そう思っていた矢先、大葉伝手、土井社長から大葉が羽理とのことを公にしてはいけないと釘を刺されたと聞かされて、一度は本心を飲み込んで社長が言う通り影の女に徹しようとした羽理だったのだけれど、日が経つごとに辛さが増して、結局我慢出来なくなってポロポロと涙をこぼして泣いてしまったのだ。
荒木羽理という人間では、ゆくゆくは土恵商事を背負って立つことになる大葉の横に並ぶのには、ふさわしくないと土井社長から示唆されたのかと思っての涙だったのだけれど、そんな羽理をみて、大葉から慌てたように『それは誤解だ』と即座に不安を否定された。
その言葉に、羽理が『どういう意味?』と小首を傾げれば、実際には羽理を他の女性社員らの嫉妬から守るために必要な措置だと社長から説得されただけだと打ち明けられて、羽理は社長からも大切に思われていることを実感させられた。
そういうのをみんな踏まえた上で、羽理は大葉に『そんな気遣い、必要ありません』と話した。
嫉妬されても跳ね返せるだけの図太さを自分は持っているし、何より羽理の周りには絶対に羽理の味方になってくれる同僚の法忍仁子がいる。
『私、大葉が思ってるよりずっと強いですよ?』
大葉と付き合っていることを隠した状態で、彼が誰かほかの女性たちからアプローチされるのをモヤモヤしながら見つめるしか出来ない方がよっぽどつらい。
そう話したら、大葉も納得してくれたのだ。
結局そのあと土井社長の妹にあたる大葉のお母様――屋久蓑果恵からも、杏子への所業も踏まえたうえで、羽理と大葉のことについて、兄である土井社長に「要らないことをしないの!」と物言いがついたらしい。
大葉と羽理に謝罪するまでは、屋久蓑家――あの立派なご実家の方――への出入り禁止をくらってしまったらしい土井社長から今日彼の家へ呼ばれたのも、きっとそういう諸々に対する謝罪なのだと大葉から聞かされていた羽理だったのだけれど。
羽理の中では『守って頂く必要はありません、私、大丈夫です』と伝えるだけだったはずが、まさか倍相課長の退職の話までセットになって出てくるとは思いもしなかった。
(大葉が同じフロアからいなくなってしまうというだけでもホントは物凄く寂しいのに、倍相課長まで?)
例え大葉はすぐそばにいてくれなくなったとしても、自分には同僚の法忍仁子や、優しい上司の倍相課長がいてくれるから何とか頑張れる。何なら後輩ワンコの五代懇乃介も味方になってくれるだろう。
そう自分の中で必死に折り合いを付けていた羽理としては、倍相岳斗の【退職願】は正に青天の霹靂だった。
***
「倍相くんの気持ちは固いの?」
「はい。何でも別の会社でやらなきゃいけないことが出来たらしいのです」
実際大葉が岳斗からこの書類を預かったのは、杏子が勤め先で酷い目に遭っているのを助けに行くために有給休暇を取りたいと言ってきた日の翌日だった。
思えば、杏子を守るために父親の威光を使わないといけないかもしれないと、力無く笑いながら岳斗は言ったのだ。
〝もしかしたら土恵を裏切ることになるかもしれない〟と。
大葉はそんな岳斗の言葉を否定したのだけれど、岳斗は翌日『やっぱり僕は裏切り者です』とどこか寂しそうに部長室の大葉を訪ねてきた。
『大葉さん、近々異動になるんですよね?』
荷物整理をしているところを見られては否定のしようもなくて黙っていたら、岳斗は肯定と受け止めたらしい。
『そんな時期に僕までとか。背反行為以外の何ものでもありませんよね。本当にすみません。……なるべくこうならないようにしたかったんですけど、やはり無理でした。申し訳ないんですが、折を見て大葉さんから土井社長へ渡していただけますか?』
そう言われて差し出された退職願を、もちろん大葉は跳ね返そうとしたのだけれど、岳斗は頑として意志を曲げようとはしなかった。
コメント
1件