「──これ、落としましたよ」
都内某所にある公立高校の廊下で、飯芽仁海は、自分と同じ詰襟を着た男子高校生の肩を、トンと軽く叩いた。男子が何事かと振り返る。
痩せ気味の体躯に、高校一年生にしては童顔な顔つき、特にセットもされていない自然体な短い黒髪。どこにでもいそうな外見の仁海は、パスケースを差し出していた。
「あ、ありがとう」
「いえ」
男子からのお礼に対して短く返すと、仁海は踵を返して歩き出した。階段の近くで仁海を見ているクラスメイトの男子の前で足を止める。
「待たせてごめん」
「それはいいけど、知り合い?」
戻ってきた道とは反対の廊下を進みつつ、仁海は「ううん」と短く返した。
「知り合いでもないのにわざわざ追いかけたのか。マメっていうか、イイヒトだなぁ」
「べつにそんなことは……落とし物が見えて、すぐ身体が動いただけだから」
茶化す声でそう言うクラスメイトに、仁海は困ったように笑う。
「いやだって、落とし物があったところまで結構距離あったぞ」
「……気づいちゃったからね」
困った笑顔のまま、隣を歩くクラスメイトを何の気なしに見た。
茶化す声同様に、少し意地悪そうに笑うクラスメイトの顔の向こうに──青白い女の顔が浮かんでいた。
黒目がやけに大きく、ぽっかり空いた穴のようなのに、しっかり仁海を見ている。
そこにあるのは人の「顔」だけ。クラスメイトの陰に隠れているのか、手足や身体は見えない。
「──っ」
「そうだ、今日授業終わったらクラスの連中でカラオケ行くんだけど、飯芽も来るか?」
クラスメイトの横顔の向こうに、明らかに不自然な「顔」。だがクラスメイト自身には見えていないのか、「顔」について触れる気配はない。
その間も、「顔」はじっと仁海を見つめていた。
仁海が言う「すぐ身体が動いただけ」というのは、事実だった。半分は善意かもしれないが──もう半分は、また別の理由だ。
今のように、得体のしれない「何か」に見られているとき。その「何か」に「気づいている」と悟られてはいけない。悟られるとどうなるのか仁海は知らないが、ろくなことがない、ということだけはわかる。
だから仁海は、自然と「何か」以外に意識を向けられるものを探しているのだ。
たとえば、今回のように落とし物に気づいたときのように。
いわゆる「親切」なことをすることで、近くに潜んで仁海を見ている「何か」から意識をそらしていたのだ。
──だが、この日。
「……やめとくか?」
「え」
「カラオケ。飯芽、なんかさっきからずっと顔色悪いし、ぼーっとしてるときあるし」
(ああ、またか)
申し訳なさそうなクラスメイトの声に、仁海はさらなる申し訳なさを感じた。
「……さっき落とし物拾ったときに、頭下げたから?」
心情を悟られないようにそう告げると、クラスメイトは「いや、なんだその理由」と笑った。おかげで、気まずい空気が少し和らいだ。
現在は、昼休み終了間際。五限目のために教室移動をしていた。
仁海がクラスメイトの横顔を盗み見れば、その横で、異形な女の顔が仁海を見ている。
今まで、こんな至近距離で見つめられ続けることはなかった。大体の場合、離れたところから視線を感じるか、すれ違う瞬間にだけ急接近するだけだった。
(もしかして……気づいているのが、バレてる?)
何度もそう思った仁海だったが、この女の顔も「見ている」以上のことは何もしてこない。
だから気づかないフリを続けているが──なかなかいなくなってくれないのだ。
最近では家までついてきて、仁海は事あるごとに悲鳴を上げそうになっている。それでもどうにか踏みとどまり、現在に至る。
だがそれも──そろそろ限界が近かった。
◆
授業が終わり、放課後。誘いを断った仁海は、まっすぐ帰宅することになる。
(正直、家に帰ってもずっとついてくるしなぁ……寄り道してもついてくるけど)
帰宅ラッシュより早い時間帯なので、電車の中は空いていたが──「顔」が向かいの座席からじっと仁海を見ていた。
さっきは、クラスメイトの陰から顔を出していた。今は遮蔽物がないので、本来なら身体もしっかり見えるはずだった。
だが、相変わらず不気味な顔しか、仁海の目には映らない。首から下が黒いモヤに覆われて見えないのだ。その事実が、より仁海の背筋を薄ら寒くした。
ただただ不気味な存在が、じっと見つめてくる。
それだけのことが──もう、一か月くらい続いていた。
仁海は、幼い頃からこういった「何か」──おそらく幽霊だと思われるものを、何度も見てきた。
本当に幽霊なのかどうか、仁海にはわからない。ちゃんと誰かに相談したことはないし、そもそも同じものが見えたことのある人間に出会ったこともなかった。
見え始めたばかりの頃、家族や友達に話したことがあった。だが誰もまともに取り合わなかった。「気のせい」「人の気を引きたいからそんなこと言うんだ」と、まるで仁海が悪いように言われる始末。
その扱いが悔しくて、家族に「今この場に幽霊がいる」と知らせようとしたことがあった。
そのとき、ただ見ていただけの幽霊の気配が変わった。言い知れぬ気配に怯えた仁海は、「気のせいだった」と誤魔化した。家族も、そして幽霊も誤魔化されたようで、気配は元に戻った。
もしこのときに「幽霊がいる」と示していたら、一体どうなっていたのか。実際に経験したわけでもないのに、悪いことしか起こらないことだけは理解できたのだ。
以降、幽霊の気配が変わらないよう、仁海は「無視」を決め込むことにした。
誰にも相談せず、助けを求めず、ただ幽霊がいなくなるまで耐え続けた。
(……それが、間違いだったのかなぁ)
無視をする、助けを求めない──そう決めた心が、身体が、限界に近づいていた。
そんなことを考えているうちに、乗り換える駅になった。
心身ともに疲れているのもあって、嫌なことを思い出してしまう。そんな自分に嫌気が差した仁海は、電車から降りるとフラフラと歩きだした。
降車した人々は下り階段に向かう。その中で、後方車両の方角に向かう仁海は、そう多くはない人の流れに逆らいながら移動した。
「……はぁ」
ホーム端の壁に寄りかかると、仁海はしゃがみ込んだ。
その間も、女の顔は仁海を見ていた。電車の時は近距離だったが、今は少し離れた、大勢が降りて行った階段の横に、顔と黒いモヤが浮かんでいる。
「──顔色、ものすごく悪いですね」
突然声をかけられ、仁海の肩が跳ねた。
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