次の日――。
「う……ん」
太陽の光がカーテンの隙間からわずかに漏れている。
隣に置いてあった携帯を見て、時間を確認する。
「えっ……。もう十一時……」
起き上がろうとしたが、身体が怠い。
昨日の出来事を思い出す。
夢であってほしいと願うが、鮮明に覚えている記憶と彼に触れられた感触。
「夢だったら良かったのに……」
言葉に出すも、もう昨日には戻れない。
起き上がり、シャワーを浴びる。
鏡に映った自分を見る。
「ちょっ!」
首筋に赤い痣《キスマーク》ができていた。
「あいつ!」
昨日帰ってきた時は、疲れていたせいか見えなかった。
こんなところに付けて、孝介に見られたら……。
あの動画を見られる前に、バレちゃうじゃない!契約違反だわ。
入浴後、髪の毛を急いで乾かし、昨日交換した加賀宮さんの※LIEEに連絡をした。
<ちょっと!キスマーク付けただなんて、聞いてない。これでバレたらあなたのせいだからね!契約違反じゃない!>
こんなケンカ腰にLIEEを送るなんて、脅されている立場の人間がやることじゃない。
「はぁ……」
送った後に後悔をしてしまった。
送信取り消しをタップしようにも
「えっ……。もう既読になっている」
私の送った文章を加賀宮さんは読んでしまったみたいだ。
しばらくすると彼から返信が来た。
<ごめん。なんとかする>
なんとかするって、どうやってなんとかするのよ。
深く詮索するのはやめよう。
洗濯をしようとしていた時、携帯が鳴った。
着信相手は孝介だった。
「はい」
<もしもし?出張なんだけど、明日帰る予定が、急遽他の予定も入って、さらに日程が延びた。一応、連絡しとくから>
えっ?じゃあしばらく帰って来ないの?
私にとってはとても都合の良い嬉しい連絡だった。
「着替えとか……。大丈夫?そんなに持って行って……」
<大丈夫だよ。なんとかするから。家政婦さんにはしばらく休んでほしいって、俺から連絡しとくから>
私の言葉を夫は面倒くさそうに遮る。
「どのくらい延びるの?」
<わからない。俺も今日、連絡があったところだから。一週間は延びないと思うけど>
そっか。一週間……。
その頃にはこの痣も消えるだろうし。良かった。
「じゃあ……」
電話を切られそうになり、重要なことを思い出す。
「あの……。お金、振り込んでほしいの。家政婦さんも来ないってことは、自分でご飯を作らなきゃいけないし。冷蔵庫には何もないし。昨日の千円で一週間はキツイ……」
<お前な、自分の心配かよ。俺が一生懸命働いてるのに。お前は何もせず、どうせゴロゴロしてんだろ?どこにも行かないんだから、腹も減らないだろ。自分でなんとかしろ!>
怒鳴られ、電話が切れてしまった。
※LIEEとは、この作中だけの無料通話・メールアプリのこと。
「はぁ……」
孝介に隠しているお金で何かを買って凌ぐことは簡単だ。
しかし彼が帰ってきた時、急にスイッチが入り
「何を食べてたんだ?」
なんて詮索をされた時に答えようがない。
「お米はあったよね……」
昨日見た時はあったはず。
キッチンへ行き、再度確認をする。
「良かった。少しある。水は出るし、調味料もあるから……。お粥とか作れる」
こんな高級マンションに住んで、家具は全てブランド物、夫は次期社長……。
なのに、実際はこんな生活だなんて誰が想像するだろう。
孝介はしばらく帰ってこない。
息が詰まるような会話をしなくても良い。
あれっ?
また電話が鳴っている。
リビングに戻り、着信相手を見る。
深呼吸をし
「もしもし?」
電話に出た。
<なんだ。元気そうだな?>
電話の相手は、加賀宮さんだった。
「元気じゃないですけど。キスマーク、どうしてくれるんですか?」
昨日の今日でこんなに普通に話せている自分に驚く。
<どうにかなっただろ?>
「えっ?」
孝介の出張が延びたおかげで、確かに帰って来る頃にはこの痣は消える。
どうしてそんなこと知ってるの?
<だから、契約違反にはならない。今日はこれから教える住所に来てほしい。二十一時くらいにマンション前で待ってて。亜蘭《あらん》が迎えに行くから?これは命令な。じゃあ>
「ねぇっ!ちょっと!」
一方的に電話が切れてしまった。
彼は何を考えているの?
やっぱり……。夫が帰って来ないことを知ってる。
だからそんな要求ができるんだ。
どこからそんなことを……?
疑問が晴れないまま、買い物に行き、必要最低限の食材だけを購入した。
孝介からの電話だったり、加賀宮さんからの電話だったりでお昼ご飯を食べる気にもなれなかった。夕方にお粥を作って食べた。
シャワーを浴び、彼が指定した時間にマンション前で待っていた。
すると黒いセダンが近くに停まった。
「お待たせしました」
車から降りて来たのは、先日会った
<亜蘭>と加賀宮さんが呼んでいた秘書さんだった。
なんて挨拶をすればいいの?
そう思いながらも
「こんばんは。よろしくお願いします」
そう言って彼が開けてくれた後部座席へと座る。
車内は無言だった。
亜蘭さんが話しかけてくれることもないし、私もなんて声をかけていいのかわからない。
聞きたいことはたくさんあるけど、この人、教えてくれなさそう。
なんとなくそう思った。
三十分くらい乗っていたら、とある住宅街へ車が入って行った。
こんなところに何があると言うの?
数分ほど走ったところで車が停車した。
「こちらです」
こちらって……。
車から降り、亜蘭さんが歩いて行こうとしている先には、暗くても分かる古い木造アパートがあった。