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「いご⋯⋯?」
作業する青龍とルキウスの横に
しゃがみ込んだレイチェルが
首を傾げて呟いた。
淡い桃色のナイトガウンの裾がふわりと揺れ
興味を引かれた子猫のように
床に広がる光景を見つめる。
「形状的に⋯⋯
ボードゲームみたいですわね?
白と黒の石もあって、オセロみたいですわ」
アビゲイルもレイチェルの隣にしゃがみ込み
真剣な瞳で手元の石を観察する。
オウム──ルキウスが器用に足で挟みながら
黒い小石を並べていく様は
まるで熟練の職人のようで
どこか厳かさすら感じられた。
彼女たちの後方
相変わらずソファに沈む時也は
眼鏡越しにその様子を眺めてから
穏やかな声で語り出す。
「ふふ。
僕たちの世界での
ここでいうチェスのようなものですよ。
囲碁とは、盤面に石を置いて領地を争う
思考の戦いです」
その言葉には、知性と余裕が滲んでいた。
指先で文庫本を閉じた彼は
静かに腰を浮かせると
足音ひとつ立てずにシートの傍へと歩み寄る
時也が居なくなった事で
ソーレンの手は行先をソファーに変え
指先で生地をくるくると弄び始めた。
「時也様が相手ですと
手が読まれてしまいますからな⋯⋯」
木片を削る手を止め
青龍はちらりと時也を一瞥する。
幼子の姿ながら、その山吹色の瞳には
鋭さと対抗心が宿っていた。
その目元に、小さく笑みが浮かぶのは
相手を真に認めている証だ。
「碁石は作り終えたか、ルキウス」
「はい、青龍様。
予備の石も用意してございます」
低く重厚な声が
ルキウスの嘴から発せられる。
その声音には
空の神話から飛び出してきたような
威厳があり
聞く者の背筋を自然と正す。
桃色の羽根がさらりと揺れ
仕上げた石の山が静かに並べられていく。
「こちらも
墨入れはしておらんが、碁盤ができた⋯⋯」
青龍は膝の上に置いた板を
慎重に持ち上げる。
正方形の盤面には
細く丁寧に彫られた線が交差し
十九路の碁盤が浮かび上がっていた。
墨を入れぬままでも
それは不思議な存在感を放ち
今にもその上で
静かな戦が始まろうとしているのを
感じさせる。
「さて、一戦交えようか」
木の温もりが掌を伝う中
青龍は幼き姿のまま、堂々と宣言する。
「ふふ。
では、僭越ながら
僕が立会人を務めましょう」
時也は床に正座し
そっと碁盤の前に座る青龍とルキウスの間に
視線を落とす。
その姿は
まるで千年の知恵を見届ける学者のようで
どこまでも静謐で──
そして温かかった。
リビングには
ページを捲る音も、動画の喧騒もない。
ただ静かに〝じゃらり〟と
桐箱に石が収められていく音 が響く。
それは、夜の帳に落ちた静けさに
小さな戦の幕開けを告げる合図だった。
時也が手ずから整えた茶器から
仄かに香る煎茶の湯気が立ち昇る。
その香りさえも
この小さな〝戦場〟の静けさを
祝福しているようだった。
碁盤を挟んで座すは──
片や、龍の誇りを宿す幼子の姿、青龍。
片や、式神として新たに召喚された
威厳ある桃色のオウム、ルキウス。
「この一局は、知能と構築力の証明だ。
真にアビゲイル様の護り手に相応しいか──
測らせてもらおう」
青龍は短く言い放ち
指先で一つ、黒石を摘む。
夜光に照らされた木目の盤上に
〝ぱちり〟と音を立てて石を置いた。
その音は、ただの開始の合図にあらず。
青龍の内に流れる誇りと判断
そのすべてを込めた宣戦布告だった。
「⋯⋯望むところでございます、青龍様」
ルキウスの低く響く声が返される。
それはまるで数多の戦を知る
老将のような貫禄と
静かな気迫を孕んでいた。
彼もまた一つ、白石を足先に挟み
嘴でそっと拾い上げる。
──ぱちり
盤上の左辺
黒の意志とは交わらぬ場所に白が降ろされる
それは挑発でも挑戦でもなく
ルキウスの理知と冷静さを表す一手だった。
「⋯⋯右上を捨て、左辺に領地を求めるか。
面白い」
青龍は目を細め
細い指を組んで顎下に当てる。
静かに、盤面全体を睨むように見つめたあと
次の石を摘み取る。
時也はふたりの間に座し
静かに頷きながら
立会人として一手ずつの進行を見守っていた
時折
盤面をじっと眺めるルキウスに視線を送るが
驚くほど迷いがない。
石を置く動作に無駄がなく、手筋も明確。
まるで学習と経験を重ねた人間のようだ。
「⋯⋯時也様、この式神
ただの装飾では済みませぬな」
青龍の声に、時也は唇をわずかに緩めた。
「ふふ。
あの声と知性、伊達ではありませんね。
加護により生まれた存在ですから⋯⋯
それに、アビゲイルさんの想いも
加わっているのでしょう」
青龍は再び盤面へと視線を戻す。
しばしの静寂。
その間にも、盤上では黒と白が
密やかに陣を広げ、睨み合い、時に潰し合う。
やがて三十手を越えた頃。
囲まれたかに見えた黒の一角が
青龍の一手により
まるで生き物のように息を吹き返し
ルキウスの白を端から喰らい始める。
盤上の流れが、わずかに揺らぐ。
「⋯⋯見事な読みです、青龍様。
ですが──これはどうでしょう」
ルキウスが、一歩も退かず
反撃の一石を投じる。
〝ぱちり〟
白石が黒の進軍の裏手を
遮断するかのように置かれ
次の数手を封じていく。
「──!間を取った、か⋯⋯!」
青龍は目を見開く。
静かだった部屋に、ほんの一瞬だけ
彼の鼓動が音を立てて響いた。
「ルキウス。
貴様⋯⋯一度打った手を
盤の外から逆算したな?」
「はい。
青龍様のお打ちになる手順が
三通りに絞れましたので」
──盤面は、もはや戦場だった。
火花も、血も流れぬが
そこには知性と意志の激突が確かに在った。
そして誰もが言葉を忘れ
盤上にだけ全神経を集中させていた。
一時間後──
勝負は、ルキウスのわずか二目勝ち。
盤面を清め
碁石を丁寧に桐の箱へ戻す青龍は
淡く息をつき、低く呟いた。
「⋯⋯見事だ、ルキウス」
「光栄でございます、青龍様」
二人の間に生まれたのは、主従ではなく──
戦を共にする者たちだけが交わす
静かで揺るぎない敬意だった。
時也は
ひときわ穏やかな微笑みを浮かべたまま
ゆっくりと茶器を手に取った。
「囲碁とは、良いものですね。
言葉がなくても、伝わる想いがある」
その夜。
喫茶桜の静寂に包まれたリビングには
碁石の打ち鳴らす音が残響のように
深く、深く──
染み渡っていた。