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猫又亭に、新しい風が吹き込んできたのは、雨の止んだ翌日の午後のことだった。
湿った路地を一歩一歩踏みしめて、古びた木の扉の前に立ったのは、ボサボサの髪をした青年だった。
その目はどこか焦点が合わず、両手には何枚もの手紙――いや、下書きのような紙束が握られていた。
「いらっしゃいませ」
カラン、と鈴の音と同時に声をかけたのは、いつものマスター。
青年は少し怯えたように顔を上げ、言った。
「……あの、ここって、“言葉にできないこと”を聞いてくれるって、噂で……」
「その通り。君が話したくないなら、無理に聞かないよ。けれど、珈琲は、ちゃんと味わってもらう」
マスターはにこりと笑い、カウンターの奥へ戻っていった。
青年はぎこちなく椅子に腰かけたが、紙の束をテーブルに置いたまま、じっと指を見つめていた。
「名前は、伏せたままでいい。今日は“月灯りブレンド”を淹れよう。夜の光みたいに、静かで、少しだけ甘い」
カップに注がれた珈琲の香りが、ゆっくりと彼の緊張をほどいていった。
青年は、少しずつ話し始めた。
「……小説家だったんです、俺。ずっと、何年も、夢だった。でも……ある日、声が聞こえなくなったんです」
マスターは、黙って耳を傾けていた。
「“心の中の声”っていうんでしょうか。物語の続きも、登場人物の言葉も、全部……急に、消えたんです」
青年の目に、濁った月光のような痛みが浮かんでいた。
「編集者には“燃え尽き症候群だ”とか、“少し休めば戻る”って言われたけど……もう、怖くてペンを握れない」
「書けないまま半年が過ぎて、それでも頭の中はざわついていて。何かを言いたい、けど言えない。何を言えばいいか分からない。そんな時、“猫又亭”の噂を見つけて……」
マスターは、紙束の一枚を手に取った。
そこには、ぐちゃぐちゃな文字で、ひとことだけ書かれていた。
《たすけて》
「……こんな紙、何十枚も書いて、何回も破って、捨てきれずに持ってきたんです」
青年の肩が震えていた。
声が小刻みに詰まりながら、途切れそうな言葉が続いた。
「……誰かに“書けなくても、あなたはあなた”って言ってほしかった。けど、誰にも頼れなかった」
マスターは、静かに返した。
「じゃあ、私が言おう。“書けなくても、あなたはあなた”よ。けれど、ひとつだけ聞かせてほしい。――君は、“まだ、書きたい”のかい?」
青年の目が、ふと揺れた。
長く深い、心の海の奥底に沈んでいた何かが、浮かび上がるように。
「……はい。書きたいです」
「じゃあ、それでいい。今は、コーヒーを味わいながら、その気持ちを温めていくといい」
マスターはにこりと笑い、最後にこう付け加えた。
「言葉ってのはね、“思い”が熟してから芽吹くものなんだよ。今は、芽の中で、何かがちゃんと眠ってる。いつかまた、きっと君の声が戻る日が来るさ」
青年はゆっくりと頷いた。
涙がこぼれないように、唇を噛んでいた。
その日、彼は“何も書かず”に紙束を大事に胸にしまい、店を出て行った。
けれど、二週間後。猫又亭に一通の封筒が届いた。
そこには、こう記されていた。
《あの日、あなたが言ってくれた言葉が、僕を少しだけ、前に進ませてくれました。まだ怖い。でも、今日、ひとつだけ、短編を書けました。ありがとう》
添えられていた原稿のタイトルは、「雨の音と、心の声」――
マスターはその封筒を帳面にそっと挟み、カウンター越しに微笑んだ。
その夜も、猫又亭の灯りは、静かに街の片隅を照らしていた。