社葬が行われるホテルの一室を、明彦か控室代わりにわざわざとってくれており、麗は洗面所で喪服に着替え、通勤用のカバンから、黒のカバンに入れ替えるため、スマホや財布をベッドに置いた。
そして、結婚祝いに義母からもらった須藤百貨店の最高級品である真珠のイヤリングをつけるため鏡を見る。
不器用なのでうまくつけられない。
キツくつけておかないと落としそうで怖い。
四苦八苦していると明彦にイヤリングをとられ、大きくて長い指が麗の耳を撫でながらつけていく。
ピクリと、背筋が震えた。
「麗」
名前を呼ばれるだけで、追い詰められている気分になるのは何故だろう。
明彦は麗のために沢山のことをしてくれている。
明彦に心を傾けないと恩知らずすぎるほどに。
「大丈夫か、葬式には出たくなかったら出なくていい」
「流石にそういうわけにはいかんわ。私は一応娘やし」
「葬式に出るのは父親のためか? 麗音のためじゃないのか」
腕を捕まれ、目を見て話をしなければならなくなる。
鋭い言葉。鋭すぎる言葉。
「その話、今したくないねん。やめてくれへん?」
麗は自分でも信じられないくらい冷たい言葉が出た。
だが、明彦は黙ってくれず、真剣な表情なのに、瞳の奥はまた輝いている。
「麗音に利用されて、されつづけて、それでも尽くすのが麗の幸せなのか?」
「やめて」
「いつも置いてかれるくせに、いつまで待っているつもりなんだ?」
「やめて!」
「麗音は金のために、麗を売ろうとしたって、まだわからないのか?」
「やめてっ!!!」
麗はヒステリックに叫んだ。大きく首を振って髪を振り乱す。
「全部、わかってるから、やめてや、やめてっ! いい加減にして! 私を追い詰めて、なんでそんな楽しそうなん? 何が楽しいんっ!」
そうすると、明彦の手が離れた。
「……気づいていたのか」
認めた。認めたのだ。
麗を追い詰めて楽しんでいたと。
「何年一緒にいると思ってるの」
気づかないわけがない。
「そうだ。もうずっと、俺が麗と一緒にいた。俺だけが、麗と一緒にいた」
明彦の瞳が麗を見つめている。
爛々と輝いて麗を見ている。
「いい加減にしてほしいのは俺の方だ」
責めていたはずなのに責められ、明彦の手が麗の顎を持ち上げてきて、目を見開いた。
「いつまで麗音だけを見ている? いつになったらその一方通行の思いを捨てられる? 俺が選ばれるのはいつだ?」
「選ぶって。ね、姉さんは家族で、……明彦さんに向けてる感情とはまた違うやつやし」
「本当に違うのか? 俺は麗の兄じゃない。その言葉の意味を本当に理解しているのか?」
「え?」
そのとき、麗は突然明彦に体を押された。
そんなことされると思ってもいなかったので、抗えず簡単にそのまま後ろに倒れた。
一瞬、覚悟した痛みと衝撃はなかった。
下にベッドがあったから。それでここがフィッティングルームではなく、ホテルの一室であることを思い出す。
明彦が覆いかぶさってくる姿を麗は見ていた。
信じられなくて、ただ見ていた。
「楽しいよ、麗を追い詰めるのは。やっと俺の番が来て、すべて順調にいってると思っていたのに、麗はほかの男の前で泣いたうえ、麗音が帰ってきたらすぐ、いつものように俺をお払い箱にしただろ?」
「そんなことは……」
「麗音に一瞬構われるだけで、俺のことなんか簡単に忘れ去る。俺はいつまでも麗音に勝てない」
明彦に須藤百貨店で買ってもらった高価な喪服。
真っ黒な喪服のスカートの裾が大きな男の手により捲られていく。
「俺を選ばないなら、選ばせるしかないだろ? だから、麗には俺しかいないって理解させるのはすごく、楽しい」
何をされようとしているのか、察しはついていた。
だって、明彦は本当に楽しそうだから。
あんなに一緒にいたのに、見たことがないくらい。
「……私、アキ兄ちゃんと恋愛なんか、したくなかった」
楽しそうだった明彦が一瞬、眉をひそめた。
「知ってたよ。麗が俺に優しいお兄ちゃんでいてほしがっていたのは。不在がちでろくに構ってくれない麗音の代わりに面倒見てくれる優しいお兄ちゃん」
そうだ。ずっと、そうあってほしかった。
姉がいなくて一人ぼっちで寂しいときに、この寂しさを埋めてくれるだけの存在でいてほしかった。
彼に取っ替え引っ替えされていた恋人になんかなりたいと思ったことはない。
「でも、麗は相手の望み通りに振る舞うのも好きだろ? 誰かの都合のいい子でいるのがすごく上手だもんな。だから、俺の都合のいい子でいてくれよ」
そのとき、電話が鳴った。
姉からだ。絶対に電話を取れるよう姉からの着信だけ音を変えているからスマートフォンを見なくてもわかる。
明彦にもらったお下がりのスマートフォン。
使い方がよくわからなくて、明彦に説明してもらいながら、設定した。
「出るなよ、頼むから。嘘でいい、演技でいい、流されただけでいい。麗音より俺を優先しろよ」
喪服の裾は完全にめくれ上がっており、薄いタイツを履いた太ももに、大きな男の手が這う。
上から覆いかぶさっている明彦が麗を見つめている。
まるで、祈るかのように。
「愛してると、言ってくれ」
コメント
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明彦さんの気持ちを考えると悲しくて。 麗ちゃん、少しは明彦さんの気持ちも考えてみてほしい。