視界が開けたのを自覚して、いつの間にか目を閉じていたことに仁海は気づいた。
乗換駅として見慣れたホームを背景に、見覚えのない少女が立っている。
着ているセーラー服には、覚えがあった。朝のラッシュで時折見かけていて、おそらく私立高校の制服だろう、くらいのものだったが。
セミロングの、赤毛に近い茶色の髪は柔らかそうで、ふわふわして見える。猫のような大きな目もあって愛嬌のある顔つきだが、今は心配そうに表情が曇っていた。
「え……」
いきなり知らない人間に声をかけられた戸惑いと驚きで、仁海の口から間抜けな声が出る。
「医務室みたいなところがあるはずですし、そこまで行きましょう」
「いや、その」
「動くのがつらかったら、まずは駅員さんを呼ぶ方が先でしょうか」
「だ、大丈夫です……ひ、一人で平気なんで」
どんどん話を進めてしまう少女に対し、どうにか言葉を挟む。すると少女は不思議そうに首を傾げた。
「まったく、大丈夫そうに見えませんよ?」
「う」
「じっとしていれば、良くなる感じなのでしょうか」
「そ、そうです、だから」
「やっぱり、そうは見えませんよ」
少女の言葉に乗っかろうとした仁海だったが、あっさり切り捨ててくる。声の感じはとても柔らかいのに、話し方はむしろマイペースのそれだった。
すると、少女に占拠されていた仁海の視界の端に──嫌なものが映った。
黒目が穴のように大きな、顔しかない女。
階段近くにいたはずの「顔」が、今はホームギリギリに立っていた。そしてその気配が、さっきとは違っているように仁海は感じる。
(なんで? 俺べつに、幽霊の話なんてしてないのに……)
突然襲ってくるような、大きな変化ではない。それでも、今まで経験のない変化は、仁海を動揺させるには十分だった。
「本当に平気なんで、放っておいてください!」
「さっきより顔色ひどくなってますよ? その状態で平気なわけないと思います」
声を荒らげて追い払おうとしても、引く気配がない。むしろ少女の表情に切迫したものが混ざり、仁海が隠そうとしている緊急事態を読み取ってしまってすらいた。
(どうしよう……)
焦りのせいでより大きく響く心臓の音が、仁海の冷静な思考を奪っていく。
「──余計なお世話、という言葉を知っているか」
混乱にも似た状態だった仁海の頭に、冷水をぶちまけたような声が響いた。
「いきなり、なんですか?」
突然自分に敵意のこもった声を向けた人物に、少女は不満そうな声を向けた。
「明らかに嫌がっている相手の世話をするのは、余計なお世話だと思ったからな」
少女の後ろ──ちょうど「顔」を遮るような位置に、これもなんとなく見覚えのある制服姿の少年が立っていた。
ブレザーの制服は、やはり朝のラッシュで見かけていた制服の一つだ。
まっすぐな黒髪は短く、形の良い耳がしっかり見える。その耳には銀色をしたアンダーリムのメガネが引っ掛かっていた。
整った顔立ちだが、ぱっと見は無表情。背が高く、切れ長で鋭い目つきが威圧的で、不機嫌そうに見えた。
「でもこの人、とても顔色が悪いんです。放っておいたら、もっと悪化してしまうかもしれないので……それをどうにかしたいだけですよ」
言いながら、「ほらっ!」と仁海を指し示す少女。少年は未だに状況についていけていない仁海の顔を見ると、眉間に皺が寄った。
「……確かに、かなり顔色が悪いな」
「そうでしょう」
「だが、周りから見ていると、君がしつこく付きまとっているようにしか見えない」
「この顔色の悪さで放っておけって言うなら、あなたは鬼か悪魔か外道のどれかとしか思えませんね」
「僕が鬼でも悪魔でも外道でもどうでもいいが、君が嫌がる彼に構うから悪化している可能性は考えたことがあるのか」
(ど、どうしよう……この状況……)
ああ言えば、こう言う。自分が原因で、少女と少年は口論を始めてしまった。今すぐにでも止めたいが、疲労からかうまく言葉が出てこない。
いや、それ以上に──なぜか、仁海は少し嬉しくさえ感じていた。
強引だが、困っていることを見抜いて手を伸ばすことにためらいがない少女。
冷たく容赦がないが、それでも仁海が困っていると見て、声を掛けてくれた少年。
(や、喧嘩されるのは困るんだけど!)
そう言い訳しながらも、彼らの気遣う姿勢や行動が、仁海の弱った心にはとてもよく沁みた。
だが──そんなほっこりした時間は、長くは続かなかった。
少年と少女はいつの間にか、仁海の前に並んで口論を続けている。
その後ろに、「女の顔」が近づいてきていた。その気配は、やはり「ただじっと見ているとき」とは違う。
(まずい……どうなるかわからないし、せめて二人を逃がさなきゃ)
そう思うが、どう二人に声をかければいいかわからない。ここで「ついて行きます」と言うのは不自然ではないだろうか。そこを突っ込まれている間に「女の顔」が近づいて来たら、どうすればいいのだろう。
仁海が迷っているうちに──黒目の大きな顔だけの女は、少女の背後まで近づいてきていた。
(あっ──)
「女の顔」が不快そうに歪み、少女に触れようとした瞬間。
「──っ!」
少年と口論していた少女が、突然身体を捻って後ろを向くと、握った拳をその勢いで振り上げ──「女の顔」に、叩き込んだ。
殴られた「女の顔」が、拳の形に変形する。吹き飛ばされてもおかしくなかったが、その場で激しく揺れる顔の動きが、その勢いを物語っていた。
「……え」
思わず、仁海の口から間抜けな声が出る。
「……いきなりなんだ、その見た目にそぐわないキレと勢いのパンチは」
「今後ろに、蚊がいたような気がしましたので」
「蚊を素手で殴るのか、君は」
「時と場合によってはそうですね」
ちょっと引いている少年に対し、少女は平然としていた。
(見えて、ない? でも、顔面にクリーンヒットしてたと思うんだけど……)
目が合わないように、殴られた「女の顔」を盗み見る。変形した顔はかなり弱っているように見えるが、逃げる気配はない。
「さ、こんなところで話していても良くならないでしょうから、行きましょう」
口論が途切れたからか、少女が再び仁海に声をかけてくる。最初同様の強引さにも思えるが、有無を言わさぬ気配が強いように仁海は感じた。
(だとしたら、やっぱり見えてるんじゃ──)
「立てますか? 早く──」
「──その必要はない」
少女が仁海の手を取ろうとした瞬間、少年の冷ややかな声が一刀両断した。
その声と同じように──少年は、顔の変形した「女の顔」に手刀を振り下ろす。
「っ!」
「え」
声の出ない仁海と、目を見開く少女。手刀を受けた「女の顔」は──ボロボロと崩れて消えたからだ。
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