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翌日、私はいつも通り、副社長のもとへ行く前に秘書課へ寄った。
「おはよう。水川さん」
「おはようございます」
社長秘書である千堂主任と、秘書室長である牧室長に挨拶をすると、二人も軽く頷いて返してくれる。
そんな私に、少し申し訳なさそうな表情で千堂主任が声をかけた。
「今日の役員会なんだけど、社長のご都合で15時に変更したいんだけど、可能かな?」
私は小さく頷きながら、タブレットでスケジュールを確認する。
15時ならなんとか調整できそうだったので、千堂主任に視線を向けた。
「大丈夫です。調整いたします」
「頼むよ」
その言葉に、牧室長もほっとした表情を浮かべた。
「それにしても……今日の役員会は荒れそうだ」
ため息交じりに言った千堂主任の言葉に、私も胸の奥が重たくなるのを感じる。
「そうですね。常務がなんとおっしゃるか……」
そう答えながらも、私の声には力がなく、自然とため息がこぼれた。
木下純也常務は45歳。ずっと社長の右腕として働いてきた人だ。
社内では次期副社長候補として名前も挙がっていたが、アメリカから帰国してすぐに社長の息子である誠が副社長に就任したことを、どうやら快く思っていないらしい。
もちろん、そばで働いている私からすれば、誠は能力も実績も十分であり、「七光り」などではないことはよくわかっている。
しかし、長年尽力してきた木下常務からすれば、それを納得するのは難しいのだろう。
ため息をこらえながら、「失礼します」と挨拶をして秘書課を後にした。
手早く掃除を終えると、先ほど依頼されたスケジュール変更のため、各方面へ連絡を入れる。
以前ならば誠に確認してから行っていたが、早い方がいいと判断した。
「おはよう」
自席で電話をしていた私の目の前に、いつも通り完璧なスーツ姿の誠が現れる。
私が電話中だと気づいたのか、誠は軽く微笑むと、何も言わずにそのまま部屋を出て行った。
電話を終えると、私はタブレットを持ち、副社長室へと足を運ぶ。
「おはようございます」
平静を装って挨拶すると、誠がくすりと笑ったのがわかった。
それでも私は表情を変えず、話を続ける。
「今日ですが、社長のご都合で役員会を15時に変更してほしいとのことです」
端的に述べると、誠は手元のスマホを操作しようとした。
「なので、午前の予定を夕方に変更しました。よろしいですか?」
私は淡々と話を進める。
昨日のことなど微塵も気にしていない――そんな態度を装えていただろうか。
自分自身に問いかけながら、誠の反応をうかがう。
誠は、驚いたような表情を見せた。
「各所の手配は?」
「終わっております」
タブレットから顔を上げずに答えた私だったが、その瞬間、誠がふっと笑ったのがわかった。
「ありがとう」
短いその言葉に、私の胸が少しだけ揺れるのを感じた。
しかし、表情には何も出さずに静かに頷いた。
きっと誠も、いろいろと言いたいことがあるのだろう。
けれど、私たちはお互い余計なことは一切口にしなかった。
「それより副社長、今日の役員会ですが……」
秘密がどう思われようと、今は仕事だ。
常務のことがどこか引っかかっていた私は、誠に視線を向けた。
「常務? のこと?」
「はい。最近、いろいろと気になることがありまして」
この間の経理報告や、廊下ですれ違った時の笑顔――何か不穏な空気を感じる。
「そうだな。木下常務が俺をよく思っていないのは知っている。そして、俺を失脚させるためにネタを探していることもな」
デスクの上で手を組みながら、誠は小さくため息をついた。
その顔には、わずかな疲労と警戒が見える。
「とりあえず、今日の役員会で彼の出方を見極めるしかないな」
誠のその言葉に、私も小さく頷く。
胸の奥でかすかな緊張が走るが、それを表に出すわけにはいかない。
15時前に役員会に向かった誠だったが、私の予想に反して、驚くほど早く戻ってきた。
不信任だの、誠を認められないだの、もっと揉めて時間がかかるだろうと思っていた私にとって、その速さは拍子抜けするほどだった。
どうやら、それは誠自身も同じだったようだ。
「なんだか気持ちが悪い。何も言わなさすぎる。ただニコニコしているだけだった」
戻ってきた誠の第一声に、私も同じように感じていた。
「そうですか……」
控えめに答えながらも、私は思考を巡らせる。
「食えない人だよ」
ため息交じりに言う誠の表情は険しい。
そんな誠を見て、私は少し勇気を出して呼びかけた。
「副社長、あの……」
「何?」
誠の問いかけに、一瞬戸惑うも、私は心を決めて口を開いた。
「最近、副社長のクライアントで、無理難題を言ってきたり、何かお気づきになったことはありませんか? 契約を解除したいとか、システムに文句をつけたりとか」
私の問いに、誠は一瞬驚いたような表情を見せた後、考え込むように動きを止めた。
「おかしいと言えば……松田商事だな。システムが最近おかしい、何か問題があるんじゃないかと連絡が来た。長年何の問題もなかったのに、いきなりどうしたんだろうと思ったところだ」
「松田商事はかなり重要で、大口のクライアントですね。それでどうされたんですか?」
私の問いに、誠は難しい顔をしながら小さくため息をつき、言葉を続けた。
「システム課に依頼を出して、今は報告を待っているところだ」
静まり返った部屋の中で、視線が交差する。
「副社長、常務から上がってきた経理報告書と、松田商事との取引内容を見せていただくことは可能でしょうか?」
以前は、ただ右から左へと書類を処理していただけだった。
しかし、この間感じた違和感には、何か大きな意味がある気がしてならない。
そんな思いを込めて、私は誠に頭を下げた。
「水川さん、頭を上げて。君がそう言うってことは、何か感じるものがあるんだろう?」
「はい」
小さく頷くと、誠はすぐにパソコンを起動させた。
「データの送信よりも……こっちか」
そう呟きながら、誠は手早くUSBに情報を移しているようだった。
「これ、その他のクライアントの情報も財務状況もすべて入ってる」
その言葉に、私は息を飲んだ。
まさか、そこまでの情報を見せてもらえるとは思っていなかった。
「いいんですか?」
静かに問いかける私に、誠はまっすぐな視線を向けてくる。
「信用してる」
その短い言葉が、胸にじんわりと響いた。
私はゆっくりと歩み寄り、そのUSBを両手で受け取る。
「パスワードは後で暗号化して送るから」
「わかりました」
握りしめたUSBが、少しだけ手の温もりを伝えるような気がした。
「失礼します」
静かに言葉を告げ、私はくるりと踵を返し、自席に戻ろうとした――その時。
「莉乃」
え? 今、莉乃って呼んだ?
反射的に振り返った私の目に飛び込んできたのは、いつもの作り笑いではない誠の顔だった。
「お前、まだ俺に何か隠してるの?」
頬杖をつきながら問いかける誠の声は、どこか軽やかで、それでいて心の奥を探るようだった。
その問いに、私は思わずくすりと笑みを浮かべる。
「さあ? どう思います?」
軽くかわすつもりで返した言葉だったが、誠はほんの少しだけ口元を緩め、こう続けた。
「これから教えて」
その声に、なぜかほんのりとした色気を感じてしまい、私は慌ててドアノブに手をかけた。
――もう、勝てる気がしない。
心臓が早鐘を打つ中、顔が熱くなるのを感じ、手で頬を仰ぎながら気持ちを落ち着けようとした。
けれど今は仕事。そう自分に言い聞かせて、私は気を引き締めて自席に向かった。
その後、意外なことに穏やかな日々が続いていた。
嵐の前の静けさなのだろうか――そう思うと、不気味な気さえしてくる。
「水川さん、行くよ」
誠の声に、私はハッとして資料を手に取り、彼の後を追った。
あの日以来、私はもっと仕事を学びたいと誠にお願いをし、商談や会議に同行するようになった。
そこで気づいたのは――やっぱり誠はモテる、ということ。
誠から声をかけることはほとんどないのに、どこに行っても向こうから声がかかる。
それに対して、誠はいつもの嘘っぽい笑顔を向けるだけ。
「どうしてその笑顔なんだろう? また犠牲者が出たよね……」
そんなことを帰りの車で考えていたとき、会社に戻りエントランスに入ると、前方から夏川さんが歩いてくるのが見えた。
彼女もまた、副社長に好意を寄せている一人――そんなことを思い出す。
「副社長、お疲れ様です」
自信にあふれた夏川さんと誠が並ぶと、その光景には圧倒されるものがあった。
周囲からも「お似合いだね」「夏川さんの方が秘書みたい」などとささやく声が聞こえてくる。
私は二人から少し距離を取り、エレベーターが来るのを静かに待っていた。
すると、誠と何かを話していた夏川さんが、こちらに向かって歩いてくるのが分かった。
その動きに少しだけ身構える。
「どうしてあなたが秘書なのよ」
あからさまに放たれたその言葉に、内心では驚きつつも、私は曖昧な笑顔を浮かべた。
遅れてやってきた誠は、そんな私を見て少し心配そうな瞳を向けた。
「行きましょう」
静かにそう言う誠に続きながら、私は内心で小さく呟く。
――あなたのその態度が原因なんですよ。
そんな恨み言を胸に抱えつつ、私は誠から視線を外した。
今までずっと、定時に帰ることだけを目標にしてきた。
だが、自ら誠の仕事に同行したいと頼み込んでからの二週間――どれだけ一人で誠が多忙を極めていたのか、初めて実感した。
最近では、定時に帰ることも難しくなりつつある。
「水川さん、もういい加減に終われよ?」
心配そうな声が聞こえ、顔を上げると、誠が部屋に入ってきていた。
集中していた私はハッとして時計を確認する。いつの間にか21時半を回っていて、さすがに帰らなければと資料に手を止めた。
「すみません」
「謝ることなんてないけど、大丈夫か?」
誠は、私が早く帰りたい理由を知らないが、何か事情があることは察しているのだろう。
少し返事が遅れた私に、彼が歩み寄る気配がした。
「送って行くついでに飯でも食べようか?」
「え?」
突然の誘いに驚いて聞き返すと、誠は罰の悪そうに肩をすくめた。
「というか、付き合って。俺、今日おにぎり一個しか食べてない」
「またですか?」
その言葉に、毎日昼食を取るようにと注意していたことを思い出し、私は誠を軽く睨んだ。
「だから行こう」
柔らかな笑みを浮かべる誠に、私はふと自分の格好を確認する。
サイズの合っていないスーツに、きつく結んだ髪――こんな姿で、この人の隣にいていいのだろうか。
「私、こんな格好ですよ?」
「いいよ。別に何か問題あるの?」
「副社長が行くようなお店に入れるのか……」
そこまで言うと、誠は盛大に笑い出した。
「俺の食生活、知ってるだろ? そんなおしゃれなところには行かないよ」
まだ笑いを含ませた声で誠は続けた。
「うまい和食の店がある。時間も遅いし、パッと食べられる定食屋みたいなところ。それならいい?」
その言葉に、私もつい笑みが零れる。
いつもは作り笑いが多い誠だが、こうして自然な表情を見せる彼に、少しだけ親しみを感じた。
「はい、それであれば」
私は急いで荷物をまとめ、帰り支度をする。
さすがにこれではと、ひっ詰めていた髪を解き、手櫛で整えメガネを外した。
「別にいいのに」
そんな私に、誠は本当にそう思っているような表情で言葉を発する。
「そんなに変わらないですか?」
なぜか少しムッとしてしまい、私は誠を見上げた。
こういうところが子供っぽいのよ――小さくため息が落ちる。
「違うよ。秘書の水川さんも、莉乃も同じ人間だろ。俺はどっちでもいいってこと」
さらりと言われた誠の言葉が、とても嬉しかった。
「ありがとうございます」
素直に言葉を返した私に、誠はふざけたように私を見る。
「莉乃になると、俺がドキドキするからな」
「誰にでもそういうこと言ってますよね。いつも」
普段の誠を思い出して、私は呆れたように呟く。
「バレた?」
楽しげに笑う誠に、私もつい気が緩んでしまう。
私はもう、二度と恋愛はしないと決めている。
誠にも彼女や女性関係がたくさんある。
だからこの、今の優しい関係がいい。
ここから先には、絶対に進まない。
そう思いながら、私は誠と一緒に会社のビルを後にした。