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ゆゆゆゆ
部屋には、紙を擦る音だけが響いていた。
カリ、カリ、と。
スペクターは執務机へ向かったまま、
一度もこちらを見ない。
赤いシルクハット。
黒い手袋。
長い指先でペンを回しながら、
大量の書類へ視線を落としている。
ノスフェラトゥは部屋の中央へ立たされていた。
喉には首輪。
だが今夜、
鎖は繋がれていない。
その代わり。
床へ落ちるスペクターの“影”が、
異様に濃かった。
ゆらり。
まるで生き物みたいに、
黒い影が蠢く。
ノスフェラトゥが眉を寄せた瞬間。
スペクターが淡々と言った。
「今日は忙しいから」
ペン先を止めないまま。
「私の影と遊んでて」
「……は?」
次の瞬間。
影が動いた。
ずるり、と床を這い、
ノスフェラトゥの足首へ巻き付く。
「ッ……!」
冷たい。
なのに、
感触は妙に生々しい。
黒い影はそのまま脚を登ってくる。
まるで細い触手みたいに、
ゆっくり、
執拗に。
ノスフェラトゥは反射的に後ずさろうとした。
だが。
影がさらに増える。
床一面へ広がり、
逃げ道を塞ぐように揺れた。
「スペクター」
低い声。
抗議。
だが。
返事はない。
スペクターはただ、
書類へサインを書き込んでいる。
カリ、カリ。
本当に仕事をしている。
たまに、
ほんの一瞬だけこちらを見て、
また視線を戻すだけ。
その余裕が腹立たしい。
「……っ」
影が腰へ絡みつく。
コートの裾を持ち上げ、
ゆっくり身体の線をなぞる。
ノスフェラトゥの肩が震えた。
触れているのは、
主本人じゃない。
ただの影。
なのに。
そこから伝わる気配は、
間違いなくスペクターだった。
冷静で、
支配的で、
甘やかすみたいに残酷な意志。
影は喉元まで這い上がる。
首輪へ触れ、
カチ、と金具を鳴らした。
「……ッ」
ノスフェラトゥの呼吸が乱れる。
それを聞いて。
スペクターが、ちらりとだけ視線を上げた。
赤い瞳。
一瞬だけ合う。
その目が、
満足そうに細められる。
だが、
それだけ。
またすぐ書類へ戻る。
「……見てるなら、止めろ」
ノスフェラトゥが睨む。
スペクターはペンを走らせたまま、
小さく笑った。
「嫌なら振りほどけば?」
「……」
できない。
本気を出せば、
影くらい断ち切れる。
なのに。
身体が、
それを拒んでいた。
影は知っている。
どこを撫でれば、
ノスフェラトゥが震えるか。
耳の付け根。
喉。
背筋。
全部。
まるでスペクター本人の指みたいに、
正確だった。
「……ぁ」
不意に。
影が後ろから腕を拘束する。
黒い帯みたいに絡みつき、
ゆっくり壁際へ押しつけた。
ノスフェラトゥの呼吸が止まりそうになる。
影はさらに増える。
脚。
腰。
首。
逃げられない程度に、
優しく、
だが確実に拘束してくる。
スペクターは相変わらず、
机で仕事をしていた。
その横顔は静かで、
美しい。
まるで。
今ノスフェラトゥを弄んでいるのが、
自分ではないみたいに。
その態度が、
余計に熱を煽る。
影が頬を撫でた。
指先の形を作り、
ゆっくり唇をなぞる。
ノスフェラトゥの背筋がぞくりと震えた。
スペクターがまた、
ちらりと視線を寄越す。
「ちゃんと大人しいね」
低い声。
褒めるみたいに。
ノスフェラトゥは悔しそうに眉を寄せる。
「……遊ぶな」
「遊んでないよ」
カリ、とペン先が鳴る。
「君、放っておくと寂しがるから」
その言葉が刺さる。
影が鎖の代わりみたいに、
喉元を撫でる。
しゃら、と幻聴みたいに音がした気がした。
ノスフェラトゥは目を閉じる。
スペクター本人は、
ほとんど触れていない。
なのに。
“見られている”だけで、
身体が反応してしまう。
影に触れられるたび。
スペクターの意志が、
じわじわ身体へ染み込んでくるみたいだった。
そして。
ようやく書類を書き終えたスペクターが、
ペンを置く。
静かな音。
影がぴたりと止まった。
ノスフェラトゥが荒い呼吸を繰り返す中、
スペクターは椅子へ座ったまま頬杖をついた。
「どうだった?」
「……最悪だ」
即答。
だが。
影はまだ、
ノスフェラトゥの身体を離していない。
それを見たスペクターが、
喉の奥で笑う。
「でも」
赤い瞳が細められる。
「逃げなかったね」
ノスフェラトゥは答えられない。
なぜなら。
影へ拘束されながらも、
主に見つめられている安心感を、
どこかで感じてしまっていたからだった。
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