テラーノベル
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大晦日、店は午前で閉めた。
正月の注文は、全部渡した。二百と十二。父が椀を拭きながら数えて、源さんが豆を見ながら数えて、二人の数が合った。母が、藍色のシャッターを昼に下ろした。一年で一度、昼に下りるシャッターだった。
ことはは、二時に屋敷に戻った。
玄関が、静かだった。
芘沢は、娘のところへ行っている。大晦日と元日だけ、芘沢は休む。坊ちゃまは毎年お一人ですが、と芘沢は言った。言って、続きを言わなかった。
廊下の奥の、書斎の扉が、少し開いていた。
ことはは、足を止めた。
開いているのを、見たことがなかった。遼は、必ず閉める。
「……遼さん」
返事はなかった。
ことはは、扉を押した。
遼は、机に伏していた。
コートを着たまま。腕の上に、顔を伏せて。机の上に、書類が散っている。散っているのも、見たことがなかった。
「遼さん」
肩に、手を置いた。
熱かった。コートの上からでも分かる熱さだった。
遼が、顔を上げた。目が、焦点を結ぶまでに、時間がかかった。
「……何だ」
「熱があります」
「ない」
「あります。立てますか」
「勝手に、入るな」
遼は、立とうとして、立てない。椅子の背に、手をつく。
ことはは、遼の腕を取った。取って、肩を貸す。重い。黒いコートが、熱かった。
「部屋に、行きます」
「四条だ。……私室には」
「必要だからです」
遼が、こちらを見た。熱で濡れた目で。
何も言わなかった。言わないで、ことはの肩に、重さを預けた。
◇
遼の部屋は、二階の西の端だった。
ことはは、初めて扉を開けた。
何もない部屋だった。寝台。机。椅子。机の上に、小さな写真立て。白い髭の老人。宗一郎。それだけだった。カーテンは閉まっていた。
寝台に、遼を座らせた。コートを脱がせた。上着も。ネクタイを緩めた。遼は、されるままだった。病人は、こうなる。父が入院していたときも、こうだった。
「寝てください」
「医者は、いらない」
「呼びません。寝れば治ると思っているなら、寝てください」
遼は、横になった。横になって、目を閉じた。閉じた目の上に、ことはは濡らした布を置いた。遼は、払わなかった。
部屋を出るとき、机の写真立てが目に入った。宗一郎。遺影と同じ、少し笑った顔。この部屋には、それしかなかった。本も、写真も、ほかには何も。ことはは、戸を静かに閉めた。
ことはは、台所に降りた。米を研いだ。粥。父が倒れたとき、母が毎日作っていたもの。米と水と、少しの塩。
できるまで、四十分かかった。
椀に入れて、二階に運んだ。遼は、目を閉じていた。眠っているのか、分からなかった。
「遼さん。粥です。少しでも」
遼は、目を開けた。
ことはは、椀を差し出した。遼は、受け取らなかった。受け取らないで、ことはを見た。
「……なぜ、いる」
「大晦日なので。店が、午前で終わりました」
「帰れ」
「ここが、今は、わたしの家です。契約の間は」
契約の間は、と言った自分の声を、ことはは聞いた。言わなくていい言葉だ。言ってしまう言葉だ。
遼は、何も言わない。言わないで、椀に手を伸ばす。
手が、震えている。ことはは、椀を支えた。遼が、一口、飲んだ。二口。
黙って。
源さんと同じ、父と同じ、黙り方で。
椀を、ことはに返した。半分、減っていた。
「……塩が、効いている」
「母の、粥です」
遼は、目を閉じた。
◇
夜、除夜の鐘が、遠くで鳴っている。
ことはは、寝台の横の椅子に座っていた。座ったまま、動かない。遼の額に、濡らした布を置いて、替えて、また置く。熱は、下がり始めていた。
鐘の音の間で、遼が、何か言った。
目を閉じたまま。
「……ことは」
ことはは、布を持った手を止めた。
名前だった。
この家に来てから、一度も呼ばれたことのない呼び方。お前。妻。それ以外の、ことはの名前。
ことは。
遼は、聞いていなかった。聞いていない顔で、目を閉じたまま、続けた。
「……店を、閉めるな」
「……閉めません」
返事をしたのか、しなかったのか、自分でも分からなかった。
「来るな」
遼の声が、低くなった。
「巻き込む」
それだけだった。
ことはは、布を替えた。替えた手が、少し震えていた。来るな。巻き込む。誰に言ったのか。何に。
鐘が、鳴り終わった。年が、変わった。
◇
元日の朝、熱は下がっていた。
遼は、起きて、着替えて、書斎に降りてきた。ことはが廊下で会ったとき、遼の顔は、いつもの顔だった。
「勝手に部屋に入るな」
「はい」
「四条だ」
「はい」
それだけ言って、遼は書斎に入った。
ことはは、台所に降りる。昨夜の椀が、流しにある。空だ。半分残っていたはずの粥が、なくなっている。
廊下で、遼の声がした。電話の声。低い。書斎の扉の隙間から、聞こえた。
「叔父さん。明日の新年会に、妻を連れていく」
相手の声は、聞こえない。
「……連れていく。妻だ」
電話が切れた。扉が開いて、遼が出てきた。ことはを見た。
「聞いたか」
「……はい」
「叔父が、お前を連れてくるなと言った」
ことはは、何も言わなかった。
「明日、来い。来たくなくても来い」
遼は、ことはの横を通り過ぎた。通り過ぎながら、言った。
「――本家は、お前を見に来る」
コメント
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第24話、読み終えました。……今回は本当に、ページを閉じて少し黙ってしまうような回でした。 ことばさんが遼さんの熱に気づいて、肩を貸して、初めて部屋の扉を開ける――その一つひとつの動作が、これまでの積み重ねを感じさせて、胸に沁みました。何もない部屋、机の上の宗一郎さんの写真だけ。あの空間が、遼さんの人生を語っているようで。 熱に浮かされた遼さんが「ことは」と名前を呼んだ瞬間、ゾクッとしました。呼ばれたことのない呼び方で。そして「来るな」「巻き込む」。誰に言ったのか、何に巻き込むのか――まだ明かされていない重い何かを感じます。 翌朝、熱が下がって「妻だ」と電話で言い直した遼さん。本家が「お前を見に来る」というラストも、不穏で、でもそこにことばさんを連れて行くと決めた意味を考えると、背筋が伸びる思いでした。 次の話が待ち遠しいです。
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