地下牢の湿気が、サリエルの肺を締め付ける。
鎖の軋みが耳障りに響き、冷たい石壁の匂いが鼻腔を刺す。
檻のすぐ向こう、石壁越しに二人の天使の囁きが漏れ聞こえる。
「…大天使ミカリス、だそうだ。」
鎖の擦れる音。サリエルは伏せた顔のまま、耳を澄ます。
「処刑を急がせたのも…あの天使の処分を決めたのも、全部あの方の判断らしい。」
「…アゼリアのことだろうか。」
互いに確信はないままの噂。
「彼は…優秀すぎたんだろうな。」
「それで、セリスが巻き込まれたって話だ。」
生々しい雑談の中に、同情と困惑の影。
だが、サリエルにはその声の奥にある現実が、冷たく突き刺さった。
突然、石壁の向こうで、何かが途切れる。
声でも悲鳴でもない、”ただ命が断ち切られる気配”だけが、空気を震わせる。
次の瞬間、湿った音が連なり、何かが床に崩れ落ちる。血の匂いが石の隙間を越えて漂った。
サリエルは恐怖で体が動かなかった。
ためらいもなく近づく足音。低く澄んだ声が檻を震わせる。
「聞かれては困る話だったね。」
その声を、サリエルは知っていた。世界そのものが逆らうことを許さぬ声。
背筋に凍りつく恐怖が走り、鎖を握る手の震えが止まらない。
「…大天使ミカリス」
返ってきた声は静かだが、全身を切り裂く冷徹さだった。
「理解が早くて助かる。沈黙を守れぬ者は、不要だろう?」
問いではない。断定。
サリエルは笑いを装い、声を震わせながらも、反撃の火花を心に灯す。
「セリスの件だが…」
鎖を握る手が軋む。
湿った床を這う音、血の匂い。檻の空間に絶望が沈み込む。
「私は、アゼリアが必要だった。手元に置くには、余計な絆を断つしかなかった。彼は優秀すぎた。セリスは近すぎた。だから消した。それだけだ。」
口元の笑み。
だが目は無感情で、氷のように冷たい。
サリエルは全身でその殺意を感じ、体が震える。
それでも彼は声を返す。
「ふん…確かに、そうやって“駒”を裁くのは、ずる賢い天使様らしいですね。そうやって、あなたの野望を叶えるつもりで?」
震える声の奥で、微かな反撃の火花。
ミカリスは口元に笑みを浮かべ、目はさらに冷たく光る。
「野望、か。言葉が大きすぎるな。世界を“正しく保つ”ための準備だよ。詳細を知る必要はない。知れば、君もあの天使たちと同じ末路を辿る。」
檻の向こうの空気がねじれる。
恐怖で震える手首が、鎖を握る力を余計に強める。
「だが、忘れるな。私は、悪魔が嫌いだ。」
笑みは変わらず、目に殺意が宿る。
全ての可能性を潰す光を放ち、サリエルは震えながらも平静を装う。
体は凍りつき、呼吸は荒い。
だが反撃の意志は、心の奥に微かに残っている。
「君は賢い。だから今は何も聞かず、何も語らないだろう。 鎖に繋がれたままでいればいい。君が動く時は、こちらが決める。」
足音が遠ざかり、冷たい笑みと血の匂いだけが残った。
サリエルは鎖に縛られたまま、恐怖と憤怒を同時に押し込める。
少年は優秀すぎた。
セリスは、彼のために命を落とした。
次に自分が試される恐怖だけが、鮮明に刻まれる。
「…選ばれた、というわけか。」
誰にも届かぬ声で呟く。
その頃、礼拝堂を後にした少年は、まだ知らなかった。
目の前の光の中で、自分が救おうとしている存在が、すでに運命の駒として組み込まれ、血が未来を試す刃になることを、まだ。






