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千紘は少しだけうーんと考え込んでから口を開いた。
「まあ、俺は凪が本気で俺と付き合ってくれるっていうならそれでもいいよ。だってそしたら今よりもう少し会えたりするんでしょ? デートもできたり、旅行とかも。それなら正直体だけの関係より特別な気がする。
でも凪はさ、好きな子いたとして付き合ってもいいけど半年セックスなしでって言われたらそれでもいいの?」
反対に質問を返されて、凪はえ? と硬直した。自分がそんなことを言われたら、「じゃあなんで付き合ったの?」と聞くだろうと思った。
付き合うからには、セックスもついてくるものだと思っているから。好きでもないのに付き合うのは、おそらくセックスありきだからだ。
反対にどうしようもなく好きで付き合ったとしても、いつかは……と期待するものだ。
好きな相手なら触れたくなるのは当然のこと。好きでなくてもタイプの女性になら興奮するのだから。
千紘からの質問を受けて、結局俺も男だな……と凪はため息をついた。きっと自分が千紘の立場なら同じようにホテルに誘っただろう。
そして自分と同じような質問をされたら、「なんで?」と聞き返しただろう。決して千紘と同じようにそれでもいいとは言えない気がした。
「何のため息?」
「んー? お前って、変なところ寛容だなって思って」
「なにそれ。セックスなしでもいいってやつ?」
「うん。俺が好きな子にそんなこと言われたら無理だわ」
「はは。まあ、凪は相手が女の子だからっていうのもあるよ。俺の場合は、好きな人ができても成就しないことの方が多いから。付き合ってくれるって奇跡みたいなもんなの」
千紘は穏やかに微笑んで、凪の髪を触る。それから「とりあえずシャンプーしようか。明日のことは凪の気分で決めよう。明日会えるだけで十分だし」と言って凪が座っている椅子を回転させた。
「シャンプーはアシスタントの子に任せちゃうけどいい?」
千紘は名残惜しそうにそう言った。いつもそうだし、お前の客は他にも大勢いるだろ。と思いながら、凪は「いいからいいから。行ってこい」と言って手を払った。
肩をすくめて席を離れる千紘の姿を見送る。凪はアシスタントに案内されながら、シャワー台へと進む。
歩きながら、千紘の「付き合ってくれるって奇跡みたいなもんなの」という言葉が頭に残っていた。
千紘が凪に惚れた理由は、営業妨害をした千紘の客に対して怒ってくれたからだと思い出す。
その時の情景を思い返すことなどなかったが、ふと凪はその時のことが脳裏に浮かんだ。あの時は、同じようにサービスを提供する側としてイラッとしたから苦言を呈しただけだ。
ただ、後に千紘から聞かされた話ではそこに元彼も絡んでいたらしいというところまでわかった。嫉妬に狂った元彼が、千紘に嫌がらせをしたことも、千紘の気を引きたかったことも。
リアルタイムでその話を聞いた時には、特になんとも思わなかったのに、付き合うこと自体が奇跡だと聞かされたら、その相手がいたという事実が凪の中に残った。
お互いが惹かれ合って付き合える確率は、男女よりも遥かに低い。その中で付き合うことになって、きっと千紘は今自分に向けている愛情をその男にも向けていたのだろう。
それなのにその奇跡を崩し、別れに至った。それも嫌がらせをされるほど相手に愛されていながら。
凪は沸々と考えた。手に入れたくて仕方なくてやっとの思いで付き合った相手のはずが、何が気に入らなくて別れたのか。
けれど答えはわからない。それが男女であったとしても別れる時は別れるのだから。別れる理由だってカップルによって違う。
そんなことは自分の知るところではない。そう思うのに、自分が文句を言った男の背後に千紘の元彼の存在があったのかと思うとなんとなく胸の中がモヤモヤとした。
あの後、千紘はその元彼と連絡をとったのだろうか。今もまだ連絡を続けているのだろうか。凪はなんとなくそんなことを考える。
自分のことを好きだと言っている以上、おそらく元彼に未練はないのだろう。しかし、相手はそうじゃない。千紘がここで働いているのを知っているし、会おうと思えば待ち伏せでもしていくらでも会うことができる。
千紘が「好きでも成就することの方が少ない」と言ったように、凪の気持ちが変わらなければ、千紘の気持ちは永遠に一方通行のままだ。
最後に人を好きになったのっていつだっけ……。里緒と別れた時かな。まあ、セラピストになる前ってことだけは確かか。
凪がそう考えれば、自然と頭に浮かぶ元カノの顔。笑顔が可愛くて優しくて穏やかで、凪にしては珍しく性格が完璧だと思える女性と出会ったのだ。
今までは、完全に容姿から入ったから、性格が合わないことがほとんどだった。けれど、里緒は凪の意見を尊重し、いつでも寄り添ってくれた。
なんでも笑顔で許してくれて、傍にいるだけで癒しだった。だからか、凪もそれに甘えたのだ。甘えというよりも驕りに近い。
いつでも凪のことを大好きだと言って尽くしてくれたから、当たり前のようにずっと近くにいるものだと思っていた。
仕事で寝不足でデートの時間に遅れても、連絡の返信が遅くなっても「仕事なら仕方ないよ。一緒にいられるだけで幸せ」そう言ってくれたから、いつの間にかそれが当然になっていった。
いつものようにデートの待ち合わせに行ったら里緒はいなかった。10分だけ遅刻をした。寝坊をしたわけでもなく、忘れていたわけでもない。
たまには里緒の喜ぶ顔が見たくて、いつも笑顔で許してくれる里緒にせめてものお詫びがしたくて柄にもなく花屋に寄ったりした。
待ち合わせ場所にいないなんて珍しい。そう思いながら連絡してみれば「なんかもう疲れちゃった。凪のことは好きだったけど……他に好きな人ができたの。待ち合わせに遅れてきたら別れようって決めてて……ごめんね」そう言って一方的に電話を切られた。
この時、初めて里緒が「自分は大切に思われていない」とずっと感じていたことを知った瞬間だった。