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誠についていくと、そこは路地裏の小さな和食屋のようだった。
「こんな場所に和食屋さんがあるなんて知らなかった」
私が少し驚いて呟いた言葉に、誠は小さく頷く。
「あまり知られていないけど、うまいよ」
会社の近くのことは意外と知っているつもりだったが、まだまだ知らないことも多いのだと気づかされた。
暖簾をくぐると、広くはない店内だが、清潔感があり落ち着いた雰囲気の素敵なお店だった。
時間も遅いせいか、待つことなく店内のカウンターへと案内される。
「何にする?」
お品書きを見ながら、誠は私に視線を向けた。
一品料理も多くあったが、お膳メニューも豊富で、どれにしようか迷ってしまう。
「副社長はどうされますか?」
伺うように聞いた私に、誠は少し悩んだあと、お品書きを指さした。
「これにしようかな」
それは夜のお膳で、ご飯、みそ汁、先付とメインがセットになったものだった。
メインは本日の焼き魚、煮魚、肉から選べるようで、とてもおいしそうだ。
「私も同じものにします。副社長の健康にもよさそうですね」
私のその言葉に、誠は苦笑しつつ、慣れた様子でカウンターの中の料理人さんに注文し、お茶に手を伸ばした。
「俺だっておいしいものは好きだよ。ただ面倒くさいのが勝つだけで……」
「普通の人は、食欲が勝ちますよ」
くすっと笑った私に、誠は肩をすくめた。
出された料理は本格的で、とてもおいしかった。
「美味しい」
思わずそんな声がこぼれる。
「今日は一食はまともな物を食べたから良しだな」
その言葉に、私は小さく息を吐く。
「一食じゃダメですよ。きちんと食べる時間はありましたよね?」
「いや、食べたよ」
少し罰の悪そうな誠を、私はじっと見つめた。
「何を?」
「コンビニのおにぎり」
やっぱり……。
そんなことだと思った私は、心の中でため息をつくと、デザートのメロンを口に入れた。
「さあ、行こうか」
「はい」
会計は当たり前のように誠が有無を言わさず済ませてしまい、私は財布をカバンにしまいながらお礼を伝えた。
「じゃあ、駅は向こうなので、ここで失礼します。それと、ごちそうさまでした」
小さく頭を下げた私に、誠が驚いたように私を見た。
「何を言ってるんだよ。送ってく」
「え? でも……」
仕事で疲れているだろう誠に迷惑をかけるのも悪いと、私は言葉を濁した。
「いいから。行くぞ」
少し強引な言い方の誠だったが、私はその好意をありがたく受け取った。
会社の駐車場に止めてあった誠の車に乗り込むと、私は何を話すべきかわからず、窓の外に視線を向けた。
仕事でもプライベートでもないこの近い距離は、やはり少し戸惑ってしまう。
そんな空気を感じているのは私だけだろうが、どうにも落ち着かず、私は口を開いた。
「あの、副社長」
「ん?」
特に表情を変えることなく前を向いたまま答えた誠に、私は言葉を続けた。
「あの、この間いただいた資料、自宅のパソコンで確認しても大丈夫ですか?」
「え?」
その問いの意味がわからないのだろう、誠はちらりと私を見た。
「ソフトを会社のパソコンに入れるほどの確証がないのですが、どうしてもあの資料を見直したくて」
私の答えに、誠は少し思案する表情を見せたあと、言葉を発した。
「自宅では残業代も何もつけてやれないし……」
「そんなことは大丈夫です。ただ、持ち出しはやはり許可を取らないといけないと思って」
そこで信号が赤になり、車がゆっくりと停車する。誠は今度ははっきりと私を見た。
「専務の件、気になることが?」
「はい」
確証はないが、やはり気になってしまう。
「わかった。ただ、あの資料はかなり重要な書類になる。水川さんの自宅のパソコンのセキュリティに問題がないか確認させてもらわないことには……。いや、たぶん、通常のパソコンではセキュリティが足りないと思う」
確かに、私のパソコンは量販店で買った一般的なものだ。
その後にいろいろソフトは追加しているが、セキュリティを強化した記憶はない。
「そうですよね……」
考え込んだ私に、誠は困ったような表情を浮かべた。
「確認するには、俺が莉乃の家に行くことになる」
あえてここでどうして名前で呼んだのかは、全く分からなかったが――なぜか胸の音が煩いほどにドキドキしていた。
しかし、私の性分もあり、どうしても気になることをクリアにしたいという欲求が勝ってしまう。
「見てもらってもいいですか?」
「それは構わないが……」
明らかに少し戸惑った様子を見せた誠に、私はハッとする。
いきなり「家に来てください」と言っているようなものだ。
誠だって戸惑うに決まっている。
けれど、女の人の家に行き慣れているであろう誠にとって、私の家に来ることなど気にしないはず――そう思い直す。
「よろしくお願いします」
もう今さら引く方が、何かを“意識している”と思われそうで、それが嫌だった私は、そう言葉を続けた。
「わかった。今日はもう遅いし、明後日の金曜日なら予定はなかったよな?」
私はスマホをタップしてスケジュールを確認する。
「金曜日なら大丈夫です」
その言葉と同時に、私のマンションの前に車が停まったことに気づく。
「遠くまでありがとうございました」
慌ててドアノブに手をかけながら、私は誠に頭を下げた。
「気にするな。遅くまでありがとう」
柔らかな笑顔の誠に、私も自然と笑みがこぼれる。
「おやすみなさい」
なぜか少しだけ緊張してしまい、小さくなってしまった自分の声に驚きつつ、私は車を降りた。
「おやすみ。また明日」
誠のその言葉を聞き終えると、私はエントランスへと足を踏み入れた。
部屋に戻ると、小さく息を吐く。
常務のことが気になっていたとはいえ、自らの家に誠を誘うようなことを言ってしまった。
あのときの誠の、驚いたような、戸惑ったような顔が思い出される。
「軽率だったよね……」
そう小さく呟きながら、私はシャワーへと向かい、頭から熱いお湯を浴びた。
今さら気にしても、言ってしまったことは仕方がない。
それに、なにもやましいことはないのだから。
リビングに戻ると、髪をタオルで拭きながら赤ワインをグラスに注ぎ、パソコンの電源を入れる。
――NY、ダウ、買いかな……。
キーボードに指を滑らせながら、チャートに目を向ける。
私の専門分野は経営学だ。
学生時代から本格的に学び、資産運用も行っていることもあり、今ではそれなりに精通していると思う。
だから、経理関係は得意な方だ。
だからこそ、あの常務には――絶対に裏がある気がしてならなかった。
いつも通り、世界の市場状況を確認しつつ、自分の勉強に没頭していた。
ふと時計を見ると、深夜0時を回っていた。
ベッドに入ると、いつもはなかなか寝つけない私だったが、今夜はスッと眠気が襲ってきた。
そのまま私は、深い眠りに落ちていった。
約束の金曜日、私は少し落ち着かない気持ちで定時を迎えた。
「水川さん、一緒に出る? 俺、先方の連絡待ちでもう少し時間がかかる」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、誠はいつもと変わらない様子で私に問いかける。
時間もまだ早く、社内には夏川さんをはじめ、社員もたくさんいるはずだ。一緒に帰るところを見られれば、またいろいろ言われるのは容易に想像ができる。
「まだ早いので、先に帰っています」
私の言葉に、誠は小さく頷くと自分の腕時計に視線を向けた。
「また連絡するよ」
「はい」
仕事以外の約束に、少し気恥ずかしい思いで返事をした後、私は会社を後にした。
電車に揺られて家に着くと、さすがにいつも通りシャワーを浴びるわけにもいかないし、仕事のときのスーツのままというわけにもいかない。
悩んだ末、ジーンズに黒のニットというラフな服を選び、簡単に化粧をして髪を緩く上げた。
誠が家に来るからと気合を入れたと思われるのは本意ではないが、あまりみっともない自分も見せたくない。
そんな気持ちが交錯するも、私は気持ちを切り替えるとエプロンを手にした。
冷蔵庫の中には、昨日から下ごしらえしてある夕飯が入っている。
仕事終わりに家に来るということは、もちろん食事をしているはずはない。
しかし、仕事で来るのに、食事をふるまっていいのか――そんなことも考えてしまったが、一応準備だけと、作れるものは作ってあった。
まともに食事をすることのない誠の健康管理という仕事、そう自分に言い聞かせる。
メニューもいろいろ悩んだが、こないだ美味しい和食を食べたし、あれほどの味は家庭では出せない。それに、ある程度仕込んでおけるという理由で洋食にした。
好き嫌いもわからなかったため、初めて会った日に行ったBARで食べていたカプレーゼとサーモンのマリネ。そして、あまり嫌いな人がいなさそうなビーフシチュー。
トマトとチーズを切って、カプレーゼも綺麗に出来上がった。
しかし、テーブルに準備をしてしまうと、いかにも「用意してました、食べていってください」と見える気がして、私は小さく息を吐くと、それらを冷蔵庫の中にしまった。
そこで、メッセージが来たことを知らせる音が鳴り、ビクリとしてスマホを手に取った。
【あと15分ぐらいで着くけど大丈夫?】
そのメッセージに、ドキンと胸が音を立てる。この家に男の人が来ることなど初めてだ。
問題ないことと、来客用の駐車場などの詳細を一緒に送ると、私はスマホをテーブルに置いた。
時間通りインターフォンが鳴り、誠が来たことがわかった。
「すみません、わざわざ来ていただいて」
会社と変わらない格好の誠がそこにいて、私は謝罪しつつ頭を下げた。
「いや、こちらこそ悪いな」
申し訳なさそうな表情の誠を中へと促す。
「どうぞ入ってください」
私の言葉に誠は少し考えるような表情をしたように見えた。
やっぱり迷惑だっただろうか……そんな気持ちが広がる。
しかし、誠はすぐに笑顔を見せると「お邪魔します」と家の中へと足を踏み入れた。
「それにしても、すごいセキュリティのマンションだな」
廊下を歩きながら言う誠の言葉は当然だろう。コンシェルジュからセキュリティカードを受け取らないと入れない上に、二回もエレベーターを乗り換えなければならない。
「入るだけで手間をかけさせてしまって、すみません」
申し訳なくて頭を下げた私に、誠は笑顔を浮かべた。
「いや、驚いただけだから」
その言葉にホッとして、私は誠をリビングへと促す。
私の家のリビングは白と木を基調とした、柔らかな雰囲気にしてあるつもりだ。
なるべくリラックスできる空間にしたかった。
その部屋に誠がいることが、なぜか不思議な気持ちだった。
「莉乃らしい部屋だな」
「そうですか?」
問い返した私に、誠はじっと私に視線を向ける。
「髪型も仕事のときとも、この間出かけたときとも違うし、いろんな顔があるな」
そう言いながら部屋を見渡す誠に、私はなんと答えていいかわからず口ごもった。
「それにしても、莉乃……お前、お嬢様?」
「え?」
意外な言葉に、私は意味がわからず誠を仰ぎ見た。
まだ立ったまま私の部屋を見ていた誠は、窓の外から見える夜景に目を向けた。
「だって、こんなすごいマンション、うちの給料じゃ絶対無理だろ?」
少しふざけたように言った誠に、私の気持ちもふっと軽くなる。
「副社長が言わないでください。お給料、上げてくれます?」
ちらりと誠を見て言い返すと、私は誠が脱ぎかけたスーツの上着を預かり、クローゼットへとかけた。
「莉乃……」
誠は少し何か言いたそうな表情を見せたが、すぐにいつもの仕事の顔を見せた。
「はい?」
「パソコンは?」
その前の、何か言いたげな表情が気になりつつも、私は気を引き締めると書斎へと誠を案内する。
リビングの一角に戸で仕切られた書斎のようなスペース。
その戸を開ければ、本やデスクトップのパソコン、ノートパソコン、それらが並んでいる。
「すごいな……」
それを見た誠が、驚いたように声を発した。特に私は返事をせずにパソコンを起動する。
「お願いします」
誠は頷くと、慣れた手つきでパソコンを操作する。
「莉乃……お前って……」
言われるとは思っていたが、明らかに驚いた表情の誠に、私は説明するように言葉を発した。
「私の専門なんです。資格もそれなりに持ってるんですよ」
苦笑して言った私に、誠は操作する手を止めた。
「どうして仕事のときに言わなかった?」
「申し訳ありません」
仕事に使える知識にもかかわらず、今まで話してこなかったことは職務怠慢だろう。
謝った私に、慌てたような声が聞こえた。
「違う、責めてない。悪い。ただ純粋に、どうしてだろうって……」
本当に怒っているわけではなさそうな誠に、私はキュッと唇を噛んだ。
「あの頃は本当にいろいろあって、目立ちたくなかったんです。もっと副社長をお手伝いするべきだったのに……」
小さく頭を下げた私に、誠の柔らかな声が聞こえた。
「そうか。じゃあ、これからは頼むな」
私が顔を上げると、誠は優しく微笑んでいた。もしかしたら「何かあったのか?」と過去を聞かれるかもしれないと思ったが、誠は何事もなかったようにそれだけを口にした。
きっと心の中では何か思っているに決まっている。それでも今、何も聞かずにいてくれることが、私は嬉しかった。
聞かれたとしても、うまく話せる自信はない。
私は心の中で呼吸を整えると、話を変えるように明るく声を発した。
「私はお嬢なんかじゃないですよ。資産運用でこのマンションは買ったんです」
「え! 買った?」
驚いたようにパソコンから顔を上げた誠に、私はふふっと笑った。
「少しは見直しました?」
誠はまだ驚いたように唖然として私を見ていたが、我に返ったように小さくつぶやいた。
「予想を遥かに超えていくな」
そのままいつもの仕事モードに戻った誠だったが、少しして手を止めた。
「これだけ専門的なものも入ってるなら、もう少しセキュリティは強化した方がいい」
「そうですよね。自分の専門外は疎くて……」
申し訳なさそうに伝えた私に、誠は少し考えるような表情をした。
「市販のものより、俺がきちんとしたものを入れたいんだ。そうすれば会社との共有も可能だ」
「はい?」
その意味が分からず、私はきょとんとして誠を仰ぎ見ると問いかけた。
「だから、もう一度ここに来なければいけないってこと」
その言葉に、またもや誠に迷惑をかけてしまうことに気づく。
「そうなんですね。ごめんなさい! またお手数をかけてしまうってことですよね」
慌てて言った私に、誠はかなり大きなため息をつく。
「いや、そういうことじゃなくて……」
その意味は分からなかったが、私は自分で言い出したことがかなり大掛かりなことになってしまったと反省する。
「本当にごめんなさい……」
小さくつぶやいた私に、今度は誠が慌てたように言葉を発した。
「違う、俺は迷惑なんかじゃない。また俺がここに来てもいいのかってこと」
「え? それはもちろんいいですが……」
予想外のセリフに私は顔を上げると、誠をじっと見た。
特に迷惑そうにも見えない誠に、私はホッとする。
「莉乃、お前さ……いや、なんでもない」
何かを言おうとした誠に、私は気になって問いかける。
「途中でやめないでください。気になります」
少し怒ったように言った私に、誠はもう笑うだけで、何も言ってはくれなかった。