話 朝に名前を呼ぶ
黒い神杯が消えた翌朝。
冬木の空は、拍子抜けするほど普通だった。
雲が流れている。
鳥が鳴いている。
遠くの道路では、車の音がする。
誰かがいつものように朝を迎え、いつものように学校や職場へ向かう準備をしている。
世界は、終わらなかった。
それどころか、何事もなかったように続いている。
けれど、衛宮士郎は知っている。
空の奥で、願いが燃えていたことを。
冬木の霊脈の奥に、無数の願いの種が眠っていることを。
神杯という黒い炉が砕け、願いがようやく燃えることをやめたことを。
そして、終わったからこそ始まるものがあることを。
◆
衛宮邸の居間は、またしても人で溢れていた。
凛は座卓の端に宝石板を広げ、眠そうな目をこすりながら霊脈の状態を確認している。
メディアはその横で、神代文字の簡易陣を展開しながら数式めいたものを書き込んでいた。
アルトリアは静かに正座している。
ランスロットはその少し後ろに控えている。
ジャンヌは旗を膝に置き、祈るように目を閉じている。
ギルガメッシュは縁側近くで腕を組み、相変わらず偉そうに空を見ている。
エルキドゥはその隣で、穏やかに庭の草木を眺めている。
クー・フーリンは柱にもたれてあくびをし、バゼットはきちんと座っている。
リチャードはやたら元気に朝の空気を吸い込み、イスカンダルは庭に置かれた戦車の調子を見ている。
ロード・エルメロイⅡ世は頭痛を堪えるように眉間を押さえていた。
桜は台所で湯呑みを並べている。
メドゥーサはその後ろに立ち、誰かが不用意に台所へ入らないように見張っていた。
イリヤは、座布団の上で小さく膝を抱えている。
その隣には、白い少女。
さらにその隣には、アルターエゴ。
どちらも、まだ名前がない。
士郎は味噌汁の鍋を見ながら、ふとその光景に苦笑した。
「……やっぱり人数、多すぎるな」
凛が即座に言う。
「今さら?」
クー・フーリンが笑った。
「坊主の家、戦争終わった後の宴会場みてぇになってんな」
ギルガメッシュが鼻を鳴らす。
「宴にしては質素だ」
士郎は振り返った。
「じゃあ食べなくていいぞ」
「誰が食わぬと言った」
「言い方が面倒くさいんだよ、あんた」
エルキドゥが楽しそうに笑う。
「ギルは気に入ってるんだよ、この家のご飯」
「黙れ、エルキドゥ」
そんなやり取りを聞いて、白い少女は不思議そうに首を傾げていた。
彼女はまだ、会話の温度に慣れていない。
怒っているようで怒っていない声。
文句のようで、そこに居場所がある言葉。
そういうものを、まだよく知らない。
イリヤはそれに気づいて、小さく笑った。
「大丈夫。あれはいつものやつだから」
白い少女は瞬きをする。
「いつもの」
「うん。たぶん、平和ってこういう変な感じなんだよ」
アルターエゴが首を傾げる。
「平和とは、論理的整合性の低い会話が許容される状態?」
凛がぼそっと言った。
「間違ってはいないけど、嫌な定義ね」
イリヤはくすっと笑った。
士郎はその笑い声を聞いて、少し安心した。
神杯は砕けた。
だが、すべてが完全に解決したわけではない。
それでも、笑える朝がある。
それだけで、昨日までの戦いには意味があったのだと思える。
◆
朝食が終わると、凛が全員を居間へ集めた。
宝石板には、冬木の霊脈図が表示されている。
黒い神杯の反応は消えていた。
だが、完全な空白ではない。
霊脈の各地に、小さな光点が散らばっている。
黄金、銀、青、白、赤、黒。
色はさまざまだが、どれも激しく燃えてはいない。
静かに、眠るように光っている。
凛が説明した。
「神杯の主炉心は停止。願望燃焼式も崩壊した。だから、神杯戦争そのものは終結したと見ていい」
士郎は小さく息を吐く。
分かってはいた。
だが、凛の口からそう言われると、ようやく少しだけ実感が湧く。
しかし凛は続けた。
「ただし、問題は山ほど残ってる」
全員が黙る。
凛は宝石板を指で弾いた。
「まず一つ。霊脈に眠っている願いの種。これは神杯の燃料だった願いを、デメテルの豊穣権能と私たちの術式で休眠状態に変えたもの。今は安定してるけど、完全放置は危険」
メディアが頷く。
「外から強い願望干渉を受ければ、再び芽吹く可能性があるわ。燃料には戻らないでしょうけど、別の形で異常現象になるかもしれない」
ジャンヌが問う。
「では、封印するのですか?」
凛は首を横に振る。
「封印しすぎると、結局また固定になる。だから管理じゃなくて、見守る形に近い術式が必要」
士郎は思わず言った。
「畑みたいだな」
デメテルの言葉が思い浮かぶ。
種は、急かしてはいけない。
無理やり実らせてもいけない。
ただ、土と水と時間が必要なのだ。
メディアは少しだけ笑った。
「ええ。願いの畑ね。魔術師が聞いたら卒倒しそうな表現だけど」
凛はため息をつく。
「その畑の管理を、冬木の管理者である私がやることになるわけよ」
士郎は申し訳なさそうに言った。
「手伝う」
「当たり前でしょ」
即答だった。
クー・フーリンが笑う。
「坊主、戦争終わっても忙しそうだな」
「笑い事じゃないぞ」
「まあな。でも、戦いが終わった後に後始末があるのは普通だ」
バゼットが静かに頷く。
「むしろ、後始末を放置する方が危険です」
凛は次の項目へ移った。
「二つ目。召喚されたサーヴァントとサーヴァリアントについて」
居間の空気が少し変わった。
アルトリアが静かに顔を上げる。
アーチャーも目を細めた。
ギルガメッシュは表情を変えない。
だが、エルキドゥはわずかに視線を落とした。
凛は慎重に言った。
「神杯の炉が止まったことで、強制召喚の維持力は消えた。でも、すぐに消滅していないのは、各自に別の繋がりがあるから」
メディアが説明を引き継ぐ。
「士郎とセイバーの契約。遠坂とアーチャーの契約。桜とメドゥーサの契約。エルキドゥと英雄王の縁。イリヤとヘラクレスの縁。そういったものが、一時的な楔になっている」
イリヤが顔を上げた。
「バーサーカー……」
その名が出た瞬間、居間が静かになった。
ヘラクレス。
願いの底で、イリヤを逃がすために神杯の根へ残った巨人。
彼が今どうなっているのか、まだ誰も確認できていない。
凛は宝石板を操作する。
「ヘラクレスの霊基反応は、完全消滅していない。かなり深い霊脈の中にある。たぶん、願いの種の畑を守る形で眠ってる」
イリヤの目が潤む。
「守ってるの?」
メディアが静かに答えた。
「ええ。あの巨人らしいわ。神杯が砕けた後も、最後に守ると決めたものの近くにいる」
イリヤは膝の上で拳を握った。
泣きそうだった。
でも、泣かなかった。
「じゃあ、いつか会える?」
凛は少し迷った。
確実なことは言えない。
だが、今のイリヤには嘘をつきたくなかった。
「分からない。でも、可能性はある」
イリヤは小さく頷いた。
「そっか」
そして、胸元の豊穣の種に手を当てる。
「じゃあ、私もちゃんと育つ。次に会った時、心配されないように」
士郎はその言葉を聞いて、胸が熱くなった。
◆
三つ目の問題は、白い少女とアルターエゴだった。
白い少女は、自分の手を見つめていた。
神杯の核から切り離された今、彼女はもう願望保存の命令に縛られていない。
だが、存在としては不安定だった。
イリヤとは違う。
アルターエゴとも違う。
彼女は最初の器の残響であり、神杯核の中心人格でもあり、同時にようやく自分の願いを取り戻した少女でもある。
凛が言った。
「この子の存在維持には、神杯の残滓を使うのが一番安定する。でも、神杯の命令系統は完全に切らなきゃいけない」
メディアが頷く。
「器としてではなく、個人として再構成する必要があるわ。イリヤスフィールの時に近いけれど、こっちはもっと原始的な構造ね」
アルターエゴが手を上げる。
「私は補助可能です。願望保存機能と人格領域の分離演算に類似経験があります」
凛が感心したように見る。
「助かるわ。あなた、自分のことになるとまだ危なっかしいけど、解析補助としては本当に優秀ね」
アルターエゴは瞬きをする。
「評価を受領」
イリヤが笑った。
「褒められた時は、ありがとうって言えばいいんだよ」
アルターエゴは凛を見る。
「ありがとう」
凛は少しだけ照れた。
「ど、どういたしまして」
白い少女はそのやり取りを見つめていた。
「ありがとう」
彼女も小さく呟く。
イリヤが嬉しそうに言う。
「そうそう。そんな感じ」
白い少女は少し考えて、士郎の方を向いた。
「ありがとう」
士郎は一瞬驚いた。
「俺に?」
「うん」
「……どういたしまして」
白い少女はその返事を聞いて、小さく頷いた。
まだ感情の出し方はぎこちない。
でも、確かに少しずつ人間らしくなっている。
凛は咳払いをした。
「それで、名前の話なんだけど」
イリヤの顔がぱっと明るくなった。
「考えた!」
士郎が少し不安そうに見る。
「昨日の“白い子”よりはちゃんとしてるよな?」
「失礼だなぁ。ちゃんとしてるよ」
イリヤは白い少女を見た。
「あなたは、願いを燃やすための器じゃなくなった。これからは、願いが眠れるように見守る子になるんでしょ?」
白い少女は頷いた。
「たぶん」
「じゃあ、名前は――ユイ」
白い少女が瞬きをする。
「ユイ」
「うん。結ぶって意味。願いを縛るんじゃなくて、優しく結ぶ。あと、あなた自身が誰かと繋がっていけるように」
居間が静かになった。
凛が少し驚いたように呟く。
「……いい名前じゃない」
士郎も頷いた。
「ああ。いいと思う」
白い少女は、自分の胸に手を当てた。
「ユイ」
その声は、ただの確認ではなかった。
自分を呼ぶための音を、初めて口にした声だった。
「私は、ユイ?」
イリヤが笑う。
「嫌じゃなければ」
白い少女――ユイは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「嫌じゃない」
イリヤは嬉しそうに笑った。
「じゃあ決まり!」
アルターエゴが手を上げる。
「私の名称は?」
全員の視線が彼女へ集まった。
イリヤは顎に手を当てて考える。
「うーん……アルターエゴは、未完成を選んだんだよね」
「肯定」
「完成じゃなくて、これから少しずつ自分になるんだよね」
「肯定」
「じゃあ……ミライ」
アルターエゴが瞬きをする。
「ミライ」
「うん。未来。まだ決まってないから、これから決められるって意味」
アルターエゴは黙った。
その顔に、初めてはっきりした戸惑いが浮かぶ。
「未来は、未定領域」
「そう」
「私は、未定領域を名前にする?」
「だめ?」
アルターエゴは首を横に振った。
「否定。だめではありません」
彼女は自分の胸に手を当てる。
「私は、ミライ」
イリヤが笑う。
「うん」
アルターエゴ――ミライは、ゆっくり頷いた。
「名称登録。ミライ」
凛が小さく笑う。
「また家族が増えたみたいね」
士郎は居間を見渡す。
ユイ。
ミライ。
イリヤ。
桜。
凛。
英霊たち。
神格たちの残した種。
家族というには複雑すぎる。
同盟というにも温かすぎる。
でも、ここにいる。
それで今は十分だった。
◆
昼近くになって、アルトリアが士郎を縁側へ呼んだ。
庭には柔らかな陽が差している。
黒い神杯はもう空にない。
青空だけが広がっている。
アルトリアはしばらく空を見ていた。
士郎は隣に立つ。
「どうしたんだ、セイバー」
アルトリアは少しだけ微笑んだ。
「神杯戦争は終わりました」
「ああ」
「私たちサーヴァントが、この時代に留まり続ける理由も、いずれ薄れていくでしょう」
士郎は黙った。
分かっていた。
言われるまでもなく、どこかで考えていた。
黒い神杯が砕けたなら、召喚の理由も変わる。
神杯戦争が終わったなら、英霊たちは本来の場所へ戻るべきなのかもしれない。
だが、納得できるかは別だった。
「すぐに消えるのか」
アルトリアは首を横に振る。
「いいえ。凛とメディアの解析通り、契約と縁が一時的に私たちを留めています。ですが、永遠ではありません」
士郎は拳を握った。
「……そうか」
アルトリアは士郎を見る。
「シロウ」
「何だ」
「私は、悲しいだけではありません」
士郎は顔を上げる。
アルトリアの表情は穏やかだった。
「かつての私は、聖杯に願いました。過去をやり直したいと。王の選定をなかったことにしたいと。ですが今は、違います」
彼女は青空を見る。
「私は、ここであなたと再会し、再び剣を取り、ランスロット卿とも向き合いました。王であることだけではない自分を、少し知ることができました」
士郎は何も言えない。
アルトリアは続ける。
「だから、いつか帰る日が来ても、それは敗北ではありません」
「でも」
士郎は言いかけて止まる。
行かないでほしい。
そう言いたい気持ちはある。
だが、それは彼女の選択を縛る言葉になってしまうかもしれない。
アルトリアはその迷いを見透かすように微笑んだ。
「シロウ。別れを急ぐ必要はありません。ですが、別れを恐れて今を失う必要もありません」
士郎は息を吐いた。
「……また、難しいことを言うな」
「そうでしょうか」
「ああ。でも、たぶん分かる」
アルトリアは少しだけ嬉しそうに頷いた。
そこへ、ランスロットが静かに近づいてきた。
「王よ。士郎殿」
アルトリアが振り返る。
「ランスロット卿」
ランスロットは深く頭を下げた。
「私も、いつかこの身が消えるならば、その時まで王の剣として在りたいと思います」
アルトリアは静かに言った。
「剣としてだけでなく、貴方自身として在ってください」
ランスロットは一瞬言葉を失った。
そして、深く頷いた。
「はい」
士郎はその光景を見ていた。
赦しは、終わりではない。
赦された後、どう生きるか。
罪を抱えたまま、どう立つか。
それもまた、これからの話なのだ。
◆
午後になると、ギルガメッシュとエルキドゥが庭に出ていた。
士郎が通りかかると、ギルガメッシュが呼び止めた。
「雑種」
「何だよ」
「この庭、狭い」
「文句言うな」
「事実を述べたまでだ」
エルキドゥが笑う。
「でも、僕は好きだよ。小さいけれど、落ち着く」
ギルガメッシュは庭の草を見下ろす。
「ウルクとは比べるべくもない」
「そりゃそうだろ」
士郎が言うと、ギルガメッシュは鼻を鳴らした。
「だが、悪くはない」
それは彼なりの最大級の評価なのだろう。
エルキドゥは空を見上げた。
「神杯が消えても、僕たちがすぐ消えないのは少し不思議だね」
ギルガメッシュの表情がわずかに変わる。
「不満か」
「いいや」
エルキドゥは微笑む。
「もう少し君と話せるなら、それは嬉しい」
ギルガメッシュは黙った。
士郎は、そこに踏み込まない方がいい気がして、何も言わなかった。
だが、ギルガメッシュは士郎を見て言った。
「雑種。今回の件、忘れるな」
「神杯のことか」
「そうだ。願いを宝として扱えぬ器は、必ず腐る。願いを守ると言いながら、持ち主から奪った時点で、それは宝ではなくなる」
士郎は頷いた。
「忘れない」
「ならばよい」
ギルガメッシュは空を見る。
「それと、卵焼きは甘い方がよい」
士郎は思わず吹き出した。
「そこも忘れないよ」
◆
夕方。
凛と桜は、縁側に並んで座っていた。
少し距離がある。
だが、以前よりは近い。
桜は膝の上で手を重ねている。
凛は視線を庭へ向けたまま、ぽつりと言った。
「桜」
「はい」
「怒っていいって言ったの、覚えてる?」
桜は少しだけ目を伏せた。
「覚えてます」
「今じゃなくてもいい。でも、いつかちゃんと聞くから」
桜はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「姉さん」
「何?」
「私、全部を一度に言えるほど、まだ強くないです」
「うん」
「でも、少しずつなら言えるかもしれません」
「うん」
「だから、逃げないでください」
凛の肩がわずかに震えた。
彼女は桜の方を見た。
桜も凛を見ていた。
その瞳には、責める感情も、恐れも、期待も、少しずつ混ざっている。
凛はしっかり頷いた。
「逃げない」
桜は小さく息を吐いた。
「じゃあ、今日は一つだけ」
「うん」
「私、姉さんに見つけてほしかったです」
凛の目に涙が浮かぶ。
桜は続けた。
「でも、見つけられたら怖かったです」
凛は何か言おうとして、止めた。
言い訳ではなく、謝罪でもなく、まず聞くべきだと思ったから。
桜は小さく笑った。
「今日は、これだけです」
凛は震える声で言った。
「うん。聞いた」
「はい」
二人の間に沈黙が落ちた。
けれど、それは以前のような遠さではなかった。
沈黙の中に、次がある。
それだけで、姉妹は少しだけ前へ進んでいた。
◆
夜。
衛宮邸の台所では、イリヤが卵焼きの再挑戦をしていた。
今日は砂糖を少し入れた。
士郎が横で火加減を見ている。
桜が手順を教え、凛がなぜか後ろから口を出している。
ユイとミライは真剣に観察していた。
「卵を巻く行為は、難度が高い」
ミライが言う。
ユイは小さく頷く。
「形が崩れても、食べられる?」
イリヤが答える。
「食べられるよ。昨日のも食べたし」
「崩れても、失敗じゃない?」
「うん。たぶん」
ユイは少しだけ考えた。
「願いも、崩れても失敗じゃない?」
台所の空気が静かになった。
士郎はフライパンを見ながら答える。
「たぶん、そうだな」
イリヤは卵を慎重に巻きながら言った。
「崩れたら、次にもう少し上手く巻けばいいんだよ」
ユイはその言葉を大切そうに繰り返す。
「次に」
ミライも頷く。
「次は重要概念」
凛が笑った。
「変な学習してるわね」
イリヤの卵焼きは、昨日より少しだけ形になっていた。
完璧ではない。
端は崩れ、少し焦げた。
でも、昨日よりは巻けている。
イリヤは皿に乗せて、誇らしげに言った。
「できた」
士郎は一口食べる。
「うん。うまい」
イリヤの顔が明るくなる。
「本当?」
「ああ。昨日より甘い」
ギルガメッシュが居間から言った。
「我にも寄越せ」
凛が呆れる。
「完全に気に入ってるじゃない」
エルキドゥは楽しそうに笑っていた。
ユイは卵焼きを小さく口に運ぶ。
そして、目を丸くした。
「温かい」
イリヤが笑う。
「うん。ご飯は温かい方がいいんだよ」
ユイは卵焼きを見つめる。
「願いも、温かい方がいい?」
士郎は少し考えた。
「燃えてるのとは違う温かさなら、いいと思う」
ユイは小さく頷いた。
「燃えない温かさ」
その言葉を聞いて、士郎は胸の奥が少し熱くなった。
神杯は願いを燃やした。
でも、願いは燃えなくても温かい。
食卓の湯気のように。
誰かが名前を呼ぶ声のように。
明日も作ろうと言える卵焼きのように。
◆
深夜。
士郎は土蔵にいた。
かつてアルトリアを召喚した場所。
神杯戦争が始まった場所。
床には、もう異常な召喚陣はない。
だが、薄い光が残っていた。
願いの種が一つ。
土蔵の床下に、静かに眠っている。
士郎はそれを見つめていた。
アーチャーが入口に立つ。
「眠れないのか」
「少しな」
「神杯を砕いた後に、ぐっすり眠れる方がどうかしている」
「お前も眠ってないだろ」
「私はサーヴァントだ」
「便利な言い訳だな」
アーチャーは小さく鼻を鳴らし、士郎の隣へ立った。
しばらく沈黙が続く。
やがて士郎が言った。
「終わったんだよな」
「神杯戦争はな」
「まだ何かあるのか」
「当然だ。後始末。契約の整理。霊脈の安定化。召喚された存在の処遇。願いの種の監視。山ほどある」
「現実的だな」
「現実を見るのは大事だ」
士郎は少し笑った。
アーチャーは床下の光を見る。
「だが、ひとまず炉は止まった。願いは燃えずに済んだ。それだけでも十分な戦果だ」
士郎は頷く。
「ああ」
アーチャーは士郎を見る。
「これからどうする」
「分からない」
士郎は正直に答えた。
「でも、分からないままでも進む。たぶん、皆と相談しながら」
アーチャーは少しだけ目を細めた。
「少しは学んだようだな」
「だろ」
「調子に乗るな」
士郎は笑った。
そして、土蔵の天井を見上げる。
「なあ、アーチャー」
「何だ」
「お前も、しばらくいるのか」
アーチャーは黙った。
その沈黙で、士郎は少しだけ胸が締めつけられる。
やがてアーチャーは言った。
「契約が続く限りはな」
「それが切れたら?」
「本来の場所へ戻る」
士郎は俯いた。
「そっか」
アーチャーは続ける。
「だが、それは今すぐではない」
士郎は顔を上げる。
「なら、今は考えすぎるな。別れを恐れて今を無駄にするな。騎士王にも似たようなことを言われたのだろう」
「聞いてたのか」
「聞こえた」
士郎は苦笑した。
「分かったよ」
アーチャーは土蔵の外へ歩き出す。
その背中へ、士郎が言った。
「ありがとう」
アーチャーは足を止める。
「何の礼だ」
「道を作ってくれたこと。最後まで見ててくれたこと」
アーチャーは振り返らない。
ただ、少しだけ声を落として言った。
「礼を言われることではない」
そして、土蔵を出て行った。
士郎はその背中を見送った。
後悔だけではない。
アーチャーがそう言ったことを、士郎は忘れないと思った。
◆
翌朝。
冬木の空は、また青かった。
黒い神杯はもうない。
だが、衛宮邸の庭には、小さな芽が一つ生えていた。
昨日まではなかった芽。
イリヤがそれを見つけて、しゃがみ込む。
「これ、願いの種?」
凛が宝石板を持って近づく。
「違うわね。普通の植物反応。でも、霊脈の影響を少し受けてる」
デメテルの豊穣の名残かもしれない。
イリヤはその芽をじっと見つめた。
ユイも隣にしゃがむ。
「これは、燃えない?」
「燃えないよ」
イリヤは笑った。
「育つんだよ」
ミライが記録する。
「観察対象、庭の芽。成長予定」
士郎は縁側からその光景を見ていた。
凛が隣に立つ。
「士郎」
「何だ」
「これから忙しくなるわよ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは直しなさい」
士郎は笑った。
凛も少しだけ笑った。
庭では、イリヤがユイとミライに水やりの説明をしている。
桜がその隣で微笑み、メドゥーサが静かに見守っている。
アルトリアとランスロットは縁側近くで話している。
ギルガメッシュとエルキドゥは空を見上げている。
ジャンヌは庭の芽に祈りを捧げている。
クー・フーリンは退屈そうにしながらも、その様子をどこか楽しげに眺めている。
バゼットは真面目な顔で、なぜか水やりの手順を覚えていた。
神杯戦争は終わった。
だが、願いが返された者たちの物語は続いている。
終わりの後。
勝利の後。
別れの前。
次の朝。
そこに何を植えるのか。
それは、これから彼らが決めることだ。
神杯戦争、第二十二夜。
黒い杯は消え、願いの種は冬木の霊脈に眠った。
白き器はユイという名を得た。
未完成のアルターエゴはミライという名を得た。
イリヤは明日の卵焼きを作り、桜は少しずつ怒ることを選び、士郎は後始末という新しい戦いを始める。
願いは燃えない。
願いは眠り、育ち、時に形を変える。
そして朝が来る。
誰かが名前を呼ぶ。
それだけで、物語はまだ続いていく。
第二十三話へ続く。
コメント
1件
第22話、読み終えました。 戦いが終わって、静かな朝が来たんだなあと、じんわり温かくなりました。「願いは燃えない」という言葉が特に刺さりました。ユイが初めて自分の名前を口にした瞬間や、卵焼きを食べて「温かい」と呟く場面、本当に優しくて……。何かを失った後ではなく、何かが始まる朝の空気が、ちゃんと描かれているのが素敵でした。別れを急がない、というセイバーの言葉も心に残ります。続き、楽しみにしていますね🌷
1,281
560
7