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仮面をつけて、俺は今日も笑みを浮かべるのだ。
忙しい一日の始まり。
本日はここ、レストラン・マスカレードの中でも指折りの上客である梵天の方々がいらっしゃる。しかし、今日の俺はいつもとは違う意味で緊張していた。
「三途様…どうか今日は心穏やかに…」
遡ること、2時間前
俺はオーナーから呼び出しを受けていた。控室や廊下で伝言を預かることはあっても部屋に呼び出されるなんて滅多にないので少し気がかりだが…。一体何の話だろうか…
疑問に思いながらもオーナーからの呼び出しに答えないなんてことは、雇われの身である俺にできるはずもない。ため息をつきたいのを我慢して、部屋の扉を控えめにノックする。
どうか、悪い話ではありませんように
「オーナー、お呼びでしょうか」
俺の呼びかけに中から扉があいた。オーナーの傍に仕える赤い仮面が目に入る。彼は俺を中に招き入れると自身は部屋の外へ出て、扉を閉めた。俺は閉まり行く扉から目が合った彼に一礼をすると部屋の奥にいるオーナーの元へと向かう。
「…ミチ、来たか」
「はい。御用でしょうか?」
俺の言葉にオーナーは高級そうな椅子に腰かけ葉巻を手に取る。俺はすかさず胸ポケットからライターを取り出すとオーナーの寄せた葉巻に火をつけた。赤い炎に吸い寄せられるように茶色い筒が染まっていく。
彼は大きく息を吸い込んだと思うと、散乱した手元の書類に向かって煙を吐きかけた。俺はライターを仕舞うと机を挟んだ向かいに立つ。
「なぜ、ここに呼ばれたと思う?」
さっぱりわからん。なんて正直に言えるわけもないので、最近の彼との会話の大部分を占める彼らの事を口にしてみる。当たっていても当たっていなくても彼らの話題が尽きることはないだろう
「…例のお客様の事でしょうか」
「半分正解、答えなかったら今月分カットだったのに…残念だ」
さっぱりわかりませんみたいな顔してた割に中々いい所ついてくるな、と言ったオーナーに俺は内心ギクリとした。この男、こう見えてもこの曲者しか集まらないレストラン・マスカレードの支配人だ。人間の表情一つで考えも読み取ってくるなんて…まあ、俺は結構わかりやすいらしいし、こういうことはちょっと諦めている節もあるが。
とにかく…あぶねー。正直に言ってたら減給だった。
「喜べミチ…いや、花垣武道。今月の売り上げトップはお前だ」
俺の疑問に答えるでもなく、オーナーは前触れもなくそう言った。…てか、え?!売り上げトップ?!ということは…!!俺は、その言葉にはじかれた様にオーナーの顔を見た。彼はニヤリと笑うと「本当だ」ともう一度言った。
この店には1年間で売り上げのトップの人間には、なんでも好きな願いを叶えられる権利が与えられる。金でも地位でも…望めば手に入るというその権利は借金の帳消しや、このレストランから抜けることも許されている。…もっとも、過去にそれを成し遂げたのは片手の数しかいない。多くはその目標の前に敗れ、もう一度売り上げ競争へと身を投じるかその命が尽きているか…らしい。去年の11カ月までトップだった人間は暴走族と揉みあいになった際に失った左足を取り戻したいと願ったらしい。どこの死体から取ってきたのか、あと一か月で目標達成となる彼の前には己のために用意された左足がオーナーの部屋に保管されているのだと嬉しそうに語っていた。最も、ラストの一カ月で彼は行方をくらませ、その左足もどうなったかは分からない。
俺はその権利を手に入れる切符を握ったのだ。
「だが、残念な知らせもある」
浮足立った気分に釘を刺すようにオーナーの鋭い視線が俺を捕らえた。
オーナーは自身の手元に持っていた資料を俺に向かってバサリと放ってきた。ちらりと資料を一瞥すると、オーナーはそれを読んでみろと顎で指示をだす。
素直にそれに目を通せば、今月分までの請求された備品の詳細がズラリと書かれていた。
「…あの、これがなにか?」
伺うように視線を送ればオーナーは俺に目を向けることもなく、煙をふかせた。
「この請求額…見て見ろ」
「…結構やってますね」
「ああ、結構やってる」
まるで読んでいたかのように間髪入れずに返事が返ってきた…。記載された請求の内訳をみるとテーブル備品(ナイフ、フォーク、皿etc…)や部屋の内装の修繕費などがほとんどを占めていた。レストラン・マスカレードはお客様にお出しする品は勿論のこと…コースターですら完全オーダーメイドのため、糸のほつれを1か所修繕するのですらバカにならない金がかかる。ここに書かれた内訳はかなりのものが破損して修繕不可能と判断され、新規発注と書かれていた。
「これじゃあ、せっかく売り上げが伸びても…赤字だよ」
「そ、ソウデスネ」
はあー、とあからさまにため息をつき、机に突っ伏すオーナーに俺は背中に冷たい汗が伝った。なんだか…めっちゃ嫌な予感がする。俺は素早くかつ丁寧に資料をまとめオーナーの机に戻す。
「これ、全部同じ卓の請求なんだよ…しかも全部同じお客の後に壊れている」
「…」
「どの卓か、その資料に書いてあっただろ?何卓だか言ってみろ、花垣武道」
「…じゅ、10卓です」
「そうだな。そこの卓は…同じその客は…一体、誰が担当してる?」
言ってみろ、とドスを利かせた声で問われ俺は引きつる口元に精一杯笑みを浮かべて答える。
「~っ!俺です!!」
「全・額!!お前の給料から天引きだバカ道――――!!!」
「そ、そんな!!」
毎回客が帰れば壁にナイフが刺さっており、壁を直してカトラリーを入れ替え割れた皿を発注する。お前のもてなしはどうなっている?!と、火をつけたばかりの葉巻をぐしゃっと手で握りつぶしたオーナーは机にバンッと手をついて腕を伸ばし俺の胸倉を掴み上げる。力任せに引かれて机に必死にしがみ付いてオーナーから距離を取ろうとしたが…この男かなり力があり、抵抗むなしく俺はつま先立ちになってしまう。怒鳴られるたびに口からでる煙に思わず顔を背けそうになる。
け、煙たい!!この間はよくやったってボーナスくれたのに…まさに天国から地獄。こんな仕打ちはあんまりだ!!!
「おかげで売り上げは先月以下、ナイフ避けしかできないやつはここにはいらん!!」
「で、でも…!」
「でもじゃない!!言い訳するなら、稼いで来い!!ただし、部屋に傷1つつけるんじゃねえ!!!」
わかったら働け!!そういわれて放り投げられると、俺は逃げるようにオーナーに一礼して部屋を出た。息を切らせて扉を開けると、先ほどオーナーに仕えていた赤い仮面の彼が扉の傍で控えていた。
「ずいぶん楽しそうだったな」
「…本当にそう聞こえたの?」
だとしたら、よっぽどだな…。赤い仮面に緑の刺繍が施された仮面の奥の瞳が細められた。派手な色合いにもかかわらず、仮面越しにもわかる端正な顔立ちの彼にそれはよく似合っていた。奥に見えた緑色の瞳に肩をすくめ、そのまま内ポケットに手を入れて先ほどのライターを彼に手渡す。これは最初にこの部屋を訪れた際に、彼から密かに預かっていたのだ。「オーナーは必ず火をつける。だから持っておけ」すれ違いざまの彼の機転に俺は救われた。
助かった、と手渡せば彼は意地悪そうにあの人の機嫌がこれ以上悪くなると俺も困るんだと笑っていた。
「ま、せいぜい頑張れよ」
そう言ってオーナーの部屋へと戻っていった彼に俺は深くお辞儀をした。
…というわけで本日は部屋に傷はつけられない!
すなわち、三途様にナイフを投げてもらっては困るのだ
「いらっしゃいませ、皆様」
いつも通りに彼らを出迎える。衝撃的な初回から、あの後何度も彼らはここを利用してくれる。そのたびに巨額の富が動き、部屋の修繕に費用が費やされているのだ。ちなみに、血などがついていた際にはお客様の負担になるのだが、単なる傷だと俺達ウエーターの監督不行き届きという不名誉なものになってしまうことが多い。ていうか、それって単純に穴開けるくらいなら自分が犠牲になれってことなのか?…俺たちの価値は部屋の備品以下らしい。
まあ、最も借金を背負っている身としてはそうなのかもしれないが。
「よお!またきたぜ」
「久しぶりだな、ミチ」
「お久しぶりです。蘭様、竜胆様」
姿勢を正す俺に向かって軽く手を挙げて車から降りてきたお二人も要注意人物である。相変わらずお洒落なスーツに身を包み長い脚で車を降りた。今日は機嫌がいいのか、二人とも笑顔だ。前回利用された際には機嫌が最悪だったらしく、蘭様は料理を平らげるとその皿を派手に割っていたし、竜胆様はひたすらに酒を飲み、飲み終わるたびにグラスを割っていた。あの時はもう何度厨房と部屋を行き来したかわからない。
「また世話になる」
「元気そうだな」
「鶴蝶様、謹んで勤めさせていただきます。ありがとうございます、ココ様もお変わりないようで…何よりです。」
いっぱい食わせろよ、とニヤリと笑うココ様はこの前積み上げた処理済みの皿のタワーが崩れて積み上げた皿はすべて割れ、隣に座っていた鶴蝶様のグラス以外の皿ももれなく一緒に割っていた。鶴蝶様はその光景に、ふざけんなと最後のグラスを握力で割って…あの時は怪我がないか心配したが、何事もないように食事を再開される様子にさすがの俺も引いた。
「タケミっち、今日もタイ焼きな」
「かしこまりました。マイキー様」
マイキー様はここでは比較的何も問題は起こしていない穏健派…だが、彼の事になると歯止めがきかなくなる方がいるので彼の言葉や所作に答える際には、人一倍気を使っている。
「おい、ドブ。またお前かよ!気安く首領と話すな見るな今すぐ息止めろ」
「そ、れは…難しいです」
申し訳ございません、三途様…と俺が言うと面白くなさそうに顔を歪めた。
今日一番の危険人物…地雷そのものが歩いているかのような彼は、俺が何をするにも気に入らないらしい。それは主にマイキー様の事が中心だが、首領と呼び慕う彼の命令だけは聞くので俺の給料減額阻止ミッション(←今考えた)のカギとなるのはマイキー様だ。お願いしますどうか、彼を止めてくれますように…!
「ご案内いたします」
いつもの通りに俺は迷路のような道を進んで皆様を案内する。三途様の行動に目を光らせていたため、今回は素通りしようとする彼をなんとか止め手荷物所できちんと銃を預けていただけた。
(よし、第一ミッションクリアだ)
しつこい位に手荷物所で時間を取ったため、三途様からは「初っ端からウゼーことすんな」と長い脚で背中を蹴られるという洗礼を受けたが、部屋に穴をあけられるよりはましなので…俺はできる限り頭を下げて何とか納めてもらった。
「どうぞ」
いつもの通りマイキー様の椅子を引くと俺はコースターを皆様の前に置いていく。…おっと、視界の端で早速三途様がナイフに手を伸ばした…!
「さ、三途様!お待ちください!!」
「あ“?んだテメー邪魔すんな」
あ、単純に切り分けるために持っただけか…!いけないいけない…気が張りすぎて敏感になっている。
申し訳ございません!とガバッと90度のお辞儀をして素早く彼に謝罪すると、今度口開いたら下ろすからなぁ…と地獄の底から這い出るような声で脅された。俺これ今日で死ぬかもな…
「…お前ちょっとビビりすぎじゃね?」
いつもより、という竜胆様の言葉に確かにそれは否めないため俺は体を縮めた。
「も、申し訳ございません」
「来るたびに三途がナイフ投げすぎてるのが悪いだろ」
「…鶴蝶様!!」
その通り!!なんて言えるわけもなく俺は秒で鶴蝶様の傍に控えた。いつ何時でもあなたにお仕えします!!俺の動きに鶴蝶様はさして気にするでもなく、お食事を続けている。あ、グラスが空きそうだから飲み物をご用意しないと。
「あ、カクチョーずりー。なんでそいつだけに懐いてんだよ」
(…自分の胸に手を当てて考えてください)
贔屓かよー、と不機嫌そうに頬を膨らませる竜胆様に俺は心の声を飲み込んで、曖昧にほほ笑んで鶴蝶様のグラスに追加を注ぐ。
新しく描かれる水面には鶴蝶様の少し不機嫌な顔が映っていた。
「金は俺のがあるぞ?」
面白そうに片目をつむったココ様に傾きかけた俺の心。気持ちだけいただきます、とかろうじて言った俺の言葉にココ様はもう一押しか?と心を読んだかのように口角を上げた。
「食事くらい静かにさせてくれ…」
鶴蝶様の言葉に、竜胆様は面白くなさそうに頬杖をついてこちらを見つめている。しかし、よく見ると頬を支えるその手には、ちらりと白い包帯が巻かれていて俺は思わず彼の腕を凝視した。
「!…り、竜胆様…その手、一体どうなされたのですか?!」
「うおっ…」
俺は竜胆様の席に近づくと片膝をついて頬に当てられた手をジッと見つめた。俺の視線に竜胆様はその手を頬から退けると俺は下されたその手をそっと包む。
その行動におい!と焦ったように竜胆様は目を丸くしていたが蘭様の方をチラリと一瞥すると、何か思いついたようにニンマリと口が弧を描く。反対の手をテーブルに掛け上半身を支えながら足を組んで俺の方に体を向けた。肩についた紫色の髪がサラリと揺れ、少しだけ彼の頬にかかる。
「申し訳ありません。傷が出来ているとは気づかず…利き手ですから食べづらくはなかったですか?」
俺達は同じ卓で同じお客を担当する。お客様の変化にいち早く気付き、最良のおもてなしをしなくてはならない。たとえお客様の申告がなかろうと彼らの一挙一動に目を向け、観察し、それに応じた接客をしなければウエーターとして失格だ。それなのに俺は、なんてことをしてしまったんだ…!
あろうことか、利き手を負傷されていることに気づかず食事を提供していた。三途様に気を向けすぎていて見逃していた…なんて、だめだ。自分の観察と注意不足だ。言い訳じみた考えをいち早く取り除くと、竜胆様の手の具合を確認する。
「見たところ出血などはありませんが…」
「コレやってから結構経つし、痛みはそんな無い…ああ、でも…ちょっと食いづらいかなー…なあ、兄貴?」
「そうだな、今の竜胆は箸より重いもの持てないんだよ」
可哀想に、と顔を覆った蘭様の言葉に俺は絶句する…なんてことだ。見抜けず、おいそれと食事を提供して…あまつさえ俺は竜胆様を警戒していたなんて…?!この感じからすると、竜胆様はナイフを投げることは不可能だ。今日は彼を警戒する必要なんてなかったのに…。
そんなことを思っていると視界の端で何やら眉を顰めている人が二人。
「おい、あいつ今日何人バラしてたっけ?」
「ざっと10人。当たり前だが箸より重い」
「あの傷そもそも自分で振り上げた得物で死体スクラップ越しに壁殴って痛めただけだろ」
「自業自得じゃねーか」
「はあ…何企んでるんだ」
鶴蝶様とココ様が何か話していたが、俺には目の前の竜胆様の手が気になってそれどころではない。
包帯の巻かれた手は力なく、俺の手に収まった。時々俺の頭を撫でていた少し傷のある長い指。今は、俺の手を握り返す力もないなんて…。ああ、なんてことだ…!
「お痛みはありませんか?」
膝をついているので必然的に見上げた竜胆様の瞳に眉をひそめた俺の顔が映る。
彼はクツリと少しだけ笑うと上半身を乗り出して支えていた反対の手で俺の顎をすくって視線を合わせてきた。
「今は大丈夫だ。でも食事をするのは少し辛いかな」
伏せ目がちに呟かれた言葉に、俺はぎゅっとその手を少しだけ強く握る。イケメンのその表情に力にならねば!と変な使命感に駆られた。少々お待ちください、と一言残して急いでカトラリーを取りに行き素早く竜胆様の元に戻った。
「竜胆様、先ほどは大変失礼いたしました。本日は私があなたの手となることをお許しいただけますか?」
「ん、よろしく♡」
俺の問いかけに満足そうに竜胆様は頷くと、さっそく俺は竜胆様のお皿に盛られた料理を彼が食べやすいように切り分けていく。
バランスを考えて…野菜、肉…あとは気に入っていたソースをたっぷりとつけて、と彼が取りやすいようにスプーンの上に小さく盛り付けた。食べられるように皿に置こうとしたが、反対側から伸びてきた手にそれは阻まれる。俺はスプーンを持ったまま静止し、驚いて視線を向けるとにっこりと笑った蘭様が手を掴んでいた。その行動に戸惑って、俺はパチリと瞬きすると掴まれた腕と蘭様を交互に見る。
「あの、蘭様…手を」
離してくれませんか?と言った俺の言葉を彼はしっかり笑顔で制した。蘭様は笑みを浮かべたままスルリとスプーンを持った俺の手に指先を這わせて支える。そのまま皿に置こうとしていた位置から竜胆様の目の前までもっていく。俺は後ろから蘭様、前に竜胆様という何とも贅沢な状況に追い込まれてしまった。
「武道、俺の弟を助けてくれよ?」
耳元で囁かれた言葉にピクリと肩を揺らしたが、目の前の竜胆様を見ると先ほどまでのしおらしかった表情はどこへやら…。意地悪そうに笑って早くしろとチロリと舌舐めずりをした彼の唇が目に入る。
その光景に顔に熱が集まるが、腕を退けようにも蘭様がその細腕とは思えない力でがっかりと掴んでおりどうにも動かせそうにない。
辺りを見ても助け船を出してくれる人はいなそうだ。仕方ない…武道、男になれ!
自身を鼓舞して決意した瞳を竜胆様に向ける。
「…竜胆様、口を開けてください」
「ん」
挑発的な笑みを浮かべた竜胆様に、恐る恐る口元に持っていく。蘭様の指先は、いつの間にか俺の腰にそっと添えられていた。
ちゃんと合図してやらねーと、竜胆食えねーからな♡という地獄の注文付きで彼は後ろから見守っている。
俺は腕をひっこめたい気持ちを我慢して、精一杯の笑顔を浮かべて竜胆様の唇にスプーンを運んでいく。
「あ、あーん…」
羞恥心で死にそうだ…。綺麗な口元に吸い込まれると、竜胆様は少し頷いて皿に目を向けた。
「ん、なかなかイケるな」
「…お口に合ったようで何よりです」
そっと笑った彼の絵になるような光景に羞恥心を忘れて見惚れていたが、その言葉にホッと胸を撫でおろす。竜胆様は「もう一口」と今度は肉を寄越せと悪戯に笑う。それに応える様に切り分けた食材を今度はフォークで口元に運ぶと、彼はまたパクリと美味しそうに咀嚼をした。
その光景を他の面々も面白そうに眺めており手を出す人はいなさそうだ…
一人を除いては。
ひゅっ!と風を切る音に俺は竜胆様に向けていた視線を移すと、背後にいた蘭様が俺を包むように抱きしめた。そして目の前に伸ばされたその手には、しっかりとナイフが握られており、俺と竜胆様の間めがけて飛んできたことが分かった。
ていうか蘭様の反射神経どうなってるんだ…?!
「チッ!キモイことしてんじゃねーよ!!」
「おいおい…食事のマナー習わなかったのか?」
掴んだナイフをくるりと手元で遊ばせる蘭様の言葉に、大きな舌打ちが聞こえてきた。怒気が含まれた声の主は、やはり三途様だ。怒りが収まらないのか、また新しくナイフを掴むとその光景に竜胆様は鋭い視線を向けた。垂れた瞳にはギラついた闘志が宿り三途様の行動に憤りを感じているのは確かなようだ。
「せっかく面白かったのに…台無しじゃねーか」
あれ?食事の邪魔をされたから怒っていたのかと思っていたのだが…どうやら怒りの矛先は違ったらしい。それに先ほどまであんなに力が入ってなかった包帯側の手は力強く握られ、苛立たし気に机を叩きつけた。俺はその衝撃に蘭様の腕の中で小さく肩を震わせた。
「り、竜胆様…手が」
「あ“?!ってあ、やべ…モウナオッタワ」
(左様ですか…)
「三途、お前自分が構ってもらえないからって拗ねんなよ」
後ろから抱きしめていた蘭様は大丈夫か?と俺に問いかけてきた。それにコクリと頷いて答えると蘭様は俺から体を離して三途様を睨む
「俺たちの「お気に入り」なんだからもっと丁重に扱えよ」
「っは!下らねー!!そんなドブの何がいいんだか」
「揶揄いやすいんだよ」
蘭様は、遊ばせていたナイフをくるりと反転させて三途様めがけて構える。その様子に俺はサーっと血の気が引いて蘭様の手を掴むとナイフを持った手を握って彼にすがった。
まずい!このまま二人がヒートアップしたらこの部屋は只じゃすまない…!
そして俺の給料と首も只じゃすまない…!!
「ら、蘭様!どうか、ここはおさめてください…!」
「はあ?俺に命令すんな」
「お、お願いします!今度のディナーはサービスしますので!!」
俺の必死の形相と言葉に蘭様はうーん、と考えるそぶりを見せる。蘭様はここのディナーがお気に入りでよく一人でもご利用になる。一生懸命奉仕します!と念を押すと暫くしてフーン…となにか考える素振りをした後に、わかったとナイフを置いてくれた。しかし、それに安堵したのもつかの間で今度は三途様からの強烈な殺気に身震いする。
「さ、三途様もどうかお納め下さい!」
「てめー、クソヘドロの分際で…!俺に指図できるのは生涯マイキーただ一人だけだ」
やば!俺の言葉がさらに彼の怒りに火をつけてしまったらしい。両手にカトラリーを構えて今にも投げ込みそうな雰囲気の三途様。あたりを見渡しても他のメンバーは我関せずといったところだろうか。意外だが唯一、マイキー様だけは俺の行動を黒曜石が埋め込まれたような瞳でじっと見つめている。
三途様は何も言わない俺にしびれを切らしたのかついにその手に収まっていたナイフを放った。
俺は避けるわけにもいかないので縋っていた蘭様をグイっと引き寄せ、片手で受け止めるとナイフをテーブルに置いていたお盆で受け止める。ドスッという重い衝撃に顔を引きつらせそうになるが竜胆様がその光景に口笛を鳴らす。三途様は当たらなかったことが気に入らないのか立て続けにカトラリーを掴んだ。
「蘭様、失礼します」
俺は蘭様をそっと離すと、彼は呆けたように俺を見つめていた。…どうしたのかな?しかし、今は無事である彼に構っている暇もないので、お盆に刺さったナイフを素早く抜いて三途様の手の届かないようにカートへと投げ入れる。それは大きく放物線を描いて金属音を鳴らしてカートに吸い込まれるように収まった。
「お、ナイスイン」
「コントロールは良いな」
「お、お褒めいただき光栄です。鶴蝶様、ココ様」
頑張れよ、とワインを煽る二人に俺はできるだけ口元に笑みを浮かべる。マスカレードの元では口元は一番大事だ。
しかしその間にも、三途様の手は止まらずついにスプーンまで投げてきた。もうなんとか三途様の元までたどり着かねば、部屋の破損は免れない。なにより俺に当たらない事やノーコンやら薬中やら灰谷様方の野次のせいで三途様の短い導火線は当の昔に引火して今にも爆発しそうだ。
「三途様…って、うわぁ…!!」
三途様の手元の得物が尽きて鶴蝶様のもとにあるカトラリーに手を伸ばしている隙に、俺は彼の元へと大きく一歩を踏み出した。はず
…な・の・だ・が、どういうわけだか俺はテーブルに引いてあったクロスを踏み、長い布に
足を取られ三途様の体にタックルするような形で胸に飛び込んだ。
「あーあ、せっかくカッコよく決めてたのに…」
「まあ、アイツらしいけどな」
蘭様と竜胆様はため息交じりに何か言っていたが、俺は彼らの言葉を気にする余裕もなく。三途様は一見細身な体と思っていたが、いざ飛び込んでみると彼の体は俺の突然の頭突きにビクともせず恐ろしい位体幹がしっかりしている。俺が呆気に取られてそのままでいると苛立たし気にグイっと体を掴んだ。
「っくそが…痛えな!!!」
「ももも、申し訳ございません…!!!」
し、死んだわ…確実に。ガバリと顔を上げた俺の目の前には大層お怒りになられている三途様のご尊顔があった。口元の傷が歪むほどにいい笑顔(超怒ってる)で俺を今にも殺そうとしている。殺気が凄すぎて俺は指一本ですら動かせない。まさに蛇に睨まれた蛙だ。鼻先が付きそうなほど至近距離で見つめられるがイケメンだろうがまつ毛が長かろうが、殺気だっているので俺には般若の顔にしか見えない
「ドブ野郎…よほど死にてぇらしいな?」
「ご、ご慈悲…は?」
「ねえよ」
そう言って俺の目の前にいつの間にか鶴蝶様の前から奪ったナイフがきらりと光った。容赦のない瞳と俺を捕らえる力強い腕に諦めそうになるが滲む視界をグッと歯を食いしばり三途様を半ば睨みつける様に見つめる。負けるな、花垣武道!こんなところで死んでたまるか…!とにかく、このナイフを何とかしないと…
俺は気迫に押されつつもなんとか右手だけ動かして、三途様の手をナイフごと包み込む。刃が手のひらにジクリと食い込むが、気にしてはいられない。痛む掌を無視して三途様を見つめる。
「ふん、離せ。今捌いてやる」
「い、嫌です…!」
三途様の変わらない冷えた瞳に、ついに俺の瞳からポロリと涙が零れ落ちた。
「お前…」
グイっと急に体を引かれて三途様の顔がさらに近くなる。今まで手加減していたのであろう、俺が掴んでいた手をあっさりと振り払う。流れるような動作でナイフを俺の喉元に持っていき、ピタリと添えられた刃に息を呑むとはらはらと涙が零れた。…く、悔しい。どうにも彼に敵わないことはわかっていたが意志だけは、彼に屈したくない!…負けたくなくて、俺は仮面越しに雫を止めることが出来ないまま彼を睨みつけた
「…泣き顔は、なかなか…そそるな」
口元を歪めた三途様の瞳には情けなく眉を下げた俺の顔が映る。
「さ、んず…さ、ま…やめ」
「ふんっ!命乞いでもしてみろ。惨めに俺に這いつくばい、赦しを乞え」
「ぐっ…!い、嫌です」
食い込んだ刃の痛みがジワジワと広がっていく。顔を歪ませる俺に三途様はクツリと喉の奥で笑うと、口元の笑みを一瞬で消して俺の喉に押し付けたナイフにさらに力を込める。生暖かい液体が喉元を滑っていくのを感じた。
「お前、自分の立場わかってんのか?」
「…」
鋭く冷えた瞳に、俺は静かに目をつむって喉に当てられたナイフを彼の手ごと掴むとそのまま力を入れて自分の首を切りつける
「…っち」
その行動に三途様は目を丸くして小さく舌打ちをすると、パッとナイフから手を離した。俺はそのすきにナイフをひったくり、三途様との距離を取る。少し切った首元の生暖かい感覚に乱暴にスーツの袖で拭うと事のあらましを眺めていたこの場の長(おさ)が口を開いた。
「三途、その辺にしとけ」
「…!…っす」
マイキー様の言葉に三途様は深く彼に頭を下げると。自分の席におとなしく座った。
え、最初からそうしててくださいよ…!!
「ま、マイキー様…」
彼の瞳は変わらず俺に向けられており、少しだけ目元が細められる。
「タケミっち、中々面白かったよ…弱っちいのによくやるね」
変わらず無表情な彼の言葉に、俺は崩れた体制を立て直して頭を下げる。先程まで野次を飛ばしていた蘭様や竜胆様も、面白そうに視線を向けていたココ様と鶴蝶様もその一言に一瞬で静寂が生まれる。どうやら俺は救われたらしい。
「タイ焼き、もっと頂戴」
「…お騒がせしました。今、お持ちします」
スイッチを切り替えなければ。素早く彼の前の皿を片付けて部屋を後にする。厨房に食器を預けてタイ焼きの追加を頼むと、焼きあがるまで時間がある。
とりあえず、傷の手当てをしなければ…。そう思って厨房から離れ医務室に入ると救急箱を取り出す。
「あれ、ミチ君?」
「あ、ナオ…」
入口からの呼びかけに、ガーゼと消毒液を片手に振り返った俺の視線の先には呆れ返った後輩の顔が目に入った。
「卓ほったらかしてどこに行くかと思えば…あー、なるほどこれは熱烈ですね」
名前をナオという。勿論ここでの名前だが…俺の少し後にここに勤めてきた彼は普段は灰色に黒い刺繍の入った仮面をつけている。年のわりに落ち着いていてしっかりした性格だ。俺も認めたくはないが、優秀な彼には何度か助けられた。周りには物腰の柔らかいことで評判らしいがどうにも俺にはその鱗片も見せてくれない。しかし、入店した当時は俺が付きっ切りで教えていたためか、一人で卓を持った後も交流が続いた。彼は此処でできた数少ないかわいい後輩だ。
貸してください、といつの間にか俺の手から消毒をひったくると彼は躊躇なく傷口に当ててくる。容赦ない手つきに俺は悲鳴を上げそうになるが、彼は「うるさいので声上げないでください」と先手を打ってきた。前言撤回、全くかわいくない!!
「も、もう少し優しくシテ」
「十分優しいじゃないですか」
ねえ?と感情のこもっていない言葉とにっこりと微笑んだ彼に俺は諦めたように息を吐く。
「はい、これでいいでしょう、幸い深くは切っていないので痕も残らないと思います」
念のため、消毒は欠かさないで下さい…とテキパキと処置をして俺に念を押してきたナオは救急箱を元に戻し、俺に向き直った。
「早く戻ったほうがいいですよ」
さっきからベルの音がうるさい、そういった彼に俺は血の気が引いた。素早く立ち上がってお礼を言うと、医務室に残る彼は少し困ったように笑ってひらりと手を振っていた。
先ほどまでの三途様に手首を掴まれていたためか、重いものを持つと痛みが走り少し運びづらい。俺は厨房の一人に声を掛けて配膳を手伝ってもらうことにした。
「失礼いたします。お待たせ致しました」
マイキー様の要望通りに作られたデザートはいつも彼を満足させてくれる。
今回もうまくいく
…はずだった
「は?」
低く、獣が唸るような音がした。
次の瞬間、俺の隣にいた彼は床に叩きつけられ持っていた皿も派手な音を立てて割れていた。ぽとりと床に落ちたタイ焼きと目が合う。勿体ないなんて考える余裕もない…なんといっても俺はそれどころじゃない。白目をむいた男の腹を容赦なく踏みつけて、茫然と立ち尽くす俺に気にした様子もなく彼は続ける。
「ま、マイキー…君?」
ポロリとこぼれた言葉にマイキー様はゆるりと微笑んだ。三途様から変な声が聞こえてきたが、無視だ。
「俺、タケミっちにお願いしたんだよ」
「え?」
グリっと足先に力を入れると、男はうめき声をあげて気を失った。すみません俺が連れてきたばかりに…。
「…お前じゃねーんだよ」
無表情で男を見下ろすマイキー様は誰にも寄せ付けないような黒いオーラをまとっている。
ここでようやく、俺はこの中で一番ヤバイ人を理解した。
どなたですか、マイキー様は穏健派みたいなこと言った人…。
心のなかで男に合唱するが、この人にこの前ご飯を取られたのでその報いだと勝手にこじつける。
「タケミっち、それ頂戴」
「ひゃい」
彼からの不意打ちに裏返った声で返事をすれば、ココ様が肩を振るわせている。笑ってるの見えてますけど!!
それ、という言葉に俺の持っている皿の中身を指さすマイキー様。先ほどとはうって変わり…心なしか嬉しそうな雰囲気ではあるが、小声で聞こえたあいつらばっかりズルいという言葉は聞こえないふりをした。
「食べさせて」
「え…」
「は?」
「ヨロコンデ」
威圧感のある彼の声に素早く返事をすれば、彼は満足そうに頷いた。急かすようにはやく、と顔を近づけてきた彼の顔は幼くて…とても先ほどの同一人物とは思えない。
「あ、あーん」
「あむ…うん。美味しい」
ギリギリと歯ぎしりするピンクの彼から視線を反らし、目の前で美味しそうに食べるマイキー様に目を向ける。
その表情がなんだか可愛くて口の端についた餡子を仕方ないですね、とそっと親指で拭う。その行動に目を見開いた彼の表情が目に入り、やってしまった!と失礼なことをしてしまった自分の行動に血の気が引いていく。俺は床に転がった男をみて次にこうなるのは自分かと覚悟をした。
「タケミっち、やっぱりこんなとこ辞めて、梵天うちで働きなよ」
マイキー様は俺の行動を咎めるでもなく、そっと頬に手を添えて視線を合わせてくる。
今なんかこわいこと聞こえた気がする。無理無理!絶対に無理だ。こんな怖い人たちの所で働く?まだここのがマシだと思えてきた。これならナイフが壁に刺さったほうがいい。
まあ、ただの気まぐれだろう。
「え、っと…考えておきます」
いくら冗談でもきっぱりと断れば機嫌を損ねるかもしれない。俺の言葉にまあ、いっか。とパッと手を離したマイキー様はココ様の方をチラリとみると、彼はそれにこたえる様に座っていた席を立つ
「ほら、これ。ここのオーナーに渡せ」
「…これは、一体?」
高そうな革の入れ物に薄い何かが入っている。ココ様は俺にそれを持たせると「今までの分と少し色を付けたやつ…」となにやら暗号のような言葉を口にする。
「は、はあ。…確かにお預かりいたします」
「お前のためにも、しっかり渡せよ」
そういうとココ様はパチリとウインクを送って自席へと戻っていく。
その後は順調に給仕を務め問題なく勤めを終えることが出来た。
余談だが、床に転がった男を回収に来た黒子の方々に一礼すると俺は彼らから憐みの視線を向けられた。その視線を受け流して、退室していく彼の背中を見送った。
今日の余興(命がけの三途様との攻防←一方的)に満足されたのか、マイキー様は足取り軽やかに高級そうな黒い車に乗り込んでいった。さらりと揺れた白い髪から覗いた瞳は、来た時よりも輝いて見えた。
帰り際に俺の首元の包帯をツイっと撫でて唇を寄せたことに変な声を出してしまったが、彼は気を悪くするでもなく瞳を細めて頷いた。心臓とまるかと思った。
「なんか、マイキー様…機嫌がいい?」
「だな、お前のおかげだ」
「商談もうまくいくとイイな」
「商談?鶴蝶様、ココ様…これからお仕事なんですか?」
もう夜なのに…という俺の言葉に鶴蝶様とココ様は少し顔を見合わせて「まあな」と頷いた。その表情には疲労が見て取れて、俺はそっとポケットから取り出したものを彼らの掌に持たせる
「?これは…飴?」
「はい。俺のおすすめですよ!2個しかないので皆さんには内緒です」
高いものじゃないですけど…いらなかったら捨ててください。といった俺の言葉に二人はなぜか片手で顔を覆ってしまった。
「…大事に食べるわ」
「久しく触れてなかった人からの気遣い…」
鶴蝶様はぎゅっと俺の手を握ると、ココ様はなぜか札束を俺のポケットに押し込んで鶴蝶様はじーっと手を握ったまま俺の事を見つめていた。丁重に札束をココ様に戻し、鶴蝶様の手を解くと彼らも車に乗り込んだ。
車が出れるように後ろに下がればトサリと何かが背中に当たる
「どけ、ドブ野郎!!」
「ひょわっ!!三途様…申し訳ございません」
俺の肩を乱暴に掴んで、避けさせると大股にマイキー様の乗り込んだ車に乗り込む。最後まで部屋は守られたが、物凄い疲労感を彼からは貰った気がする
乗り込んだ彼に一礼すると、窓が開きそこから三途様が手招いた
それに気づいて近づくと、伸びてきた腕にジャケットを掴まれ車体に体を打ち付けた。
(…いった!)
「ドブ、喜べ。俺が直々にまた遊んでやるよ…その前に精々くたばんねーことだな」
そういうと三途様は視線を落として俺の首を見つめる。しかし、程なくしてポイっと俺を投げ捨てる様に服から手を離した。
少しよろけた俺の体を甘い香りが包み込む。この香りは…
「蘭様…」
「今日は一段と楽しませてもらったぜ…今度は俺にも食べさせてくれよ♡」
またな、と俺の唇をスイっと指でなぞると、長い脚をゆったり進めて車に乗り込む。それに続くように蘭様の離れた俺の体を竜胆様が受け止め腰をだいて指を絡めてきた。
「竜胆様、手は…」
「もう平気だ。今度は理由がなくても俺に奉仕しろよ?」
低い声にぞわりと背中を何かが駆ける。固まった俺に満足した表情をした竜胆様はさらりと髪をゆらして蘭様の乗った車に乗り込んだ。
今日も濃い一日が終わった。皆様の乗り込んだ車が見えなくなるまで、俺は背筋を伸ばして頭を下げる。
マイキー様の表情、三途様の言葉、ココ様の目、鶴蝶様の手、蘭様の香り、竜胆様の声…
イケメン供給過多すぎた。女じゃなくて本当に良かった。思わず課金しそうになったわ…そんな金ないけど…。
室内に戻ってバックヤードで一人、収まらない動悸を鎮める様に静かに目を閉じると遠くの方から見知った声が聞こえてきた。
「ミチ君、オーナーが呼んでいます」
よほど急いでいたのか…息を切らせて走ってきたナオは、俺の傍まで寄ってくるといぶかし気に眉を顰めて顔を覗き込む。キョロリとあたりに人がいないことを確認すると、俺の傍にきてそっと耳打ちをした。
「…大丈夫ですか?武道君」
「大丈夫。ありがとう、直人」
俺の言葉にホッとしたように息を吐いた彼の頭をそっと撫でる。いつもは子ども扱いしないでください!と突っぱねられるのに今日はなぜか従順で綺麗な黒髪を梳いてやる。
それに気をよくして、艶やかで癖のない髪を堪能していると直人は撫ですぎです、と俺の手を引いてオーナーの部屋まで連れて行こうとぐいぐい引っ張る。
「わ、わかったよ!!行くから!痛てて!!さっきも腕掴まれて負傷してんだよ!!」
「知りませんよ。首掴んでないんですから騒がないでください」
首掴むってなんだよ!?と騒ぐ俺を無視しているあたり彼もめんどくさがっているのだろう。
それにしても、またオーナーからの呼び出しか…嫌な予感しかしないが、俺は重い脚を引きずりながら鋭い視線を向ける後輩の後に続いた。
この時俺はココ様からの預かりものが、一枚で俺の借金&今までの破損品分の額を返してもおつりが返ってくるような小切手で、そうだと知らずに無造作に自分でポケットに放り込んでいることなんて知る由もなかった。