凪にとって里緒は本気で好きになった人だったし、浮気をしようと思わないほど一途に想っていたつもりだった。
けれどそれは里緒には伝わらず、彼女の気持ちも離れていった。
そんなふうに男と女も上手くいかないのだ。男同士なんて余計に難しいことだろう。それなのに千紘は諦めない。それどころか、凪に諦めろと言ってくる始末だ。
ほとんど同じ年数を生きてきた千紘も、凪と同じように色んな経験を経て今がある。同じ失敗を繰り返さないためにも、今できることを惜しみなくするつもりであることは伝わってきた。
凪は、いつまでも自分が振り向かずにいたら、千紘はいずれ諦めるのだろうかと考える。里緒のように想いが一方通行のままだと感じたら、他の人間に目移りするのだろうか。
あんなにも好きだと言ってくっついてきて、時間さえあれば会いたがる千紘が、「なんか疲れた」と言う日がくるのだろうか。
千紘と付き合うことなど全く考えられないのに、里緒のように突然いなくなるのは切ない気がした。
あんなにも情熱的に好きだと言われたら、無理やり犯されたこと以外は悪い気はしない。相手が男であっても、見た目だけで寄ってくる女性よりもまともに思えた。
セラピストになった今、里緒から連絡がきたら寄りを戻しただろうか。そう考えてみれば、答えはNOだった。きっとあの頃と同じように好きにはなれないし、あの時の失敗を繰り返したくないと思っても、あの時以上に大切にはできない。
里緒のためにセラピストを辞めるつもりもない。なんだかんだこの仕事は好きだし、金になるし、ずっと他人と接していると余計なことを考えなくて済むから気持ち的にも楽だ。
そうやってあの時の感情も過去のものに変わっていく。おそらく里緒にとっての自分もとっくに過去になっているのだろう。凪はそう思うが、千紘の元彼はそうではなかった。
いつまでも引きずって、未だに千紘を思い続ける。もしも千紘がそれに応えたら、元の鞘に収まるのだ。
シャンプーをしてもらいながら、やっぱり胸の奥はずっとモヤモヤとする。自分が元カノと連絡を取らないからといって、他人もそうだとは限らないから。
凪はアシスタントの言葉も耳に入らず、ずっとぼんやりと考え込んでいた。
カラー剤を塗り終えてアシスタントがはけた頃、千紘が何食わぬ顔をして戻ってきた。凪が横目で確認しただけでも7名の千紘の指名客が帰って行った。
「一段落」
そう言って凪の肩に両手を乗せた。重たくのしかかる体重は肩に負担を与えるのに、体温が伝わってきてなんとなく嫌な気はしなかった。
「続々と帰ってったな」
「うん。皆カット待ちだったからね。俺はメンズ専門だから、女の子みたいに髪乾かすのにうんと時間かかったりしないの」
「あー……だから1日の予約詰め込めんのか」
「まあ、そういうこと。髪長いと全てにおいて時間かかるからね。シャンプーもカラーもブローも」
「そりゃそうだ」
1日にとんでもない人数の予約が入っているとは思っていたが、それなら納得だと凪は今更ながらに頷いた。
「凪、明日何時にする?」
「お前は何時に終わるんだよ」
「んー……最終のお客さん終わらせて、片付けして頑張れば21時ちょっと過ぎくらいには終わると思う」
「じゃあ、その辺で」
凪がさらっと言えば、千紘は嬉しそうに微笑んだ。なんとなく付き合いたての里緒を思い出す。
付き合うってこんな感じだったな……。そんなふうに思うのは不思議な気分だった。散々セラピストとして仕事をする中で、疑似恋愛を用いた営業をしてきたというのに、凪自身は一度も恋人気分になったことはなかった。
相手がどれだけ好いてくれていても、自分に気持ちがなければ仕事でしかない。割り切ってその場限りの時間をやり過ごして、可愛くて好みの女性とは性欲だけで楽しむ。
そんなふうに何年も過ごしてきたのに、客の誰1人にも抱かなかった思いに、驚きすらした。
誰かと付き合うとか全く考えてなかったしな……。セラピストをしてる以上、彼女は作れないし辞めてまで付き合いたいと思える相手にも出会える気がしないし。
今が楽しければいいと思ってたから、彼女が欲しいとも思わなかったけど……いずれは付き合いたいと思う相手ができんのかな。
凪は千紘の笑顔を見ながら、千紘ではない誰かと付き合うことを想像した。
千紘は明日は何を食べようかだとか、どこで待ち合わせしようかなどと声を弾ませて凪に尋ねる。
本当に付き合いたての彼女のようにはしゃぐ。中性的な見た目も相まって、鏡越しに見ると女性に見えなくもなかった。
ガタイがいいから男にしか見えねぇけど、やっぱ顔だけは綺麗なんだよな。
ぼーっと千紘を見る凪の視線に気付き、千紘は不思議そうに瞬きをした。
「どうかした?」
「いや、顔綺麗だと思って」
普段から女性を褒め慣れている凪は、褒め言葉も簡単に口に出る。千紘に言った綺麗は、女性に言う綺麗、可愛いとは少し違い、花や風景を見る綺麗に近い気がした。
にもかかわらず、千紘はこのタイミングで褒められると思っていなかったのか、かあぁぁぁっと顔を紅潮させた。
先程凪が千紘を完璧だと言った時にはあんなにも余裕そうな顔をしてた千紘だが、不意打ちには耐性がなかった。
ただでさえ、今日の食事を断られて一度凹んだところに明日ならいいというご褒美を与えられたのだ。そこへきて凪からの熱い視線を感じて綺麗だと言われたら、嫌でも勘違いしそうになった。
千紘は女性に間違われることも、綺麗や可愛いと言われることもあまりよく思っていなかった。ただ、この顔を活かして小綺麗にしていれば男女問わずチヤホヤしてくれるから、人生チートだと思っただけだ。
内心では自分が好きな男をさらりと攫っていく綺麗な女も、色んなジャンルの男を振り回す可愛い女も好きじゃない。
そんな分類と同じところの綺麗や可愛いをとってつけたように言われたって嬉しくもなんともなかった。
けれど凪は、千紘に対してだけは事実しか言わない。客に対しては建前上の言葉を使ったとしても、千紘に同じように営業をかけることはしない。
だから凪が何気なく放った綺麗は、千紘にとって特別な意味を持つ言葉だった。
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