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スタッフ用の通路は、客用ロビーと比べると随分と照明を落としてある。

薄暗いというほどではない。

むしろそのおかげでガラス窓の向こうの裏庭にひっそりと咲くアネモネの蕾が輝いて見えた。


ホテル専属の庭師が丹精込めて育てているのだろう。

花を咲かせたら、きっとエントランスを飾る彩りとなるに違いない。


「ふぁあ……」


視界が不意にぼやけたのは、梗一郎が大きな欠伸をしたせいだ。

涙で景色が滲む。


噛み殺していた欠伸が、休憩時間に入ったと同時に連続して襲いかかってくる。


夕べは荒物屋のアルバイトが遅番だった。

そのうえ、スーパーの早朝品出しで早起きをしたせいで睡眠不足なのだ。


急いで大学に走ったものの、花咲蓮の「日本史BL検定対策講座」は本日は休講であった。

講師の蓮が学界の発表のため休みなのだとモブ子らに聞いてがっかりしたものだ。


このあいだの告白を、おそろしいまでの天然パワーで流された梗一郎としては、せめて一目なりと蓮の顔を見たいと思ったのだが仕方がない。


会えるなら幻だって構わないのだが、梗一郎の前にちらつくのはモブ子らの顔ばかり。

コミケというものにゲンコウが間に合わないと叫ぶ彼女らは、梗一郎の手伝いを期待しているようだった。


冗談じゃないと彼女らを撒いて大学を出ると、午後はホテルの備品補充係のアルバイトである。

シフトは夕方までだ。

これが終われば今日の予定は終わりだが、まだ午後の二時すぎだった。

解放されるまでは今すこし時間がある。


「少しでいい。寝よう……」


スタッフ休憩室は騒がしいうえ、周囲から話しかけられるので一人グーグー寝ることはできない。

かといって制服を身に付けたスタッフが休んでも構わない静かな所などなかなか見つかるものではなかった。


「ふぁぁああぁ……」


眠気はそろそろ限界である。

バイトに明け暮れているためばかりではない。

睡眠不足の理由はほかにもあった。


「先生にもらったボールペン」である。

これが鞄の中にないことに夕べ気付いたのだ。

ウサギとカエルのヘンテコなイラストが描かれているのだが、梗一郎にとっては大切なものだ。


蓮の部屋ほどではないが、梗一郎もまめに掃除をするタイプではない。

アパートの狭い室内は鞄や本、買い置きの日用品で溢れかえっていた。


家具の隙間に入ってしまったのだろうかと、夜中に家探ししたせいで夕べは夜更かしをしてしまったのである。

外では使っていない。

だから、家のどこかにあるはずだ。

仕方がない。続きは明日にしようと諦めて布団に入ったのは三時を過ぎていたっけ。


「ふぁぁああぁ……」


噛み殺すごとに漏れ出る欠伸。

五分でも構わない。

昼寝をしなくては、とても夕方までもたないだろう。


人に見つからないように気を付けながら裏庭に転がっていようと、梗一郎はスタッフ用通路にある扉をそろりと開けた。


「………………?」


霞む視界の向こうに人影を見つけ、梗一郎は開けた扉をそっと閉める──瞬間、その

動きが止まった。


裏庭には成人男性にしては少々小柄な影が、立ったり座ったりと実に不審な動きをしていたのだ。

あちらを向いているため顔は見えない。

しかし見覚えのある姿である。


右手を振り回しているのは、空中に文字を書いているのだろうか。

そうこうするまに、左手でその空間をつまむような仕草をしては両手で口元を覆っている。

そのたびに大きなリュックが背中で激しく揺れるのだ。


「……先生?」


小さな呟きは、嬉しさよりも不信感が強いことを示していた。


梗一郎の声に、その人物は可哀想なくらいビクリと全身を震わせる。

あげくピョンと木の影に隠れてしまった。


「……花咲先生、ですよね」


返事のつもりだろうか。「はぁぁっ!」なんて叫んでいる。

蓮の声に間違いない。

どうやら、会いたいがあまりの幻ではなさそうだ。


通用口の隙間から、梗一郎はするりと身を滑らせた。


「先生、こんなところでお会いできるなんて。今日は休講だったので残念だなって……先生?」


やあ、風邪はどうだい──なんて、いつもの調子で返してくれるかと思いきや、蓮は小動物のように周囲をキョロキョロと窺い始めた。


「き、効かないんだよっ」


「……効かない、とは?」


ブンッと音たてて蓮はこちらを振り返った。

ただし、梗一郎を見てはいない。

視線は遠くを泳いでいた。


「はわわ……。人って字を書いて、それを飲みこむと緊張しないっていうから。やってみたけど全然で。よく考えたら効くわけないんだよ。そんなマジナイが」


「はぁ……」


「人のことは、畑に転がってるジャガイモって思えっていうけども。でもジャガイモは地面の下にできるから、状況が分からなくて」


「はぁ……?」


蓮は独りよがりにまくしたてる。

一体いつ息継ぎをしているのかと思うくらいの早口だ。


どうやら見えてきた──梗一郎が小さく頷いたのは、バックヤードに貼られた予定表に二日に渡って「なんとか史学会」と書かれていたのを思い出したからだ。


「なんとか」の部分はどうしても思い出せないのだが、今は些細な問題である。


「先生、……史学会に出席されるんですね。大丈夫ですか?」


「だいじょうぶなもんか!」


蓮はそこだけ、やけにはっきりと声を張り上げた。


「一夜漬けで論文なんて書けるわけなかったんだよ。こんな立派なところで俺の書いたものなんてゴミみたいなものだよっ……」


「先生? 先生落ち着いて」


「馬鹿にされるだけじゃない。めちゃくちゃ怒られるに決まってるんだ。日本史を馬鹿にするなって、偉い先生にこっぴどく怒られて仕事もクビになってアパートも追い出されて……」


「先生、大丈夫だから落ち着いて……」


躊躇ったものの、梗一郎は蓮の両肩をつかんだ。

揺すってみたら「ハッ!」なんて息を呑んでいる。

【改訂版】ここは花咲く『日本史BL検定対策講座』

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