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不器用な優しさの中也が大好きです
夜の帳が降りた横浜の街は、潮騒と排気ガスの匂いが混じり合っている。
港の近くにある中原中也の隠れ家の一つ、その最上階の部屋は、遮光カーテンによって外の世界と完全に切り離されていた。
室内には、熱を帯びた空気の残滓が漂っている。
シーツは乱れ、枕は床に落ち、部屋の主である中也は、乱れたシャツを適当に羽織った状態でベッドの縁に腰掛けていた。隣には、死んだように横たわる太宰治の姿がある。
いつものことだ。
嫌悪と執着を綯い交ぜにしたまま、重なり合い、互いの体温で存在を確認し合う。それ以上の意味など、この二人の間には本来必要のないはずのものだった。
だが、今夜は何かが違っていた。
「……おい、太宰」
中也が低く声をかける。
返事はない。ただ、太宰の肩が微かに震えていることに、中也は気づいていた。
普段なら「死に損なった」だの「中也の顔が醜い」だの、減らず口の一つも叩く男だ。それが、シーツを握りしめたまま背を向け、沈黙を守り続けている。
異変を感じた中也が、太宰の肩を掴んで無理やりこちらへ向かせた。
「おい、聞いてんのか……」
言葉が止まる。
中也の瞳に映ったのは、感情の決壊した太宰の顔だった。
包帯の隙間から溢れ出た涙が、頬を伝って枕を濡らしている。
太宰は声を上げることもなく、ただひたすらに、ボロボロと大粒の涙を零していた。その瞳には、いつもの虚無も、人を食ったような余裕もない。ただ、形のない透明な痛みが溢れ出しているだけだった。
「……は?」
中也は呆然と呟く。
あの太宰治が、泣いている。
拷問を受けても、死の淵を彷徨っても、決して見せることのなかった「弱さ」の象徴が、そこにはあった。
ぴちょん。
涙がシーツに染み込む小さな音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
「太宰、貴様……どこか痛むのか。怪我でもしてたのかよ」
中也の声が、柄にもなく上擦る。
普段は物理的な破壊を専門とする彼にとって、形のない心の崩壊をどう扱えばいいのか分からない。焦燥感が胸を突き上げる。中也は太宰の胸倉を掴みかけた手を止め、代わりにその細い肩を抱き寄せた。
「言えよ、何があった。誰に何された」
太宰は首を振る。
しゃくりあげることさえ忘れたように、ただただ涙が止まらない。
その姿は、あまりにも無防備で、あまりにも脆かった。
「……あ、あ、……」
太宰の唇が震える。
何かを言おうとして、言葉にならない吐息が漏れる。
「ゆっくりでいい。言え」
中也は太宰を包み込むように腕に力を込めた。
重力使いの手は、戦場では人を容易く握り潰すが、今は壊れ物を扱うように慎重だった。
「……ちゅう、や……」
かすれた声。
自分の名前を呼ばれた瞬間、中也の心臓がどくん、と大きく跳ねた。
「ああ、ここにいる。横にいるだろうが」
「……きえて、しまうと、おもったら……」
太宰の手が、迷子のように泳いだ後、中也の羽織ったシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
指先が白くなるほど、強い力だった。
「消えねぇよ。俺を誰だと思ってやがる。重力使いの中原中也だ。貴様を置いて、勝手に死んだりしねぇ」
「うそだ……。いつか、だれもいなくなる……。おださくも、あいつも、みんな……。きみも、いつか、わたしの、とどかないところに……」
ぽろぽろ、と。
太宰の目から、堰を切ったように再び涙が溢れ出した。
その言葉を聞いて、中也は理解した。
これは、事後の弛緩した意識の中で、太宰が普段張り巡らせている防壁が完全に消失してしまった結果なのだと。
賢明すぎるがゆえに、失うことを恐れ、手に入れることを拒んできた男が、ついさっきまで触れていた「生の熱」のあまりの温かさに、耐えられなくなったのだ。
満たされれば満たされるほど、それがなくなった時の絶望を予感してしまう。
太宰治という怪物は、愛されることにさえ恐怖を感じるほど、繊細な子供のままだった。
「……馬鹿野郎」
中也は太宰の頭を自分の胸に押し付けた。
太宰の額から、熱い涙が中也の肌に伝わる。
「いいか、太宰。よく聞け。俺は貴様の犬でもなければ、ただの相棒でもねぇ」
中也は太宰の耳元で、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「俺は、貴様の隣に立つために生きてんだ。貴様が地獄に落ちるなら、俺が重力ごと引き摺り戻してやる。貴様が虚無に呑まれそうなら、俺がその横面を張り倒して現実に繋ぎ止めてやる。……俺を、信じろ」
「……しんじ、られな、い……」
「なら、叩き込んでやるよ。何度でもだ」
ちゅ、と。
中也は太宰の涙で濡れた目蓋に口付けた。
次に、鼻筋、頬、そして震える唇に。
優しく、けれど有無を言わせない確かな重みを持った口付けだった。
「……うう、……あ、……」
太宰の口から、ようやく小さな嗚咽が漏れた。
感情を外に出す方法を知らない男が、初めて声を上げて泣き始めたのだ。
うわああん、という子供のような泣き声ではない。
ひっ、ひっ、と、喉を詰まらせ、肺の中の空気をすべて吐き出すような、苦しげな泣き声。
「そうだ、出せ。全部吐き出せ」
中也は太宰の背中を、一定のリズムでぽん、ぽんと叩き続けた。
大きな猫をあやすような、あるいは幼子を寝かしつけるような、不器用ながらも深い愛情の籠もった動作。
太宰は中也の胸に顔を埋め、わんわんと声を上げて泣いた。
これまで隠してきた孤独も、恐怖も、届かなかった祈りも、すべてを涙に変えて流していく。
中也のシャツは、瞬く間に太宰の涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れたが、中也は一向に気にする様子もなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
部屋の隅にある時計が刻むカチカチという音だけが、過ぎ去る時を告げていた。
やがて、太宰の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
肩の震えが収まり、握りしめていた中也のシャツからも力が抜けていく。
「……落ち着いたか」
中也が静かに尋ねると、太宰は小さく頷いた。
顔を上げると、その目は真っ赤に腫れ上がり、鼻の先も赤くなっている。絶世の美青年も、今はただの見窄らしい泣きべそ面だった。
「……ひどい、かお」
太宰が、掠れた声で微かに笑う。
「ああ、酷い顔だ。鏡を見せてやりたいぜ」
中也は呆れたように言いながらも、指先で太宰の目尻に残った涙を拭った。
「……中也」
「あ?」
「……きもちわるい」
「……っ、この野郎、せっかく人が慰めてやってりゃ……!」
「ちがうよ。……わたしの、なかが、きもちわるいんだ。こんな、得体の知れない熱いものが、ずっと詰まっていて……」
太宰は自分の胸を押さえた。
そこには、自分一人では決して生み出すことのできなかった、中也から与えられた温もりが居座っている。
「それは『安心』って呼ぶんだよ、馬鹿」
中也は鼻で笑い、再びベッドに横たわった。
そして、隣にいる太宰を、今度は背後から腕を回して抱きかかえる。
「……重いよ、中也」
「黙れ。逃げられないようにしてんだよ。貴様、隙を見て入水しに行きそうな面してるからな」
「……ふふ。……バレたかい」
嘘だ。
今の太宰には、死にに行く気力など微塵も残っていない。
ただ、中也の腕の中で眠りにつきたいという、至極平凡で人間的な欲求に支配されていた。
太宰は、中也の腕の中で心地よい重みを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に焼き付いているのは、自分を必死に繋ぎ止めようとした、青い瞳の輝き。
「……中也」
「なんだよ」
「……だいすき、だよ」
唐突な告白。
普段なら「死ね」「反吐が出る」と返すはずの中也だったが、今夜だけは、言葉の裏を探るのを止めた。
「……知ってるよ、んなこと。俺もだ」
ぶっきらぼうな返事。
けれど、太宰の腰を抱く腕の力は、先ほどよりも少しだけ強くなった。
すぅ、すぅ、と。
規則正しい寝息が聞こえ始める。
太宰は、生まれて初めて、明日が来ることを恐れずに眠りにつくことができた。
隣には、自分を重力で地面に縛り付けてくれる、世界で唯一の理解者がいる。
しん、と。
静まり返った部屋の中で、二人の心臓の音だけが、重なり合うように響いていた。
夜明けまでは、まだ時間がある。
この静謐な闇の中で、彼らはただ、互いの存在を分かち合っていた。
言葉にしなくても、涙がすべてを物語っていた。
彼らは、どこまでも歪で、けれど誰よりも強く、愛し合っていた。
朝日がカーテンの隙間から差し込む頃、太宰はきっとまた、いつもの食えない表情に戻っているだろう。
中也もまた、いつものように怒鳴り声を上げているに違いない。
けれど、この夜に流した涙の跡は、二人だけの秘密として、この部屋の空気の中に溶けて残っていく。
ふわ、と。
太宰の髪を、中也の指先が優しく撫でた。
夢の中でも、太宰は中也の手を離さない。
横浜の街は、今日もまた、騒がしい一日を迎えようとしていた。
だが、この小さな部屋の中にだけは、永遠にも似た穏やかな時間が流れていた。
二人の影は、朝日に照らされて一つに重なり、溶け合っていく。
それは何よりも美しく、重たい、愛の形だった。
「……おやすみ、太宰」
中也の小さな呟きは、眠りに落ちた太宰の耳に届いたのか。
太宰の口元が、幸せそうに、ほんの少しだけ、緩んだような気がした。
ぱちり、と。
外で何かが爆ぜる音がした。
けれど、二人が目を覚ますことはなかった。
深い、深い、安らぎの中で。
彼らは、互いの魂を繋ぎ合わせたまま、光の海へと漕ぎ出していった。
コメント
1件
やべぇ♡一個もついてねぇわ