『あの…師範。』
すぐさまに声が聞こえた方へ視線を動かし、声の主を捉える。
「うわぁ、かわいー……」
視界に映る、ちらりと壁に手を添え控えめにこちらを覗く○○の姿は正直言って人を殺せるくらい可愛かった。比喩表現とかお世辞なんかじゃなくて本当に。
その証拠に心臓はカタンコトンとただ事ではなく音を立て始め、息を詰まらす。
『あっえっと…ごめんなさい。お二人のお話を遮ってしまい…』
ずっと○○を見つめたまま黙り込んでいる僕を怒ったと判断したのか、○○は一度申し訳なさそうに声を小さく震わせ、目の中に咲く小さな花をしぼませると添えていた手を壁から離し、僕の視界から消えていく。
「待って」
ほどんど反射的に声を落とし、遠ざかっていく滅と刻まれた黒い隊服を纏う背を急いで追いかける。ぐいっと軽い力で隊服の袖から覗く白い手首を握った瞬間、その細さに驚いた。
握る指のすき間から見えた○○の白い手首を覗くと案の定静脈が見えるほど細く、こんな少女が僕らと同じように刀を握って、僕らと同じように鬼と闘っているとは思えなかった。
『な、なんでしょうか…?』
なにかの余韻のように微かに震える鈴に似た澄んだ声が耳に入ってきた瞬間、浮いていた意識が戻って来る。
慌てるというよりかはどちらかというと怯えているような表情を浮かべ、小刻みに震える○○の姿が視界に入った瞬間、どうしたんだろうという困惑が脳に行きつくよりも先に、目にもとまらぬ速さで胡蝶さんが僕と○○の間に入り込んでガシリと俺の腕を掴む。
「…時透くん、○○から手を離してあげてください。」
固い声で告げられたその言葉に圧倒され、掴んでいた○○の手首をゆっくりと離す。
「…○○。きよたちと隊士たちの食事を用意していただけますか?」
『は、はい!』
気まずさの混じった静寂に胡蝶さんのさっきとは打って変わって柔らかい声が響く。
○○はその声に慌てた様子で答え、申し訳なさそうな視線で僕を一度だけ見ると、しっかりと一例して部屋から出て行った。
─…触れた手は、酷く震えていた。
「…あの子は男の人が苦手なんです。」
ぽつり、何かの水滴を零すような声色で胡蝶さんが途絶えた言葉を綴る。
あの異常なほどの怯え様。男性が苦手だということならば説明がつく。
「ですから恋は…」
「いっそ女の子だって偽ってくれてもかまいません。」
「すごいですね貴方」
だからって諦めるつもりはさらさらないけど。
「…もう行きますね、ありがとうございました。」
「あ、ちょ…!」
後ろで何か言われたような気もするけど、気づいていないふりをしてそのまま速足で診察室を出る。廊下を歩いている間も髪を二つに分けて結った女の人になにか言われたような気がするが、記憶についてはまだあやふやなところが多いせいで上手く思い出せない。
まぁいいか。とすぐに曖昧な思考を切り捨て外で待っていてくれた銀子に視線を移す。
「銀子、おいで。待たせてごめん。」
「無一郎!」
蝶屋敷のすぐ傍にある大きな桜の木からこちらに飛んでくる銀子の頭を撫でながら、しばらくまた考えに耽った。考えていることはもちろん○○のことについて。
「…女の子って何が好きな のかな。」
所々に僅かな灰色の影を落としている雲を眺めながらポツリと言葉を落とす。
視界のド真ん中に映る雲の動きは目を凝らさないと分からないほど酷くゆっくりだが確実に先へと進んでいっている。一切止まることなく、ずっと。
その様子をぼんやりと見つめながら見慣れた帰途を歩いていると、突然体に衝撃が走った。
首筋辺りに感じた人の気配とキャッという少女の驚いたような声に浮遊していた意識が現実に引き戻される。
「あ、ごめ………ん」
視界の端に映った黒い髪と赤い蝶の髪飾りに左胸に潜んでいた心臓が、いつもよりずっと激しく体に鳴り渡る。紡いでいた言葉の最後が不自然に途切れ、息が止まったかのように喉がキュッと引き締まった。
『ご、ごめんなさい…え、霞柱様!?すすすすみません!』
僕とぶつかった少女はぶつけたであろう額を右の手の甲で軽く擦り、上目遣い気味に俺の瞳を覗き込むとハッと目を見開かせ、酷く慌てた様子で頭を下げた。
黒い髪。
赤い蝶の髪飾り。
小さな花が咲いているように見える、僕の父さんと同じ赤い瞳。
その少女が今までずっと自身の頭の中で考えていた○○本人だと理解した途端、全身の血が一気に熱く沸き立ち、元々早かった動悸がさらに高みを増す。
頭が真っ白になるというのはこう言うときのことを言うんだろうな。と頭の片隅に微かに残った正常な思考が場違いなことを思い浮かべる。それ以外の事はあまりの驚きに全て打ち消されていった。
『ぁ…あの、霞柱様…?』
細く華奢な襟首がくっきりとした白さで、静かに呼吸につれて動く。
その綺麗さに思わず見惚れていると、どこか心の高ぶりと焦りを抑えきれない乱れた音を含んだ○○の声色が僕の鼓膜に触れ、ぼやっとしていた視界が明るくなる。
「…大丈夫、僕の方こそぶつかっちゃってごめんね。」
自分が出せる限りの出来るだけ優しい声で言葉を落とす。
そんな俺の声に、怒られると思って居たのか目の前でぽかんと見開く○○の姿が酷く可愛らしく、つい口角が柔らかく上がる。
そこでふと、ピシャリと頭の中に一つの考えが流れ込んで来た。
今ここには僕と○○しかいない。
胡蝶さんも居ないし、他の隊士や蝶屋敷の人達もいない。
○○と交流を深められる絶好のチャンスだ。
だがそう気付いたからといってすぐに話題が思い浮かぶわけじゃない。加え、その話す相手が好きな子だったら尚更だ。
どうしようかと頭を悩ませていると、僕の肩にとまっていた銀子がトンと羽で僕の頬を触れるように軽く叩き、今は枯れている桜の木の方を指差すように黒い羽を伸ばす。
その行動にすぐに銀子の意図を読み取り、閉じていた唇を開く。
「…これ、桜の木だよね。」
『あっ…はい、そうです。』
桜の木の方へと視線をずらした○○の視線を追い、僕もそれを見つめる。
葉や花はすべて枯れ落ちているが、季節的に咲かないだけでもう一生咲かないといわけでは無いだろう。その証拠に本当の枯れ木とは違い、この木の幹はまだ若々しさを纏っている。
『“必勝”という名前で、初代花の呼吸を使う剣士の方が植えた桜、と聞いています。』
ぽつり、と桜の木に視界を向けたまま○○が控えめに言葉を零す。
「“必勝”…」
言葉を噛み締めるように小さくその名前を繰り返す。
派生呼吸とはいえ、古くから鬼殺の剣士使われている花の呼吸の初代使い手が植えた木ということはそれなりに古いものなのだろう。所々痛んではいるが、それほどの年月もの間こうやって自分の力で立っていられるということに驚く。
『…いつか“叶ったよ”と伝えてあげたいです。』
ニコリと僅かに頬を赤く染め、柔らかく微笑む○○の姿にまたもや心臓が大きく跳ねる。
初めて見る天使の笑顔は破壊度が高すぎた。
「…そうだね。」
胸の高鳴りと合わせて震える声を出来るだけ普通に振る舞おうと我慢し、言葉を流す。
“必勝”
きっとこの桜を植えた花の呼吸の剣士は“鬼を滅殺する”という願いを込めてこの桜の木にそんな名前を名付けたのだろう。
『…それでは失礼します。次会えるか分かりませんが、ご武運を。』
そう考えている間に○○は隊服の洋袴を揺らしながら背を向け去って行こうとする。
「ねえ」
駄目だと分かっていても体は勝手に彼女の手を掴んでしまっていた。
「…少しだけ、僕と喋れない?」
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