かりかりかり、万年筆のペン先を滑らせる。
つい数時間前まで明るかったはずなのだが、いつの間にか窓の外は暮明に覆われていた。
うーん、これは今日も泊り込み確実だな。重い溜息をついて書類とにらめっこ。
「──Hey!……おーい、日本?」
その時、不意に肩を叩かれた。
聞き慣れた声。嗅ぎ慣れた香水。大きな影。
あ、また彼か、と鈍い頭がやっと認識して、くるりと椅子を回して振り返った。
「あ、アメリカさん。どうされました?」
蒼い瞳が、此方を見下ろしていた。
自信と、それに相応しい力を有した男。経済力、軍事力、発言力……全てを手に入れて頂点に君臨する絶対王者。
戦後の国際秩序を作った彼に敵うものは、今やソ連くらいではないだろうか。
彼は、アメリカ合衆国。アメリカさん。
私の元敵で、現同盟国。
「いや、ちゃんと生きてるか心配になってさ」
「はは、何ですかそれ」
「だってお前、いっつも目死んでんだもん」
「すみませんね、元からです」
質の良さそうなスーツをラフに着崩して、ポケットに片手を突っ込んだままだというのに、なぜか様になっている。
やれやれ、と大袈裟に手を広げた彼は、無理して死に急ぐんじゃねーぞ!と何度目かわからない釘を刺す。
資料を赤いクリップで留めて、苦笑しつつ頷いた。
「ありがとうございます、心配して下さって」
「別に?感謝されることじゃねぇよ。折角の同盟国に死なれちゃ困るし」
15年前の夏。私の戦争は終った。
最期は酷いもので、今でも想い返したくはない。
此方としても今まで勝ち戦しか知らないものだから、引き際なぞわかるはずもなく。
トドメは、閃光と爆発と、焼け付くような痛み。
はたと気づいた時には、もう全てが終わっていた。
「ははは、そうですか。なら、お役に立てるよう精進します」
「だーかーらー!しょーじん?は良いけど、無理しろとは言ってねぇの!いいか?ちゃんとした飯食って寝る!これだけは疎かにすんなよ!」
「はいはい」
何はともあれ、戦争は終ったのだから、古き自分は死ぬべきだろう。
そう考えた私は、姿も口調も態度も全てを変えた。大日本帝国の息子『日本』だと騙って、何も知らないふりをした。
國とは便利なものだ。今の私は、数年前とはすっかり別人である。釣り上がった眦も和らぎ、引き締めていた表情も胡散臭い笑みに取って代わられ、声も心なしか高くなった気さえする。
良く言えば温和で優しげに、悪く言えば遅鈍で頼りなさげになった。
はてはて、この姿をあのひとはどう思うだろうか。女みたいだな、と笑われたりして。
「あ、そうだ。例の資料出来たので、確認お願いします」
「……マジ?昨日の夜だよな、俺が頼んだの」
「そうですね。この赤い付箋のところ、チェックして頂きたいんですけど」
「All right, all right」
思いの外すべては順調に進み、今の私は、かつての宿敵の、最大の同盟国となっている。
敗戦の屈辱が消えた訳ではないけれど、国防を引き受けてくれている彼への憎悪はない。むしろ好ましく思っている。
それこそ、数年前に加盟した国際連合で、彼のためだけに深夜残業するくらいには。
「お前さ、もしかして、ここに泊まり込んでる?」
「ええ、それが何か?」
まあ、残業の理由はそれだけじゃない。
敵国条項とか言う巫山戯た制度の”お陰”で、我々敗戦国は戦勝国よりタスクが多い。
それに何より──今はまさに、高度経済成長の真っ只中。今働かなくてどうするって言うんだ。
「うわマジか!Crazyだな!」
「くれいじー?」
「狂ってるってこと!」
「……私は正常ですよ」
「狂人は皆そう言うんだよ!!」
国外は米ソ冷戦で物凄いことになっているが、国内は比較的穏やかで、堅実な経済成長を続けている。
だから、今が天佑なんだ。
戦争では敗けたけれど、経済では負けたくない。認められたい。諦めたくない。
何よりも、あのひとに胸を張れるようになりたい。
「シャワー室も寝袋もありますし。移動時間もったいないので」
「だからって……まあ良いけどさ」
唇を尖らせた彼が、不服そうに頷く。
何がそんなに不満なのかは不明だが、納得してはくれたようなので、再び視線を書類に向けた。
机に積まれた資料を、手書きで纏めなくてはならない。日付が代わる前に……いけるか。赤色のノートを開く。
「でもなんで?なんでそんな頑張んの?」
愛用しているペンの、臙脂色のグリップを握った瞬間、また彼が尋ねてくる。
今日は何だか絡みが長い。気に障ることでもあったのか……はたまた、戦略が上手く行っていないか。
そう言えば、『封じ込め』から『巻き返し』に転換した彼は、最近また軍拡していると聞く。
「んー?……貴方のため、ですかね」
「『ですかね』って何だよ!アメリカさんのためです♡って言えよ!」
「ははは」
我ながら、不誠実だと思う。
貴方のため、の『貴方』が、目の前の彼だけではなく、記憶の中のあのひとをも意味しているなんて。
きっとこれからも私は、想い出に縋ったまま生きていくのだろう。贖罪のような生き地獄。
アメリカさんが去っていった後。
あのガーネットが視界にこびりついて、暫く動けないでいた。
かりかりかり、万年筆のペン先を滑らせる。
つい先程まで夕暮を感じていたのに、いつの間にか窓の外は真暗闇に覆われていた。
うーん、今夜も今日中には寝れないな。諦念の笑みを浮かべて、書類とにらめっこ。
「───隣、いいか」
その時、不意に声が降りてくる。
人けの消えた部屋で、彼の声は心地よく響いた。
あ、彼だ、と脊髄反射で勘付いて、顔を上げる。
「勿論。お待ちしてました、ドイツさん」
「……あまり嬉しくはない待ち合わせだな」
紅い瞳が、此方を見下ろしていた。
真面目で、堅実。彼と接した者は、十中八九そんな評価を下すだろう。
逆境の中でも『経済の奇跡』を遂げた、優秀な男である。
彼は、ドイツ連邦共和国。ドイツさん。
私の同僚で、私と似たような環境に置かれた青年。
分割統治されていることを鑑みれば、状況は私より劣悪かもしれない。
「貴方が来てくれるの、私は嬉しいですけどね。一人の居残りって心細いですし」
「それは同意だ。一人は嫌だよな。全く、ヨーロッパは帰るのが早すぎる」
「私たちが遅いだけですよ多分」
本部の事務室は、アジアとかヨーロッパとか、ある程度地域ごとに纏められている。
といっても、その区分けは緩やかなものだし、最近は冷戦激化のせいで形骸化してはいるのだが。
彼の所属するヨーロッパ組が軒並み帰ってしまうと、彼は私の居るアジアのフロアにやって来る。
「何が大きな政府だ!働け!特に英仏!!」
「あははっ、尻拭い頑張ってください」
「……泣いていいか?」
「胸なら貸しますよ」
「いつか借りるからDカップくらいにしといてくれ」
「無茶言わんといて下さい」
軽口を叩きながら、手は止めない。
隣から凄まじい筆記音が聞こえてくる。お世辞抜きにして、彼の仕事効率は素晴らしい。
優秀な男だ。あのひと──父親に似たのか。
「揉めば膨らむらしいぞ」
「その話、まだ続けるんですか」
「ああ。試してみたい。ということでよろしく」
「私を実験台にするの辞めてくれます!?」
「冗談だ」
「ほんとたち悪いですね貴方」
一度見聞きしたことは全て覚えてしまう記憶力とか。説得力抜群の話し方とか。変な探究心とか。酒豪ながら煙草は拒絶するところとか。
よく似ている。ちらりと一瞥を送ると、あのひとと同じ紅瞳と視線がかち合った。
「ん、どうした?」
「い、いえ。何も……」
「なら良いが。何かあったら話してくれ」
──何かあれば言え。我々は恋人同士だろう。
不意に、あのひとの言葉が蘇る。
言い難いことがあって私が吃ると、あのひとはよくそう言った。なのにすぐ、接吻で口を塞いできて。
喋れないと抗議すると、愉しそうに笑うのだ。
「日本?」
「っすみません、ぼーっとしてました」
「……そうか」
……駄目だ。良くない。
生者の彼に、死んだあのひとを重ね合わせては、いけない。そんなことを続けていたら、いつかきっと、現と幻を混同してしまう。
首を振って思い出を追い出して、再びペン先に思考を寄せた。赤いボールペンで印をつける。
「最近のお前は……傍で見てて、心配になるな」
「え、」
「危なっかしいんだよ。いつか壊れそうで」
が、ほつりと彼が零した一言に、手が止まった。
見ると、彼も珍しく手を止めて、此方をじっと見つめている。紅い瞳に射抜かれていたたまれない。
どくっ、と嫌な音を立てた心臓には、気付かないふりをした。
「……やだなぁドイツさん。ぜんぜん大丈夫ですよ?私、元気だけが取り柄ですから」
元気、なわけがない。
特需の去った後、経済は停滞した。停滞どころか、今は絶賛不況の真っ最中である。
物資不足、特に食料の枯渇は著しくて。東京ですら食いっぱぐれる始末。今日だって一食しか口にできなかった。
それが何だ。こんなの、戦時下に比べたらなんてことない。
歯は食いしばってなんぼ、臥薪嘗胆に尽きる。
いつか、もはや戦後ではないと笑える日が、きっと来ると信じるしかない。
「──よし……終わったので、資料返してきます」
「俺も」
「あ、ドイツさんも終わりました?なら私、一緒にそれ戻してきますよ」
ちょうど一段落ついたこともあって、彼の視線から逃げるように、使用済みの資料を手に取った。
このまま席を立って、この話題は屠ってしまおう。
そう思って、彼の机の上のファイルに手を伸ばすと、ぱっと腕をつかまれた。
「いや、俺も行く」
「……そ、そうですか」
気まずい。視線をそらす。
絶妙な空気感を覚えながら、席を立った。
その瞬間。
───さっ、と血の気が引く。
「ッは……??」
ぐらっ、視界が揺れる。身体を支えようと伸ばした手は宙を斬る。膝が笑う。足の感覚がない。
あ。これやばい。立てない。
焦る傍ら、貧血か栄養不足か、と何処か冷静に分析する自分がいた。
このまま倒れたら、痛いだろうか。痛いだろう。
椅子とか書類とかをなし崩して倒れるだろうし、冷たい床は叩きつけられても受け止めてはくれない。
全てがスローモーションに見える。まるで走馬灯のように。
嗚呼そうか、このまま死ぬのかもしれない。
衝撃に耐えようと。目を瞑った。
「───ッ日本!!」
腰に腕が回って、ぐいっと引き戻された。
焦ったような声が飛び込んできて、薔薇色の双眸がこちらを覗き込んでくる。
……あれ、この景色、どこかで。
「すみま、せ……らいじょーぶ、です…」
「Unsinn! 大丈夫じゃないだろう!!だから無理するなとあれ程……っ!」
余程慌てたのか、彼の言葉には時折、独語が混ざっている。
ぼやりと霧がかかった頭で、Unsinnって馬鹿言うな、って意味だったな、と考えていると、不意に身体が持ち上がった。
膝裏に腕を回されて、抱き上げられたらしい。力が入らず、腕がぷらんと垂れ下がる。
「軽っ……お前、ちゃんと食ってないな?こんなことしてたら過労死するぞ。死にたいのか??」
ガーネットの瞳。
「お前はいっっっつもそうだな!勝手に突っ走りやがって……また特攻してどうするって言うんだ」
低い声。
「もう休め。寝袋なんかじゃ駄目だ。家どこだ?」
大きな手。
「……分からんな。うちで良いか。連れてくぞ」
温もり。
「ぁ……」
あ。あ。あのひとだ。
あのひとが、還ってきたんだ。
震える腕を動かして、彼の頬に手を伸ばす。
ぶつぶつと説教を垂れていた彼は、私に気づくと、訝しげに眉を寄せる。彼の癖だ。
やっぱり、あのひとだ。還ってきてくれたんだ。
「日本?どうした──」
「なち、す……」
霞む視界の中、彼が驚いたように目を見開く。
紅玉が揺れる。彼の瞳孔が此方を捉えている。
彼の唇が動いている。何か言っている。聞こえない。頼む、もう一回言ってくれ。
静寂に包まれる。
嗚呼、駄目だ。
意識が飛ぶ。
でも、聞き違いでなければ───日帝、と。
そう、呼んでくれた気がした。
コメント
9件
あ、あのあの…今読み返していて気付いたのですが… 『赤いクリップ』『臙脂色のグリップ』『赤い付箋』『赤色のノート』 など、日本さんの私物の色が、“あのひと”の瞳の色と同じような物ばかりなんですね! 15年経っても尚、まだまだ“あのひと”に捉われているんだなぁと。 なんだか切ないような気持ちになりました…!
ゔぁぁぁぁぁぁっっ!!!!!!(泣 神だッ神だぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!
はぁもうほんとに…語彙力ってあるところに集まるのですね。アメリカさんへの「好意」と、ドイツさんへの「好意」の違いがよく表されているなあと心から思います。こんな僅かな違いをここまで表せられるなんて。じゃんぬ様の頭の中を1度見てみたいくらいですよ。