煉瓦作りの金沢芸術村の表駐車場は大通りに面し、芝生広場を煌々と照らす照明で陽が落ちても明るい。それに反して職員が利用する裏手の駐車場は18:00にはチェーンが掛けられてしまう為、一般の利用者も無く位置的にもJR北陸本線の高架橋下とあって暗く人目に付き難い。
指定された時間の5分前、その場所には誰の姿も無く西村はタクシーのヘッドライトを消して《《あの女》》が智を連れて現れるのを待った。
ジャケットの胸ポケットに入れた《《私用携帯電話》》には金沢中警察署の久我という警察官の携帯電話番号を表示した。
助手席には100万円を入れた白いポリエチレンの袋、その下には青いバインダー、その下には刃を剥き出しにしたカッターナイフを忍ばせた。
コンコンコン
「あ、済みません。これ予約車なんで」
振り返るとそこには《《金魚》》の2つの碧眼が後部座席の窓からこちらを凝視していた。この寒空にノースリーブの膝丈ワンピース、裾に向かってふわりと風船みたいに広がってから|蕾《つぼ》む。
|既視感《デジャヴ》。
初めて《《金魚》》を有松の岡田病院に迎えに行ったあの朝と同じだ。けれど今《《金魚》》の手には向精神薬が入った白い袋では無く、左手にはアイスピックが握られ、顔面蒼白な智の首に向けられて居る。
智の右の口元は切れ、頬は腫れて、目の周りには青アザが出来ていた。
「と、智」
「ひろ、ひろ、と」
怯えた目が西村に助けを求めるが手も足も出ない。運転シートの右下、座席足元のハンドルを上げて後部座席のドアを開けると智の襟元をがっしりと掴んだ《《金魚》》が滑るように乗り込んで来た。飴のような甘い匂いがふわりと広がる。
「西村さん、如何してあの夜迎えに来てくれなかったの」
責める様な朱音の声に、西村の喉仏がゴクリと上下する。足元のハンドルをゆっくりと下ろすと後部座席のドアがパタンと軽い音を立てて閉じた。エンジンとエアコンの音がブルブルブルブルと足元から伝わって来る、いや、西村の膝がガクガクと震えて居るのだ。
「あ、あの夜って?」
「すごく雨が降っていた日。風もすごく吹いてた」
「あ、あぁ。あの夜はお客さんが多くて、間に合わなかった、んだ」
「そうなの」
朱音はゴソゴソと左のポケットを弄ると鈍く光る小さな何かを取り出し、西村の横顔に青白い腕を伸ばした。西村が眼球を左に動かし目を凝らすとそれは1枚の泥で汚れたSDカードだった。
「・・・・あ」
「酷いの、西村さんの代わりに来た黒い眼鏡を掛けた人」
「お、太田」
「うん。嫌だって言うのに、すごく痛い事したの」
「お、太田を・・・した・・のは朱音、なのか」
朱音は感情の無い碧眼の瞳でルームミラーの西村の目を見て呟く。
「棒で叩いたら動かなくなったの」
「そ、それで」
「邪魔だったから捨てた」
智が嫌だと言わんばかりに小さく首を振る。すると朱音は智の髪の毛を掴んで上を向けさせると、アイスピックをぎゅっとその肌にめり込ませた。白く柔らかな肌が窪む。
「SDカード、何で持って帰って来た」
「だって、西村さんに《《あんな所》》見られたく無かったの」
「あんな所?」
「そう、無理矢理させられたの」
やはり太田が朱音に性行為を迫り、そして殺された。
「私が《《あんな事》》されたら西村さん悲しむでしょ」
「か、悲しむ?」
「だって西村さん、私の恋人でしょう」
「え」
「愛し合ってるんだもの、悲しいよね」
「そ、それは」
「ここで何度もセックスしたじゃない」
「そ、れは」
「好きだって、朱音にこれからもずっと一緒に居てって言ったよ」
慌てて後部座席を振り返ると智の目が驚きと絶望で見開いていた。バレた、不倫している事が智にバレた。頭がガンガンする。視界が揺らぐ。
「言ったわ」
「あ、朱音、やめてくれ」
「好きだって言ったよね」
「それ、は」
「何度も何度もここでセックスしたよね」
「ひ、ろと、ほんと、なの?」
朱音の言葉が信じられないという表情の智の口元が震えている。これまで隠し通してきた事が|詳らか《つまびらか》に明るみに出る絶望感。
「朱音、やめてくれ」
「それに西村さん、私の中に出したよね」
「え」
「最後に、グチャって、私の中に出す時が気持ち良いんだって」
「・・・・裕人、何・・で?」
「うるさい!あんたは黙ってて!!」
朱音は智の首筋にアイスピックを突き付けたまま、右手でその顔を思い切り叩いた。「うっ。」と智の痛々しい呻き声が後部座席から漏れる。
「朱音。頼む、やめてくれ」
「西村さん、私ね、お腹に赤ちゃんが居るの」
「赤ちゃん?」
「生理が来ないの、ずっと前から」
「え」
「そう。西村さん、お父さんになるんだよ」
そうだ。
これまで迎えに行く度に性行為に及んでいたが、彼女が生理だった事は1度も無かった。初めて、初めてあの河原でセックスした時に妊娠したのか?いや、あの時は外に出した。40万円を渡したあの夜に《《出来た》》のか?
西村が信じられないという顔でゆっくりと背後を振り向くと、そこには小さくて赤い唇を舌舐めずりしながら華奢な脚を組み、妖しく微笑む《《金魚》》が居た。
西村はその美しさに一瞬見惚れた。そして、この妖艶な魅力に取り憑かれ快楽に溺れた挙句、《《金魚》》を孕ませた自身の愚かさを呪った。
(太田を殺した女、殺人犯が俺の子を妊娠した!?産む!?)
狼狽した西村は思わず助手席の白いポリエチレンの袋を手に取り朱音の前に差し出し肩を震わせながら必死に懇願した。
「あ、朱音。ここに100万円ある。40万円の契約はお終いだ、残りの60万円でその、その腹の子、堕してくれ。頼む、頼む!」
朱音は左手のアイスピックを大きく振りかざすと後部座席の革のシートにぶすりと突き立てた。
「ひっ!!」
智の恐怖に満ちた声。朱音はその袋を無言で受け取り、ニッコリと微笑んだ。
「100万円、ありがとう。西村さん、優しい」
「お、堕してくれるのか」
朱音が思いの外すんなりと金を受け取ってくれた事に西村は安堵したが、それは次の瞬間、脆くも崩れ落ちた。
「でも、赤ちゃん、居なくならないと思う」
「な、何で」
朱音はまだ膨らみの目立たない腹を大切そうに摩った。
「私、未成年になるのかな。違うのかな」
「未成年だったら何なんだ」
嫌な汗が額に滲む。
「未成年だとお父さんが”いいよ”って言わないと手術出来ないんだって」
「ほ、保護者って事か?」
後頭部を殴られた様な気がした。そうだ、すっかり忘れていた。朱音は未成年、いや、もう19歳の筈だ。
(それなら、成人扱い)
いや、その年齢も朱音が言った事だ。本当か如何かも分からない。未成年だとしたら、罪に問われるのか?もしかしたら父親が警察に通報するかもしれない。
「お、お父さんに・・・た、頼んでくれ」
「無理よ」
何度か朱音をタクシーで送り届けたあの見窄らしい家が脳裏に浮かんだ。ギャンブルで作った借金を返済する為に自分の娘をソープランドに売り払う様な人間に話が通じるだろうか。逆に金を|強請られる《ゆすられる》のではないか。それでも不倫で、しかも殺人犯の子どもが生まれるよりは良い。
「朱音、俺も一緒に頼みに行くから。頼む」
「無駄だと思う」
「ど、如何して」
朱音は左手でアイスピックをシートから抜くと、智の喉元にキラリと光るその尖った先端を当てた。
「お父さん、もう居ないよ」
「何処か行ったのか?」
「だって、殺しちゃったんだもん」
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