テラーノベル
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夜が更けて、そろそろ書簡に目を通すのもこの辺りで終いにしようと皇帝が筆を置くと、宦官が部屋に入り近付いてきた。
「どうした」
「皇后陛下から言伝にございます。『今宵は宮の蓮が満月に照らされて、大変美しく見物でございます。陛下と共に鑑賞出来ればと思い、食事を御用意致しました。気が向きましたらお立ち寄り下さい』との事でした」
「皇后がそのようなことを……?」
皇后から宮に来て欲しいと乞われたのはいつぶりか。昔は梅の花が咲いたから、桂花餅が美味しくできたからと、何かとよく誘ってくれていた。
それもまだ皇后になる前の話。今の位を授けてからは、誘われたことなど無いかもしれない。
一体何を思ってのことなのか。
「今夜は皇后の宮へ行く故、胡淑妃の宮へ行くのは取り止めだ。伝えておくように」
「かしこまりました」
こうして誘ってきたのもきっと、暁明の事だろう。
これまでずっと皇后は「陛下の意思に従います」と言うだけだったが、志勇の力が増し、暁明の皇太子の座がいよいよ怪しくなって、助けを求めるに違いない。自分の子供が追いやられるのを、ついに黙って見ていられなくなったのだ。
皇后が焦って自分を頼り、懇願してくるよう仕向けたはずであったが、気持ちは何故か余計に苛立った。
泣きついてきたら「朕の意志に従う申しておったであろう」と一蹴してやればいい。
そうすれば少しは気も晴れるはず。
「皇后様、皇帝陛下がお越しになりました」
久しぶりに訪れた皇后の宮。
昔から彼女が好んで焚いている、鈴蘭の香の香りがする。
「お待ちしておりました」
出迎えに来た皇后はふんわりと笑うと、皇帝を中へ通した。
庭の蓮池がよく見えるよう窓は大きく開け放たれ、その前には酒と食事が用意されている。
席についた皇帝に皇后が、自らの手で酒を注ぎ勧めてくる。
「久しぶりに料理をしてみたのです。随分と腕がなまっていてお口に合うかどうか分かりませんが、どうぞお召し上がりください」
「そうか。これは酔鶏か?」
「はい。朝から仕込みましたのよ」
鶏肉を一切れ口に入れると、酒と香辛料の香りがよく染み込んでいて味わい深い。蒸されてしっとしとした肉を噛み締めると、旨味が口の中に広がった。
「美味いな」
「うふふ、そう言って頂けると作ったかいがあったというものです」
手料理を振舞ってくるとは、ご機嫌取りのつもりなのか? 女がよくやる常套手段だ。
こんなつまらない手を使ってくる女になってしまったのかと、皇帝は少なからず落胆した。
いつ話を切り出してくるのか。
酒と食事を取りながら、皇后は他愛のない会話をいつまでも続けてくる。
ご機嫌取りのためのこんな芝居は、早く終いにして欲しい。皇后の話に素っ気なく返事をするばかりの皇帝に、皇后は眉尻を下げた。
「私の話など面白くも何ともないですわね。陛下とこうしてお話するのは暫くぶりでしたので、最近陛下が何にご興味がおありなのかも分からなくなってしまっていました」
「皇后の話がつまらない訳ではない。ただ何時本題に入るのかと思っていただけだ」
「本題……ですか? 文にしたためたように、陛下と月明かりに照らされた蓮池を、眺めたいと思っただけでございます」
「誠か? 何か朕に願いがあって、こうして招いたのであろう?」
白々しい、と皇帝は奥歯を噛み締める。
ここ何十年、皇帝が他の妃嬪の元へ通おうと、他の子を可愛がろうと、キツく当たろうとも、皇后は悔しそうな顔も悲しそうな顔もせず、ただ黙って見ているだけだった。
その皇后がなんの前触れもなしに宮へ来て欲しいと言ってくる理由が、ただ花を一緒に愛でたいだけな筈がない。
沸き立つ怒りを瞳に宿したまま皇后を見つめると、彼女はふっと視線を池へと向けた。
「昔はよくこうして、二人きりでお喋りしたものでしたわね」
昔話などするなと喉元まで出かかったが、皇后が見せた横顔に声が詰まった。
顔の所々に皺が刻まれ、ふっくらとしていた頬は肉がそげ落ちている。髪の毛も今では白髪が多く混じり鈍色に変わってしまったが、ただ、凛とした佇まいだけは変わっていなかった。
#異世界転移
花月夜れん
2,559
設楽理沙
880
耀聖(ようせい)
269
耀聖(ようせい)
855
「皇后になってからというもの、その責務を果たすために必死にやって参りました。後宮を取り仕切り、子を育て、陛下が安心して政務に専念できるようにと、私なりに陛下をお支えしてきたつもりです。完璧な皇后となることが、陛下にとって一番良いことなのだと信じて疑わなかったのです。陛下が私に構う時間が無くなり寂しさを感じようとも、国を治める陛下に比べたら些末な事だと……」
こくり、と唾を飲み込んだ。
初めて聞く皇后の、いや、紫萱の胸の内を。
皇帝は紫萱と初めて会った時、すぐに恋に落ちた。
小柄ながらも存在感と芯のある女性。優しく包容力に溢れる彼女が皇帝の心の支えとなり、皇后の位についたのはごく自然な流れだった。
コメント
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第42話、読みました。夜の宮廷に鈴蘭の香り、蓮池と満月——情景が美しくてため息が出ましたね。皇后が手料理を振る舞い、皇帝が「いつ本題を」と気を張っているすれ違いが切なかったです。「昔はよく二人きりでお喋りした」という回想と、皇后の横顔に刻まれた皺の描写が、長年の距離を雄弁に物語っていて。皇后が初めて語る胸の内に、思わず息を呑みました。暁明の話はまだ出てきませんでしたが、これからどう転ぶのか続きがとても気になります。