土恵商事社長・土井恵介の自宅は会社からさほど離れていない場所にあった。
二〇階建ての高層マンションの最上階。
窓辺に寄っただけで足がすくんでしまう高さに住む伯父の家が、高所恐怖症の大葉は、子供の頃からあまり得意ではなかった。
「すっごい高いビルですねー」
ほわぁーと吐息を落としながらそびえたつ高層マンションを眺める羽理に、大葉は「新居、こういうところがいいとか言わねぇよな!?」と問わずにはいられない。
「えー? そんな贅沢言いませんよぅ」
「贅沢なのかっ!」
「だってタワマンって上に行けば行くほどお家賃とか高いイメージです!」
大葉にとって苦痛でしかない高層階住まいは、羽理にとっては憧れなのかも知れない。
そう思ってソワソワした大葉だったのだけれど、羽理がどこか照れた顔で、「……けど、私、大葉と一緒ならどこでも最高に幸せです、よ……?」とか言うから、不意打ちを喰らった形になった大葉は羽理以上に照れてしまった。
その上、追い打ちを掛けるみたいに「それに……そもそもマンションじゃ、大葉の希望が叶わないじゃないですか。私、大葉も幸せじゃなきゃ嫌です」などと付け加えてくるとか……。ここが伯父宅のすぐそば――しかも外じゃなかったら、確実に抱きしめていたところだ。
「羽理……」
じぃーんとしながら愛しい彼女の名を呼べば、羽理が唐突に「キュウリちゃんは猫とか苦手でしょうか?」と聞いてくる。
いきなり話が変わって「え?」と思った大葉だったけれど、すぐさまそれが羽理からの〝ちょっとした希望〟だと分かって、羽理の実家で触れたデブ――もといふくよか猫の〝毛皮〟のことを思い出した。
「ウリちゃんが大丈夫そうなら猫も飼うか」
羽理と出会うまでは完全に犬派。猫との暮らしなんて考えられなかったはずの大葉だけれど、案外犬猫両方いる暮らしも悪くないとか思えてしまっていることに自分自身驚いた。
***
「それは……本気なんだな?」
チャイムを鳴らすなり待ち構えていたみたいに恵介伯父に出迎えられた大葉は、自分のすぐ横でカチンコチンに固まっている羽理をちらりと見詰めてそっと彼女の手を握った。
「ええ、本気です。俺は……伯父さんが何と言おうと彼女との関係を公表するつもりです。それに――」
そこまで言って、鞄に忍ばせてきた封書を取り出すと大葉はそれをスッと恵介伯父へ差し出した。
真っ白な封筒の表には、【退職願】と書かれていた。
***
「これは……」
「財務経理課長の倍相岳斗くんのものです」
「――彼、うちの社を辞めたいって言ってきたの?」
大葉と土井社長のやり取りに、それが初耳だった羽理は、思わず「えっ」と声を発していた。
「あ、あのっ、倍相課長、いなくなっちゃうんですか?」
羽理は、今回の人事異動で大葉が総務部長室からいなくなることを、〝いずれ大葉の身内になる身として〟大葉本人から内々に聞かされていた。
『恵介伯父さん――えっと土井社長は……俺を副社長に据えたいらしい』
大葉自身から、『すぐそばで俺に自分の仕事を見せ、実地で学ばせていくつもりなんだろう』と告白された羽理は、その時にもすごく驚かされたしショックを受けたのだ。
もちろん大葉が土井社長と身内だと言うのはすでに知っていた。子供のいない土井社長が、ゆくゆくは我が子のように可愛がっている甥っ子の屋久蓑大葉を自分の跡目に……と考えるのは、それほど突飛なことではないだろうとも思っていた。
でも、それはまだしばらくは先の話――例えば大葉と自分が結婚した後のこと――だと、羽理は勝手に想像していたのだ。
総務部長さまでも十分雲上人なのに、副社長なんかになってしまったら、一介の平社員の……しかも片親の羽理にとって、大葉はますます遠い存在になってしまう。
本来なら大葉の昇進を一緒になって喜ばないといけない立場のくせに、色々考えて、羽理は不安でたまらなくなってしまった。
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