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流石に1日も投稿しないのはまずいと思ったので(2回目)
投稿します!太宰女体化!心中だよ。
9000字以上あったよ(作者が一番驚いてるよ!!!)
窓の外では、朝から泣き出しそうな空がその耐えかねた重みに負け、すべてを押し流すような土砂降りの雨を降らせていた。
太宰治は、重厚な木彫りの鏡台の前に座り、一筋の乱れもなく髪を整えられている。背後に立つのは、幼少期から彼女に「淑女の嗜み」と「家名の重圧」を叩き込んできた厳しい年配の使用人だ。指先一つの動き、瞬きの回数に至るまで、太宰家の長女としての正解を求められる日々。呼吸をすることさえ、この屋敷の中では許諾が必要な儀式のように感じられた。
(……ああ、今日も雨だね、中也)
心の内で、その名前を呼ぶだけで、凍りついた胸の奥が微かに熱を持つ。
中原中也。スポーツ推薦の特待生として学園に君臨し、その鋭い眼光と近寄りがたい空気で周囲を威圧していた少年。けれど、偶然隣り合わせの席になったあの日から、彼は太宰にとって唯一の「酸素」になった。
学校という狭い箱庭の中で、二人は静かに、けれど激しく惹かれ合った。中也は、太宰が背負わされている芸事の数々や、家柄という名の鎖を笑わなかった。ただ、「お前、そんなに窮屈なら俺のところに来いよ」と、ぶっきらぼうに手を差し伸べてくれたのだ。
その手を取ってから、今日まで。
二人は純粋に、ただ一途に愛を育んできた。そこには、太宰が家で浴びるような打算も、中也が周囲から向けられる偏見も存在しなかった。ただ、魂が隣り合わせにあることの心地よさだけがあった。
「お嬢様、準備が整いました。旦那様がお待ちです」
使用人の冷ややかな声に、太宰は小さく頷いた。
今日は、彼女にとっての決別の日であり、あるいは完成の日になるはずだった。
応接間に足を踏み入れると、そこには既に中也が立っていた。
いつもより幾分か整えられた格好をしているが、その目つきの鋭さは隠せていない。彼の隣には、彼の両親も座っていた。対面には、太宰の父が、氷のような無表情で鎮座している。
「お父様、かねてよりお話ししていた、私の婚約者です」
太宰が凛とした声で告げると、室内の空気は一瞬で氷点下まで下がった。
中也は一歩前へ出ると、緊張で強張った顔ながらも、真っ直ぐに太宰の父を見据えた。
「中原中也です。治さんと、結婚させてください。俺が、彼女を一生支えます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、乾いた笑い声が部屋に響いた。太宰の父が、蔑むような視線を中也に向けたのだ。
「スポーツの推薦? どこの馬の骨とも知れぬ男が、我が家の娘を語るか。目つきを見ればわかる、野蛮な育ちだ。治、お前もお前だ。これほどまで教育を施してやりながら、選んだのがこのような泥にまみれた男とは。失望した」
「……父様、彼はそんな人じゃありません。彼は誰よりも優しくて――」
「黙りなさい!」
怒号が飛び、今度は中也の両親が口を開いた。彼らもまた、震える手で太宰を指差した。
「中也、あんたも目を覚ましなさい。こんなお高くとまったお嬢様が、あんたの苦労を分かってくれるわけがないだろう。名家の長女だか何だか知らないが、うちの息子をたぶらかして、将来を台無しにするつもりか!」
「母さん、言葉が過ぎるぞ!」
「いいえ、過ぎてなんかいないわ! 別れなさい、中也。今すぐ、この女と別れると言って!」
罵詈雑言が飛び交う。
中也を「野良犬」と呼び、太宰を「籠の鳥」と嘲笑う。互いの親は、相手が自分の子供にふさわしくない理由を並べ立て、その存在そのものを否定した。
純粋に愛し合っているという、ただそれだけの事実が、この大人たちの世界では何の価値も持たない。むしろ、その純粋さこそが、彼らの秩序を乱す毒であるかのように扱われた。
「別れろ」
「今すぐ縁を切れ」
四方八方から投げつけられる言葉の礫の中で、太宰と中也は、互いを見つめた。
絶望はなかった。ただ、深い理解があった。
この世界には、自分たちの居場所は一箇所も残されていないのだという、澄み渡るような確信。
中也が、そっと太宰の手を握った。
大人たちの怒声が最高潮に達する中、二人は同時に背を向けた。
「中也、行こう」
「ああ、行こうぜ。治」
後ろで叫ぶ親たちの声は、もう雨音にかき消されて届かなかった。
多摩川の土手は、荒れ狂う雨のせいで視界が白く霞んでいた。
増水した川は、普段の穏やかさをかなぐり捨て、うねる黒い龍のように轟々と音を立てて流れている。
ここは、二人が初めて出会い、言葉を交わした場所。
不器用な中也が、真っ赤な顔をして「好きだ」と告白した場所。
そして、震える唇を重ね、永遠を誓った場所。
太宰は、ずぶ濡れになった髪をかき上げ、隣に立つ中也を見た。
「今日が最後だね」
その言葉に、悲しみは混じっていない。
ただ、待ち望んだ終わりの合図を告げるような、甘やかな響きがあった。
中也はふっと笑った。
「最後じゃねえよ。これからずっと一緒なんだろ」
「そうだね。離れることなんて、もう二度とない」
二人はどちらからともなく、固く手を繋いだ。
指を絡め、体温を確かめ合う。土砂降りの雨は体温を奪っていくが、繋いだ手の内側だけは、驚くほど熱かった。
太宰は足元を見つめ、丁寧に整えられていたはずの高級な靴を脱いだ。
中也もそれに習い、履き慣れたスニーカーを蹴り出す。
裸足で触れる地面は冷たく、泥にまみれている。けれど、それが何よりも自由の証のように感じられた。
家柄も、期待も、失望も、才能も。
重たくのしかかっていたすべてを、この雨の中に脱ぎ捨てていく。
あとに残ったのは、ただの「中也」と「治」という、二つの魂だけだった。
「ねえ、中也。怖くない?」
太宰が尋ねると、中也は繋いだ手に力を込め、彼女を自分の方へ引き寄せた。
雨粒がまつ毛を濡らし、視界はもうほとんど効かない。それでも、目の前にいる最愛の人の瞳だけは、暗闇の中で輝いて見えた。
「お前と一緒なら、どこだって特等席だ」
その言葉を最後に、二人は短い接吻を交わした。
雨の味がする、けれどこの世で最も純粋な口づけ。
「……せーの、でね」
太宰の囁きに、中也が力強く頷く。
二人は手を離さないまま、荒れ狂う多摩川の淵へと歩を進めた。
一歩、また一歩。
足首を、膝を、そして腰を、冷たい奔流が飲み込んでいく。
「大好きだよ、中也」
「俺もだ、治」
どちらかともなく、どちらかが導くわけでもなく。
二人の体は、吸い込まれるように黒い水面へと没していった。
土砂降りの雨は止む気配もなく、すべてを等しく打ち据えている。
数分前までそこにいたはずの二人の姿は、もうどこにもない。
ただ、岸辺に取り残された二足の靴だけが、激しい雨に打たれながら、そこにあった命の証を静かに守っていた。
川の流れは止まることなく、すべてを飲み込み、遥か彼方の海へと運んでいく。
そこにはもう、彼らを縛る名前も、彼らを罵る声も存在しない。
ただ、溶け合った二つの魂が、永遠の安らぎの中で揺蕩っているだけだった。
豪雨が去った後の多摩川は、泥を孕んだ茶褐色の濁流となり、数日の間、狂ったように荒れ狂っていた。捜索隊の怒号とヘルメットのライトが暗い水面をなぞる。数日後、下流の岸辺に折り重なるようにして打ち上げられた二つの遺体が見つかった時、それらは死してなお、指を絡ませ合うようにして固まっていたという。その指を引き剥がすには、大の大人が数人がかりで取り組まねばならなかったという噂が、まことしやかに囁かれた。
事件の衝撃は、一瞬にして街を、そして学園を飲み込んだ。
太宰家の重厚な門扉の前には、連日、吸い殻を散らかす記者や野次馬が群がった。かつて「名家」として近隣の羨望を一身に集めていた邸宅は、今や「娘を死に追いやった冷酷な檻」として、好奇の視線に晒されている。
「あそこの家、お嬢様を厳しくしつけすぎて、心中の原因になったらしいわよ」
「芸事だなんだって、結局は親の道具だったんでしょうね。可哀想に、まだ十代だったのに」
近所の主婦たちは、生前の太宰治を「品行方正な完璧な令嬢」として褒めそやしていた口で、今はその死を格好の娯楽として消費している。家の中に閉じこもった太宰の父は、窓のカーテンを一切開けることがなくなった。家名の誉れを守るために娘を縛り上げた結果、その家名こそが泥に塗れ、呪いの代名詞となったのは、皮肉という他なかった。
一方で、中原中也の実家にもまた、容赦のない刃が向けられた。
「スポーツ特待生の息子が、名家の娘をそそのかして無理心中した」
そんな心ない中傷が、近隣の掲示板や回覧板の裏側で、粘りつくような悪意を持って拡散されていく。中也の両親は、自分たちが息子に向けた「別れろ」という叫びが、彼を濁流へと突き落とす最後の一押しになったことを、誰よりも自覚していた。彼らは、遺骨となった息子を抱えて、夜逃げ同然に街を去る準備を進めるしかなかった。
しかし、最も激しく、そして歪んだ形で彼らの死を「聖域化」したのは、ネットの海だった。
学園のクラスメイトたちは、事件の翌日から、憑りつかれたようにスマートフォンを叩き始めた。彼らにとって、中也と太宰はもともと、あまりに美しく、あまりに絵になる、教室の中の「偶像」だった。
『中也くんと治ちゃん、マジで心中したんだ……。信じられない』
『二人が付き合ってるの知ってたけど、あんなに純愛だったなんて。親が反対したせいで死ぬとか、現代のロミジュリすぎて泣ける』
『太宰さんの家、マジで毒親。あんな厳しい家で育ったら、中也くんみたいな光がヒーローに見えたんだろうな』
SNSのタイムラインには、二人の生前の写真や、遠くから盗み撮りされた登校風景が溢れかえった。中也が太宰の鞄を持ってやっている後ろ姿、太宰が中也の隣でだけ見せていた、あの嘘のない柔らかな微笑み。
『親たちが二人を人殺し扱いしてたって聞いた。最低すぎる。どっちの親も、一生罪悪感で苦しめばいい』
『二人は悪くない。悪いのは、二人を引き裂こうとした周りの大人たちだ』
ネット上の書き込みは、次第に過激な正義感を帯びていった。 クラスメイトたちは、自分たちが生前、二人とどれほど親しかったかを競い合うように書き込み、中也のぶっきらぼうな優しさや、太宰の孤独な美しさを神格化していった。 彼らにとって、二人の死は「純愛の完成」であり、それを阻んだ大人たちは「絶対的な悪」でなければならなかった。
学園の掲示板や、二人がいつも座っていた中庭のベンチには、誰が置くともなく花束や菓子が供えられた。それらは美しく飾られているようでいて、どこか薄気味悪い。生前、あれほど中也の目つきの悪さを敬遠し、太宰の隙のなさを遠巻きにしていた者たちが、死んだ途端に「私たちの誇りだった」と涙を流しているのだ。
「……ねえ、知ってる? 多摩川のあそこ、今でも雨の日に行くと、二人の声が聞こえるんだって」
教室の隅で、女子生徒たちが声を潜めて話している。
「『離さないで』って、二人が笑い合ってる声がするらしいよ。あんなに愛し合ってたんだもん。天国でもきっと一緒だよね」
それは、祈りというよりは、怪談に近い響きを持っていた。 人々は、二人の「どろどろしていない、綺麗な死」を消費することで、自分の日常にドラマチックな彩りを与えようとしている。
太宰治が毎日触れていたはずの鏡台も、中原中也が汗を流したグラウンドの土も、今はもう持ち主を失い、ただの物質としてそこに転がっている。 彼らが命を賭して守り抜いた「二人だけの世界」は、彼らが去った後、皮肉にも彼らを最も理解していなかった者たちの手によって、勝手に解釈され、美化され、物語として固定されていく。
太宰の部屋に残されていた日記には、ただ一行だけ、中也の筆跡に似た殴り書きで「お前がいれば、他には何もいらねえ」と記されていたという。しかし、その日記もまた、警察の証拠品として、あるいは両親の隠滅の対象として、誰の目にも触れることなく闇に葬られた。
世間がどれほど騒ごうと、ネットがどれほど燃え上がろうと、二人が求めた「静寂」がそこにあることはなかった。 ただ、親たちの家には、深夜になると止まない無言電話がかかってくる。 「あんたたちが、あの二人を殺したんだ」 その受話器越しの声は、かつて二人が聞いたどの言葉よりも冷たく、そして正しい残酷さを孕んでいた。
学園の卒業式。 二人の席は空席のまま、そこには一輪ずつの白い百合が置かれた。 校長は「志半ばで去った二人の前途を惜しむ」と、当たり障りのない弔辞を述べたが、その声は上辺だけの響きでしかなく、参列した保護者たちの間には気まずい沈黙が流れた。 生徒たちは、その様子をまたスマートフォンで撮影し、即座にインターネットへとアップロードする。
『卒業式。中也くんと治ちゃんの席に花。学校側の対応が遅すぎるって叩かれてるけど、やっとかよ』
『二人がいた場所だけ、空気が違う気がする。本当にかわいそう』
その「かわいそう」という言葉の裏側に、どれほどの無理解と残酷さが隠されているか、気づいている者は誰もいなかった。 二人は、同情されるために死んだのではない。 誰かの物語の一部になるために、入水したのではない。 ただ、誰にも邪魔されない場所へ、二人だけで行きたかっただけなのだ。
数ヶ月が経ち、季節が巡っても、多摩川の堤防には今もなお、新しい花が絶えることはない。 雨の日になれば、そこには決まって、透明な傘を差した若者たちが現れる。 彼らは、自分たちの退屈な日常を慰めるために、二人の悲恋を反芻する。 「あんなふうに愛し合って、死ねるなんて。ちょっと羨ましいよね」
その言葉が、水底に沈んだ二人の耳に届くことは、幸いにももうない。
太宰家の広大な庭には、手入れをされないままの雑草が伸び放題になり、中也がかつて所属していた部活動の部室には、別の新入生の名前が刻まれたロッカーが増えていく。 世界は、彼らを「可哀想な純愛の犠牲者」というラベルを貼った箱に閉じ込め、忘却と美化の海へと押し流していく。
かつて土砂降りの雨の中、二人が脱ぎ捨てた靴は、とっくに警察によって回収され、あるいは川に流されて消えてしまった。 けれど、今でも強い雨が降る夜、その場所を通りかかった者は、ふと、不思議な感覚に陥るという。 激しい雨音に混じって、楽しそうに笑い合う、少女と少年の声。 そして、泥にまみれた裸足で、どこまでも軽やかに駆けていく、二人の足音。
そこにあるのは、後悔でも、怨嗟でも、悲しみでもない。 ただ、誰にも侵されることのない、完成された「幸福」の残響だけだった。
彼らを罵った大人たちも、彼らを憐れんだクラスメイトたちも、その本質に触れることは決してできない。 二人は、あの豪雨の日に、この世界のすべてと引き換えに、自分たちだけの永遠を手に入れたのだから。 たとえ、残された世界がどれほど汚れ、醜い噂で溢れかえったとしても、その濁流が彼らの魂まで届くことは、二度とないのである。
「……ねえ、中也。外がうるさいね」
「気にするな、治。俺たちの声以外、聞く必要ねえよ」
そんな幻聴さえ、雨音の中には溶けて消えていく。 残された者たちは、これからもずっと、二人の死という「物語」を語り継ぎ、自分たちの孤独を癒やし続けるのだろう。 それこそが、美しすぎる死を選んだ二人に対する、この世界からの最大級の復讐であり、そして救いのない賛歌であった。
物語は終わった。 しかし、噂という名の雨は、今もなお、止むことなく降り注いでいる。
窓の外は、あの日と同じようなひどい雨だった。
ヨコハマの街を叩きつける濁流のような豪雨。それは、かつて多摩川の底へと沈んでいった二人の記憶を呼び覚ますには、あまりに十分すぎる舞台装置だった。
武装探偵社のソファに深く腰掛けた太宰治は、包帯に巻かれた手首を所在なさげに弄んでいる。窓を打つ雨音を聴きながら、彼はふっと、自分でも説明のつかない奇妙な既視感に囚われていた。
(……ああ、そうか。私は前にも、こうして雨の音を聞いていた気がするね)
それは、今の「太宰治」としての記憶ではない。 もっともっと古い、魂の澱に沈んでいたはずの、けれど結晶のように純粋な記憶。 どこか遠い時代、あるいは遠い場所で、自分は一人の少年と手を繋ぎ、この雨の中へ身を投げたのではないか。
「太宰。お前、またろくでもねェこと考えてんじゃねえだろうな」
低く、けれど聞き馴染んだ声が鼓膜を震わせた。 振り返るまでもない。そこに立っているのは、ポートマフィアの最高幹部であり、かつての相棒――中原中也だ。仕事の連絡か、あるいは単なる嫌がらせか。彼は濡れた帽子を払いながら、忌々しそうに太宰を睨みつけている。
「やあ、中也。こんな雨の日にわざわざ私に会いに来るなんて、相変わらず私のことが大好きだね」
「あァ? ぶち殺すぞ。首領からの伝言を届けに来ただけだ。……ったく、気味の悪いツラしてやがる」
中也は毒づきながらも、太宰の隣にドカリと座った。 二人の間には、かつてのような「家柄」も「親の反対」も存在しない。あるのは、光と闇に分かたれた組織の壁と、数え切れないほどの殺戮と、裏切りの歴史だ。
けれど、太宰は知っている。 この男の隣にいるときだけ、自分の肺が、現世の泥濁った空気ではなく、もっと澄んだ「何か」を吸い込んでいるような感覚になることを。
「ねえ、中也」
「あ?」
「君は、心中についてどう思う?」
唐突な問いに、中也は一瞬だけ、その鋭い碧眼を細めた。 いつもなら「死にたきゃ勝手に一人で死ね」と吐き捨てるところだろう。だが、今日の彼は、窓の外を流れる激しい雨をじっと見つめたまま、低く呟いた。
「……さあな。だが、もし本当にお互いそれしか道がなかったんなら、それは救いだったんじゃねえのか。誰にも邪魔されねえ場所へ行くためのな」
その言葉に、太宰の心臓が微かに跳ねた。 今の彼らは、互いを「相棒」と呼び、あるいは「宿敵」と呼び合う関係だ。どろどろとした愛憎も、組織の論理も、すべてを背負ってこの街に立っている。 かつての「純愛」などという言葉は、今の二人にはあまりに不釣り合いで、滑稽でさえある。
だが、どうしてだろう。 こうして雨の音を聞きながら隣り合っていると、自分たちの足元に、脱ぎ捨てられた二足の靴が見えるような気がするのだ。
(ああ、そうだったね。私たちは、あそこで一度完成したんだ)
名家の長女としての重圧に押し潰されそうだった自分。 スポーツに打ち込み、荒んだ目つきで世界を睨んでいた彼。 あの時、二人を繋いでいたのは、この汚れたヨコハマの空ではなく、もっともっと狭くて、けれど何よりも広い、二人だけの世界だった。
「中也。今世の私は、残念ながら女性ではないけれど……それでも君は、私を連れて行ってくれるかい?」
太宰がふざけたような口調で、けれどその瞳の奥に真剣な熱を灯して尋ねる。 中也は一瞬、呆れたように鼻で笑ったが、その直後、太宰の包帯に巻かれた手を、手袋越しに強く握り締めた。
「……野郎だろうが何だろうが、関係ねえよ。手前がどこへ行こうと、俺が引き戻してやるか、さもなきゃ地獄の底まで付き合ってやる。……それが相棒だろ」
その握り締める力の強さは、あの日、多摩川の淵で感じた熱と全く同じだった。 かつては、絶望の果てに二人で死を選んだ。 けれど今は、この呪われた異能力者の世界で、互いを呪い、愛し、傷つけ合いながらも、生きて隣に立っている。
「……嫌だね。相棒だなんて、そんな無粋な言葉で括らないでおくれよ」
太宰はそう言いながら、中也の手に自分の指を絡めた。 それは、かつて遺体となって発見された時に、誰にも引き剥がせなかったという、あの指の形。
「……ふん。勝手に言ってろ」
中也は手を振り払わなかった。 窓の外では依然として雨が降り続いている。 かつて、彼らの死を消費し、醜い噂を流したクラスメイトも、彼らを縛り付けた親たちも、もうこの世界線には存在しない。 ただ、生まれ変わってもなお惹かれ合い、寄り添わずにはいられない、二つの魂があるだけだ。
たとえ、名家のお嬢様と特待生の少年ではなく、探偵社とマフィアという、相容れない立場であったとしても。 彼らの魂の根底にあるものは、何一つ変わっていない。
「ねえ、中也。雨が上がったら、少し歩かないかい?」
「……勝手にしろ。だが、川には近づくなよ。手前、また飛び込む気だろうが」
「ふふ、どうかな。でも、今度は中也がしっかり捕まえていてくれないと、困るよ」
太宰の言葉に、中也は「当たり前だ、クソ太宰」と小さく毒づいた。
あの日、土砂降りの雨の中で終わった物語は、今、このヨコハマの地で新しい頁を綴り始めている。 それは、心中という形での「完成」ではなく、生きて、抗って、隣に居続けるという、より困難で、より苛烈な「純愛」の物語だ。
二人は、誰にも聞こえない声で、かつての記憶に別れを告げる。 あの時脱ぎ捨てた靴は、もう必要ない。 今の彼らは、血に塗れたこの地面を、自らの足でしっかりと踏み締めて進んでいくのだから。
雨は、次第に小降りになっていった。 雲の切れ間から、微かな光がヨコハマの港を照らし始める。
「行こうか、中也」
「ああ。遅れんじゃねえぞ」
二人は、繋いでいた手を一度解き、けれど互いの存在を背中で感じながら、同時に歩き出した。 生まれ変わった世界。 そこには、かつての二人を苦しめたものは何一つない。 ただ、隣に並び立つ「太宰治」と「中原中也」という、唯一無二の事実だけが、光の中に刻まれていた。
かつて心中を遂げた二人が、来世で手に入れたもの。 それは、永遠の眠りではなく、共に生きていくための、終わりのない闘争の美しさだった。
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