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「まさかこんなことが現実にあるなんて……」
「いや、ありえない。何かの間違いじゃ……」
「信じられないよ。絶対におかしいって……」
ブツブツ。ブツブツ。
壁の一点を見つめ、独り言を繰り返すのは幾ヶ瀬である。
アリエナイ、アリエナイ……と呟きながら、かれこれ数十分が経ったろうか。
「何やってんの、いくせー」
幾ヶ瀬の葛藤をよそに、相変わらずノンキな声は有夏のものだ。
足元から聞こえてくるのは、当の有夏が床に転がっているせいである。
分厚い雑誌を左手に、右手だけをプラプラ振ってみせた。
「ノドかわいた。のーみーもーのー」
例によって、である。
これはナマケモノ以外の何者でもない。
そんな有夏を見下ろす幾ヶ瀬のじっとりした視線。
「俺の唾液で良ければ飲む?」
「のむのむ。ゴクゴクって……そんなん飲むか―――ッ!!」
跳ね起きて叫んだ有夏。
まさかのノリツッコミに、自分ひとりで爆笑していた。
初歩的なギャグに笑う気にはなれないのか、幾ヶ瀬はその場で肩を落とす。
「はぁぁ……いつもの有夏だ……」
深い溜め息とともにキッチンへ向かうと、ヤカンを持ってきた。
今朝沸かしたお茶は、ほどよい具合に冷めている。
コップに注いでやると、有夏は一気にゴクゴクと飲み干した。
「プッハー! この一杯のために生きてらぁ!」
聞きなれぬそのセリフは、きっと今読んでいるマンガの影響に違いない。
エナジーがどうとか回復量がどうとか、したり顔で呟いたあとのこと。
ようやく幾ヶ瀬の様子に気付いたか、怪訝そうに顔をしかめた。
「どした? また心霊現象にでも悩んでんのかよ」
「またって何? そんなにしょっちゅう心霊現象に悩まされたりしちゃたまらないよ。てか、35話だって別に霊は関係なかったわけだし」
「35話?」
小首を傾げる有夏に向かって「ああ、またこの謎の時間軸が」と叫ぶ件(くだり)はいつものことである。
しかし何かが違うことに気付いたのだろう。
有夏のしかめっ面が少々険しいものに変じていった。
そう、いつもの幾ヶ瀬とは何かが違う。
圧倒的にツッコミにキレがないのだ。
だからといって心配する様子もないのは相変わらずか。
シレッとした表情で有夏は紙面に視線を落とした。
放っておくと「エナジー切れ」になるまで、またゴロゴロとマンガを読むのだろう。
「あのさぁ、有夏……」
寝転がる有夏の傍らに座り込んだ幾ヶ瀬。
お茶で濡れた唇を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「有夏はいつか……俺から離れてくの?」
「は?」
あまりに唐突な言葉に、有夏が雑誌から顔を上げる。
大きな目を見開いて、ポカンと口を開けて。これは見慣れた間抜け面だ。
「もぅ……何か俺、ツラすぎるんだけど? 有夏がちゃんと大学に行ってたなんて」
「はぁ?」
「引きこもりで学校どころか、人と会話なんてできない有夏なのに……」
「はぁ?」
大概失礼な言い草に、有夏の口元が強張った。
構わず、幾ヶ瀬はブツブツと続ける。
「この1年、ろくに学校に行ってなかったから安心してたのに。なのに先週は二日も大学に行ったっていうじゃない! どうしちゃったの!」
「……どうしちゃったのって幾ヶ瀬のがどうしちゃっただよ」
憤慨する有夏になど目もくれず、幾ヶ瀬は尚も失礼極まりない言葉を吐き続けた。
「もしも有夏が毎日ちゃんと大学に通ったら?」
「もしもたまたま運よく卒業なんてできたら?」
「もしも有夏が(まさかの)就職でもしたら?」
そこまで言うと、幾ヶ瀬の食いしばった歯の隙間から「ヒーーーッ」と変な声が漏れた。
「もしもメス豚共の目に留まってしまったら? い……いや、大丈夫。一言でも喋ろうものなら馬鹿がバレてメス豚は離れていくだろう。いや待って。忘れちゃいけない。有夏はコミュ障なんだよ。喋らないから周りは誤解したままだ」
ふたたび「ヒーーーッ」と叫ぶと、今度は頭を抱えるではないか。
「ヒーーーッ! どうしよう。彼女なんて作ったら!」
さらなる「ヒーーーッ」は四度目か?
「有夏、罪悪感なく二股とかかけそう。馬鹿だから人の気持ちとか考えられなさそう。それは辛すぎる。耐えられない。もう嫌だ。こんな思いをするなら、いっそ今お別れしたほうがマシかもしれない」
「はぁ?」
有夏が雑誌を横に置いた。
この男は突然、何を言い出すんだという表情である。
「やっぱり前回の心霊現象が、お脳に相当なダメージを……」
チラと横目で見やった棚には、例のノートパソコンが置かれている。
あれ以来、布がかかっているのはホコリ避けではあるまい。
ウイルス画像の「怨念女」が「出てこない」ようにするためだろう。
「有夏は姉ちゃんに脅されて、試験だけは受けろって無理やり大学に連れていかれただけなのに……」
大きく溜め息をついた有夏。
おもむろに右手を伸ばした。
「うっ!」
有夏の右腕に胸倉をつかまれ、幾ヶ瀬は呻き声をあげる。
その視界に迫ったのは、きれいに整った有夏の顔であった。
一瞬の後。
鼻がぶつかり、唇が触れる。
「アダッ!」
ガチッと音が鳴り、双方、口を押さえて俯いてしまった。
歯が激突したのだ。
かなりの勢いだったから、ジンジンと激しい痛みに有夏ときたら涙ぐんでいる。
「中学生じゃないんだから……」という幾ヶ瀬の言葉を遮ったのは有夏だ。
「なんで有夏が学校行っただけで別れるとか言うんだよッ!」
拳で涙を拭うと幾ヶ瀬の膝に腰をおとし、おでこを彼の肩に押し付けた。
「ぜったいヤだっ!」
「あ、有夏……?」
幾ヶ瀬の両手は有夏の腰を持つべきかどうか、オロオロと宙をさ迷っている。
「いっしょって言った! ずっと!」
叫ぶ声は、最早震えている。
痛みとは違う感情でうるうると瞳を濡らす、素直な視線が痛くて幾ヶ瀬は咄嗟に顔を伏せた。
「ご、ごめ…有夏……」
「ごめんじゃない! 絶対ヤだし! 別れないしぃ!!」
「だ、だから、ごめ……。有夏? 有夏、落ち着いて」
幾ヶ瀬の言葉も途切れがちだ。
ごめんという声が急に裏返ったものだから、有夏は顔をしかめた。
ようやくその目に怪訝そうな、戸惑いの色が浮かぶ。
幾ヶ瀬の膝に乗って向かい合わせに座ったまま、有夏は表情を曇らせていた。
その腰にようやく腕を回してから、幾ヶ瀬は口元を歪める。
笑いを堪えている顔だと有夏はまだ気付かない。
「だ、だからごめんってば。ちょっと試しに言ってみたら、有夏どうするかなって思ってて……」
「なにが……?」
「ごめんって。てへぺろ」
今日はエイプリルフールだよンと、幾ヶ瀬は舌をペロリと出した。
瞬間。
幾ヶ瀬は頬を張られた。
「イダァッッ!?」
ガチの平手打ちに悲鳴が迸る。
目の前で有夏が大きな目を見開いていた。
頬が見る間に赤く染まり、これは紛うことなき怒りの表情だと悟った幾ヶ瀬はこめかみが引きつるのを自覚する。
「ご、ごめんってば! 冗談だってば! 有夏がこんなに怒ってくれるなんて、俺……ア痛ァぃぃ!」
二度目、三度目の平手打ちに、のけぞる幾ヶ瀬。
その眼前で、有夏はクイッと大げさに首を傾げた。
目を大きく開き、口角はニイッと吊り上がる。
顔立ちが整っているだけに、怖い…。
「怒ってんよ、そりゃ。分かってんなら死ねよ、幾ヶ瀬」
「や、やだよ。死なないよ…。てか、死ぬならその前にもっかいちゃんとキスしよ?」
「はぁ? ヤだよ。歯ァ痛ぇわ……って幾ヶ瀬?」
前歯の痛みが消えたわけではないけれど。
幾ヶ瀬が寄せた唇に、有夏はパクッと食らいついた。
下唇を吸うと、どちらからともなく舌を絡め合う。
漏れる吐息をも呑み込んで口内を侵し合ううち、すべての感情は飛んでいた。
「おやくそく」完