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店には思った以上に長居してしまった。気の置けない友人たちと久しぶりに過ごす時間は楽しかった。
そろそろ帰ろうかと身支度を始めていると、それに気がついた清水が一緒にタクシーに乗って行くと言う。
「清水さん的にはまだ早い時間じゃないんですか?」
からかう私に、清水は苦笑してみせる。
「実は昨日も飲み会だったんだ。だから、今日はこの辺でやめておこうと思ってさ」
「そうだったんですね。それならもっと早い時間に切り上げれば良かったのに」
「だって碧ちゃんの恋バナだよ?聞かないわけにはいかないと思ってさ」
そう言って清水はにっと笑う。
私は照れ臭くなって彼から視線を外し、目を泳がせた。
「からかうのはこれくらいにして、帰るとしようか。梨都子さん、ごちそうさまでした」
清水が梨都子に頭を下げるのを見て、私も慌てて礼を言う。
「どういたしまして」
梨都子はにこっと笑う。
「碧ちゃん、何かあったら遠慮なく相談してよね。それでまた恋バナきかせて。それとね……」
梨都子は池上と顔を見合わせてからこう言った。
「彼氏ができてそっち優先なのは分かるんだけど、できればまた前みたいに顔を見せてくれたら嬉しいな」
そう言えば――。
思い返せば太田と付き合い出してから、ここに顔を出したのはこの夜が初めてだった。彼が私と二人で過ごしたがることもあって、リッコに限らず、他の友人たちとの付き合いも後回しになってしまっている。もうそろそろ、また以前のように自分の友人たちともちょくちょく会いたいと思う。太田さえ良ければ、時には私の友人たちと一緒に飲んだりするのも楽しいかもしれない。そんなことを想像しながら、私は梨都子の言葉に大きく頷いた。
店を出た私と清水は、まっすぐにタクシー乗り場へと足を向けた。平日の夜ということもあってか、乗り場にたどり着く前にタクシーを拾うことができた。後部座席に腰を落ち着けた私たちは、各自行く先を告げる。タクシーはすぐに走り出した。
タクシーに揺られ始めて間もなく、清水がためらいがちに口を開いた。
「あのさ。碧ちゃんの彼って、もしかしてヤキモキ焼きかなんか?」
突然の問いかけに私は目を瞬かせた。付き合い始めてからこれまで、特にそんな風に感じたことはない。
そう答える私に、清水は考え込むように腕を組んだ。口調軽く言う。
「話を聞いてて、ちょっとね。ずいぶんとマメっていうか、過保護っていうか」
私は小首を傾げて清水を見た。
「これくらいは、特に問題ないと思ってますけど」
「まぁ、碧ちゃんがそう言うならいいんだけど……。彼の碧ちゃんにべったりな感じが、なんかねぇ。碧ちゃんのことがよっぽど好きなんだろうなって思うけど、俺にはちょっと束縛気味に見えてしまうっていうか。友達との約束よりも自分を優先してほしいとか言うんだっけ?気持ちは分からないでもないけど、そういうの、めんどくさいってならない?それでここしばらくは、友達とも会ってなかったんだろ?リッコもだいぶ久々だったし。職場、一緒なんだよね。帰り、碧ちゃんが残業で遅くなる時は待っていてくれたりするんだっけ?連絡も毎日必ず、だっけ?すごいよなぁ。そんなにいつも一緒にいて、息、詰まらないのかな、って人ごとながらちょっと心配になるよ」
「うぅん……」
私は唸りながら首を傾げた。
「でも、付き合っていたら、こういうものじゃないんですか?」
「さて、どうだろな。価値観っていうの?そういうのは人それぞれ違うからな。ま、外野が口出しすることじゃないよな。余計なこと言って悪かったね。お、そろそろ碧ちゃんのアパートだな。……あれ?」
タクシーの進行方向に目を向けた清水が、怪訝な声を上げた。
「俺の気のせいじゃなければ、アパートの前に人が立っているように見えるんだけど。まさか不審者とかじゃないだろうな。こんな時間だぜ」
「えっ……」
私は眉をひそめて首を伸ばし、清水の視線を辿った。アパート前は駐車場になっていて、その奥が建物になっている。タクシーが近づくにつれて、その人影がはっきりと見えてきた。
「あれは……太田さん?」
驚いている私に清水が訊ねた。
「誰?碧ちゃんの知り合い?」
目を凝らしながら私は頷く。
「たぶん彼だと思います。だけど今夜は出張先に泊まるって言ってたはずなんだけどな……。何かあったのかしら」
まさか太田から連絡でも入っていたのかと、慌てて携帯を取り出した。画面に目を落とした瞬間、着信通知に気づきはっとする。
「しまった。お店に入った時にマナーモードにしていて、気づかなかった。バイブにはしてたんだけど……」
「周りが賑やかだったりすると、気づかない時、結構あるよね。仕方ないさ。それで、彼からは何か連絡でも入ってた?」
「えぇと。ん……?」
その通知を開いた途端、私は息を飲んだ。
「どうかした?」
「いえ、なんでもないです。大丈夫」
私は急いで携帯をバッグの中に戻した。胸の辺りがざわざわしている。
太田さんから電話が何回も入ってた――。
タクシーがすうっと路肩に止まる。私は清水に頭を下げた。
「送ってもらってありがとうございました」
礼を言ってそそくさと降りようとする私を、清水は心配そうな声で引き留めた。
「ちょっと待って、俺もいったん一緒に出るよ。エントランスまで行く」
「え、でも」
「本当に彼氏だって分かったら、俺はさっさと退散するから。すいませんが、少しだけ待っててもらえますか?」
清水は私の返事を聞き流してドライバーに断りを入れ、私に続いてさっとタクシーを降りた。
「清水さん、大丈夫ですから」
「実は不審者だったりしたらまずいから。ね?」
「……それなら、すみませんがそこまでお願いします」
私は清水の申し出を受け入れることにして、彼に付き添われながらエントランスへ足を向けた。
でももしもそこにいるのが本当に太田だとすれば――。
そう思ったら足どりが少し重くなる。電話に出なかったのは気がつかなかっただけで、故意ではなかった。けれど、結果的に太田を無視してしまったと思うと、顔を合わせるのがちょっとだけ怖い。彼が怒っていたとしたらどうしようと思って緊張する。
人影との距離が狭まった時、その人物が早足で近づいてきた。
「笹本!」
やはり太田だった。私の名を呼ぶ声に怒りも不機嫌さも感じられなかったから、私はほっとする。
清水が確認を取るように私に訊ねる。
「彼で間違いない?」
「うん、間違いないです。……わざわざここまでありがとうございました」
私は清水に向かって頭を下げ、礼を言った。
私たちの前で足を止めた太田は、私の手を取って両手で握りしめた。彼の目に清水の姿は映っていないのか、まっすぐに私を見つめている。
「心配したんだぜ。何回電話をかけても出ないからさ」
「ごめんなさい。マナーモードにしていて、全然気づかなくて……」
「そうだったのか。できれば今度からは携帯は手元に置いといてほしいな」
「ごめんなさい……」
私の返答に太田はほっとしたように頬を緩め、そこでようやく清水に目を向けた。
「……それで、こちらの方は?」
太田の顔に怪訝な色を見て取って、私は慌てて説明する。
「えぇと、今日行ったお店の常連さんで、以前からの知り合いなんですけど、遅い時間になったからって、ここまでタクシーで送ってくれたんです」
「……そう」
太田はひどく低い声で短くつぶやき、私の腕を取って自分の傍らへ引き寄せた。
「あの、太田さん……」
人前でこんなに密着するなんて、と恥ずかしくなる。
しかし太田はそれを気にした様子もなく、丁寧な言葉づかいで清水に礼を言った。
「ご親切に、彼女を送って下さってありがとうございました。あとはもう、大丈夫ですので」
それに対して清水も穏やかな声で返す。
「それでは、俺はここで失礼しますね。――碧ちゃん、後で梨都子さんにメールでも入れておいてね。無事に帰った、って」
「はい、分かりました。今日はありがとうございました。おやすみなさい」
本当はタクシーの傍まで行って清水を見送りたかったが、太田の手が私を離さなかった。
清水は私たちの様子をちらりと見て、一瞬だけ何か言いたげな顔をしたが、結局は笑顔を浮かべて帰り際の挨拶だけを口にする。
「おやすみ。またね」
そう言うと清水は待たせていたタクシーに乗り込み帰って行った。