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「ね、前に柳川が気にしてたすっごく綺麗な変形菌の本買ったんだけど、見る?」
結局柳川は今日1日どの講義にも出てこなくて。
帰っちゃったのかな?って思ったんだけど、研究棟の片隅でその姿を見つけた時には、柳川の背中があんまりにも寂しそうでギュッと胸が苦しくなった。
「あー、鳴宮か……。ってもう夕方?」
ぼんやりと、どこか焦点の合わない瞳で見つめられて、私は泣きたいくらいに切なくなった。
「まさか柳川、講義サボって1日中変形菌が迷路解くの見てたの?」
机上に置かれた黄色い変形菌入り迷路のシャーレを見て、「ずっるーい」とわざとクスクス笑ったら、「たまには、な」と薄く笑われた。
「――ね、柳川。お腹空かない?」
きっとコイツ、今日はお昼も食べてない。
そう思った私は、ポンッと柳川の肩を叩くと「私、お腹ペコペコなんだぁー。久しぶりに『菌次郎』へ行こうよ」と努めて明るくニコッと微笑って見せた。
『菌次郎』は、大学近くにある居酒屋の名前だ。
何でも私たちの大学の大先輩が、脱サラして始めたとかいう、〝菌が食べられる〟が売りの居酒屋。
ゼミで菌類や変形菌類を取り扱っている私たちには、話のネタにもなるしって、ゼミに入ってすぐの頃、教授に連れられてゼミ生みんなで行ったことがある。
菌が食べられると言っても基本的には発酵食品とキノコが主で、期待したような変わり種はあまりなかったのだけれど。
でもそこはそれ。
やっぱりマニア向けに面白いものもちゃんと用意されていたの。
裏メニューとして供される変形菌入りのトルティーヤや、衣に変形菌を混ぜ込んで揚げたアジフライなんかは、書物でしか見たことなかったし、珍しかった。
でもそのお店に行ったのはその1回きりで、みんな結局普通の居酒屋がいいって、以後は足を運んだことがなくて。
「私、変形菌入りのアジフライ、割と美味しかったと思うの」
言ったら、「俺はトルティーヤの方が変形菌の気配感じて好きだったな」って返してくれて。
「そうだっけ? ますますもう一回食べたくなっちゃった」
柳川が感じたものを、私も共有したい。
そう思って言ったんだけど。
「あんなモンまた食いたいっていう女子、鳴宮ぐらいだろうな」
ってほんの少し笑顔を見せてくれたの。
ホント、柳川ってば貴方をフッた片想いの子のこと言えないくらい鈍いんだから。
「男子だって付き合ってくれるの柳川ぐらいだよ。だからね、一緒に行ってくれたら今日はおごっちゃうし……この写真集も貸しちゃう♥」
鞄から、買ったばかりの『粘菌生活のよろこび』をチラ見せしながら「柳川これ、見たいって言ってたよね?」と決断を迫る。
どんだけ必死なんだよって呆れてくれても構わない。
どうか、ほんの少しでも柳川の気持ちが晴れますように。
私はそう願わずにはられないの。
そのためなら私、道化にだって何にだってなれるよ!?
***
『菌次郎』は大学近くの立地という好条件のためか、平日の夕刻だというのにそこそこの賑わいで。
「いらっしゃいませ〜。お好きなお席へどうぞー!」
キノコ柄のターバンを三角巾みたいに頭に巻いた店主に元気よく声をかけられて、私はキョロキョロと店内を見回した。
何だか顔を見ながらサシ飲みするのは恥ずかしく感じられて、数席続け様に空いていたカウンター席にさっさと腰を下ろすと、左横に柳川が腰掛けた。
結局「本は借りるけどおごりはなしな?」って念押しされて、柳川は私の誘いに乗ってくれたの。
最初は当たり障りのない会話から。
って言っても私たちが話せる共通の話題なんてゼミ絡みのことが多いから、どうしても2人して大好きな変形菌の話題が多めになっちゃって。
さすが菌を売りにしているだけのことはある。
このお店、そこかしこに菌グッズが散りばめられていて。
実は「菌」って付くから勘違いされがちだけど、本当は変形菌というのは菌と言うよりもアメーバーに近い存在だ。
私たちのOBならそんなこと百も承知だろうに、キノコグッズやカビの胞子の写真などに負けないくらいの割合で、変形菌のアレコレも展示されていたりするから、粘菌好きには嬉しくて堪らない。
現に――。
ビールを飲もうとグラスを持ち上げて、グラス下に敷かれていた木綿生地のコースターに、消しゴムはんこで結構リアルな粘菌の絵柄が捺されていることに気が付いた時は、すっごく嬉しくてキュン、とした。
「ね、このコースターのチョウチンホコリ、可愛くない?」
グラスを片手に少し濡れてしまったコースターを指さしたら、柳川が自分のも見て、「俺のはクモノスホコリだな」って答えてくれる。
私のはひょろりとした軸に楕円形の細長いのが乗っかったキノコみたいなの、柳川のはまん丸なのがお辞儀したみたいに軸の先にちょこんと付いている、街灯みたいなのだ。
変形菌は○○ホコリって名前のものが多いんだけど、そのゴミ扱いされているような名前ですら、健気で愛しく思えてしまう。
だけど。
「私なら何ちゃらホコリなんて付けずに、何とか宝って名付けるのになぁ〜」
しみじみと言ったら、「鳴宮らしい」って言って、ほんのちょっと笑ってくれた。
そこからは、どの変形菌が一番好きかって話になって、私が瑠璃色が美しいルリホコリがいいって言ったら、柳川はモジホコリが好きだと言ってくる。
「何でモジホコリ?」
コメント
2件
好きな人が落ち込んでるのを見るのは確かに辛い😭
柳川の落ち込み具合に胸がギュッとなったけど、鳴宮がさりげなく「菌次郎」に誘う感じ、めっちゃ良かったわ。好きな話題で自然に元気づけようとする姿勢が尊いし、コースターの粘菌で盛り上がるシーン、二人のテンションが伝わってきてこっちまで嬉しくなった。「私なら宝って名付ける」発言も鳴宮らしくて好き🔥 続き気になる!