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Side佐久間
α(アルファ)、β(ベータ)、そしてΩ(オメガ)。
この世界では、誰もが生まれながらにして“第二性”を持っている。
生まれた時にはまだ分からないけど、思春期の入り口で、身体は勝手に分類されてしまう。
どれがいいとか悪いとか、本当はそんなものないって言うけど――現実は、そんなにきれいじゃない。
俺は、Ωだ。
中学一年の冬。
突然、体が熱くなって、呼吸が浅くなって、何も考えられなくなった。
それが「ヒート」ってやつだった。
保健室に運ばれて、検査されて、その結果が出たとき、俺の世界はひっくり返った。
「オメガは大変だね」
「でもフェロモンで男誘えるんでしょ?」
「うちの子には近づかないでね」
クラスメイトも、教師も、親ですら、少しずつ態度が変わった。
本当は誰も悪気なんてなかったんだろう。
ただ、「オメガ」であるってだけで、特別扱いにも、偏見にも晒される。
――そしてあの日、俺を守るって言ってたはずの“アイツ”が、
俺のヒートにつけ込もうとした。
幸い、何も起こる前に逃げられた。
でも、それ以来、信じられなくなった。
アルファも、フェロモンも、番(つがい)なんていう運命じみた言葉も。
だから、俺は誰にも言わない。
転校してきたこの新しい学校でも、
「俺はただのベータ」――そういう顔で笑ってる。
笑っていれば、大丈夫。
騙せるし、近づけるし、傷つけられない。
俺は今日も、フェロモン抑制剤を飲み込み、
鏡に向かって、いつもの“佐久・間大介”を貼りつけた。
「……よし、完璧っ!」
――――――――
「今日からこのクラスに転入してきた佐久間・大介くんです。じゃ、佐久間くん、自己紹介どうぞ」
「はーい! えーっと、みんな初めまして! 佐久間大介です! 前の学校では漫画研究会に入ってました! 好きな食べ物はカレーとパフェで、将来の夢は声優兼アニメーター兼アイドル! ……どれか一個叶えば儲けモンってことでよろしくねっ!」
教室がざわっと沸いた。
先生も思わず笑いをこらえてる。
いい感じ。このくらいの“軽さ”が、初日にはちょうどいい。
「なんかすごいテンション高くない?」
「さっくんって呼んでいい?」
「アニメ何見てんのー?」
数分前まで他人だったクラスメイトたちが、もうこんなに話しかけてくる。
こっちは話し慣れてるし、ノリも合わせやすい。
ツボを押さえて笑わせれば、あっという間に「話しやすい奴」になれる。
昼休みには「一緒に食べよう」って声をかけられて、
掃除の時間には「面白い雑巾の持ち方」とか言って盛り上げて、
帰りには「また明日ねー!」って何人にも手を振られた。
「……ふぅ」
誰も見てない廊下の隅で、少しだけ息を吐いた。
順調。すごく順調。
このペースなら、あと数日で“完全に馴染んだ転校生”になれる。
大丈夫。みんな、俺のこと、ベータだと思ってる。
誰も疑わないし、近づきすぎもしない。
俺がそう仕向けてるから。
「人気者は、楽しいよ。うん。楽しい、はず――」
笑顔を張りつけ直して、教室に戻る。
演じるのは得意だ。俺は、ちゃんとやれてる。
次に始まるのは、化学の授業。
知らない名前の先生が、黒板に何かを書いてる。
知らない名前の先生が、黒板に何かを書いている。
チョークがカツカツと音を立てる中で、
俺はいつものように教室の隅っこ――窓際の席に腰を下ろした。
その瞬間だった。
「――佐久間・大介くん、だよね?」
落ち着いた声が、すぐ横から聞こえた。
「ん?」
振り返ると、背の高い男子が一人。
清潔感のある黒髪、細縁の眼鏡。
着崩していない制服と、胸元には“生徒会”のバッジ。
「俺、生徒会長の阿部亮平。職員室で担任の先生に頼まれてきたんだけど……転校の書類、ひとつ確認が抜けてたみたいでさ。昼休みに生徒会室、来てもらえる?」
「おおっ、なんかちゃんとしてる人来た! 了解っす、生徒会長さん!」
軽く指を立てて返すと、阿部は一瞬だけ笑った。
控えめで、でもちゃんと届くような笑顔だった。
「“生徒会長さん”って初めて呼ばれたな。阿部でいいよ」
「じゃあ阿部ちゃんで!」
「いや、“ちゃん”は別にいらないけど……まあいいか」
ちょっと肩をすくめて、でもどこか和らいだ表情でそう言った阿部は、
再び静かに歩き出して、黒板の前へ向かっていった。
どうやら、今日の授業のアシスタントもしてるらしい。
……真面目なタイプ、なんだな。
(ふーん、なんか、変に優しいな。距離の詰め方、自然すぎ)
少しだけ、気をつけたほうがいいかも――
そんなふうに、俺の中で注意ランプが小さく点滅した。
阿部・亮平。
きっと、ちょっと厄介なタイプだ。
「ここが、生徒会室かー。うわ、きれい。ていうか本当に使ってるの? こんな片付いてんの珍しくない?」
「よく言われる。掃除は自分たちでしてるから、まあ…って、佐久間くん、座っていいよ。すぐ済むから」
「おっけー、ありがとーっ」
軽口を叩きながら椅子に腰を下ろす。
生徒会室ってもっと堅苦しいのかと思ってたけど、空気は意外と柔らかい。
窓際に並ぶファイルボックス、書類の山、色の統一された文房具。
几帳面な阿部ちゃんの性格が見える部屋だ。
阿部はデスクの引き出しから一枚の紙を取り出し、それをテーブルに置いた。
淡々と、でもどこか申し訳なさそうな表情で言う。
「ごめんね。転校手続きの書類、学校側の不備で一箇所だけ未記入だったところがあって」
「うんうん、どこ?」
「ここ、“第二性の申告欄”。君の第二性にチェックが入ってない」
……一瞬、時が止まった気がした。
「……あー、そこかぁ。あれ? 前の学校から引き継ぎされてなかったの?」
「通常はされてるはずだけど、“希望があれば再申告”って項目になってるみたいでさ。ベータとかオメガの場合、申請制の学校もあるし」
なるほど。わざと“抜かれてる”のか。
転校生がオメガだったとき、いきなりバレるのを避けるための措置。
でも、こっちにとっては正直ありがた迷惑な制度だ。
「……そっか。うーん、なんか面倒だなぁその制度」
「無理に今ここで書かなくてもいいけど。クラス担任にも伝えないでおくこともできる。ただ、保健室とかの対応上、申告はしておいた方が安全だと思う」
「へえ、生徒会長ってそこまで気を回すんだ。やさしーね」
「仕事だからね。あと、君が不安そうだったから」
「……え?」
「“第二性”って言ったとき、一瞬で顔が変わった」
息が詰まりそうになる。
やばい、表情――崩れた?
「……変わってないし。めちゃくちゃ元気だったじゃん俺」
「そう見えるけど、演技っぽい」
冗談みたいな口調。でも、目は笑ってなかった。
それ以上、深く聞いてくるわけじゃない。
けど、たぶん――この人、気づいてる。
「……後で提出しとくよ、その紙。今は、まだ書かない」
「わかった。それで大丈夫」
そう言って、阿部は紙をファイルに戻した。
その手つきは丁寧で、
優しいくせに、やっぱりちょっと――怖かった。
沈黙が一瞬、ふたりの間に落ちた。
紙をしまう音だけが静かに響く。
その沈黙を破ったのは、俺の軽口だった。
「ねえ、ところでさ」
「ん?」
「阿部ちゃんって、生徒会長だし、やっぱりアルファ?」
返ってきた答えは、少しだけ間があって――
苦笑いとともに。
「……うん、まあ、そうだよ」
「うわ、やっぱり! なんかそれっぽいもんね~! 成績良さそうだし、落ち着いてるし、リーダー気質っていうか?」
「そんなにテンプレ通りじゃないよ、俺」
阿部は軽く肩をすくめたけど、その笑みはどこか空々しく見えた。
それに気づいたのは、たぶん俺が“同類”だから。
「でも、アルファってやっぱり……なんていうか、自信満々な人多いじゃん? “自分が守る側”って意識強いっていうか」
「そういう人も、いるけどね。俺は、あんまり……」
そこまで言って、阿部は少し言葉を選んだ。
机の上で指を組んだまま、視線を落とす。
「守るとか、導くとか、そういう“役割”を期待されるのって、しんどいよ。
特に、自分がそれに向いてないんじゃないかって思ってる時は、なおさら」
「……へえ。意外」
「何が?」
「なんか、ちゃんと悩んだことあるタイプなんだなって」
「あるよ、そりゃ」
静かに返されたその一言に、妙にリアルな重みがあった。
完璧に見える人ほど、完璧じゃない部分を抱えてる。
そういうの、見つけるのは得意だ。
「じゃあ俺、阿部ちゃんのことちょっとだけ見直したわ」
「……なんで“ちょっとだけ”なんだよ」
「いや、全部見直すのはまだ早いでしょ? これからの行動次第ってことで」
「……ずいぶんハードル高いな」
そう言って、阿部ちゃんが小さく笑った。
笑うと、思ってたより柔らかい顔するんだなって、ちょっとだけ思った。
こっちが気を抜いたら、するっと入り込んでくるタイプの笑顔。
うっかりすると、信じたくなっちゃうような優しさ。
(……あぶないあぶない)
すぐに、自分の中のスイッチを切り替える。
そういうのにほだされて、ろくなことなかった。
信じたって、最後は裏切られる。
俺の“それ”が知られたとたん、みんな遠ざかっていった。
「じゃ、俺もう戻るねー。授業遅れちゃうし」
明るい声で立ち上がる。
阿部ちゃんもそれに合わせて椅子から腰を浮かせた。
「うん、ありがとう。あと、例の紙……気が向いたらでいいから、よろしく」
「うんうん、気が向いたらね~!」
にこっと笑って、ドアに向かう。
でも、手をかけたところで、ふと振り返ってしまった。
「阿部ちゃん」
「なに?」
「……さっきの話、ありがと」
そう口にした瞬間、自分でもちょっと驚いた。
言うつもりなんてなかったのに、口が勝手に動いた感じ。
阿部ちゃんは、一瞬だけ目を丸くしたあと、ゆっくり頷いた。
「……どういたしまして」
その声は、やっぱり優しかった。
だけどその優しさが、今の俺には少しだけ――怖かった。
ドアを開けて、廊下に出る。
静かな生徒会室の空気を背中に感じながら、歩き出す。
(うん、やっぱり。あの人、危ないな)
俺の“演技”に気づき始めてる。
あの目は、見てくる。奥まで。
アルファのくせに、押し付けがましくないし、距離感も変に上手い。
それが逆に、怖い。
「……関わらないようにしよ」
ぽつりと、誰にも聞こえないように呟いた。
――――――――――
「さくまー! 次の体育、またチーム一緒な!」
「やったー! 勝ったなこれ!」
「なんでそんなにバレーうまいの!?」
「んふふ、これでも中学時代はバレー部のエースだったのだ〜!」
笑顔と歓声の真ん中。
俺は、今日も“人気者”を演じてた。
新しい学校でも、それなりにうまくやってる。
いや、“うまくやらなきゃ”って、ずっと自分に言い聞かせてた。
明るく、元気に、みんなに好かれるように。
軽口で笑わせて、ノリよく騒いで、壁を作らせないように。
……でも、本当の俺なんか、誰も知らない。
昼休み、騒がしい教室を抜けて、屋上へ出た。
風が少し冷たくて、気持ちいい。
でも、身体の奥が、じんわり熱い。
(……あれ、なんか、だるい)
喉の奥が渇いて、手のひらがじっとりと汗ばむ。
下腹のあたりが、じわじわと火照ってきていた。
「……っ、まさか」
ポケットの奥に忍ばせていた“抑制パッチ”にそっと触れる。
朝、貼ってきたはずなのに──効き目が、弱い。
まだ数日は周期じゃないと思ってた。
でも、環境が変わると、狂いやすいって、医者に言われてた。
(やばい……軽く、来てる)
周りにアルファがいなければ、そこまで強くは出ないはず。
でも、万が一がある。
ひとたび匂いが漏れたら、隠し通してきたものが全部バレる。
「……ふざけんな、なんで今……っ」
胸の奥がきゅっと締め付けられて、息がうまくできない。
あの日の記憶が、一気にぶり返す。
“気持ち悪い”
“なんでオメガが男なんだよ”
“お前のせいでうちのクラス、変な空気になったじゃん”
笑いながら吐き捨てられた言葉たち。
皮膚の奥にこびりついたみたいに、ずっと離れない。
(もう、やだ……バレたくない)
スマホを取り出して、トイレか保健室へ逃げようかと考えたそのとき。
階段の扉が開く音がした。
「佐久間?」
聞こえたのは、落ち着いた、でもどこか驚いた声。
振り返る前からわかった。
阿部ちゃんだ。
(……最悪)
この中で、最も嗅覚が鋭いはずのアルファ。
そして、最もバレたくなかった相手。
(頼むから、気づかないで)
そう願った瞬間、
冷たい風が、ふわりと俺の首元をなでた。
それと一緒に、わずかに甘く湿った、
“オメガ”特有のフェロモンが、空気の中に溶けていった。
阿部ちゃんの足音が、屋上に近づいてくる。
俺は、どうしようもなく追い詰められていく。
「佐久間……?」
阿部ちゃんの声が、思ったより近くで響いた。
顔を上げる余裕なんてなかった。
背を向けたまま、柵にもたれてやり過ごす。
逃げるには、もう遅い。
(バレたかも……)
脇腹にじっとりと汗が張りついてる。
息は浅く、喉の奥が焼けるみたいに渇いている。
この感じ──間違いなく、ヒートの入り口。
「……顔、赤いな。大丈夫?」
(やっぱ気づいてる)
阿部ちゃんの足音が止まった。
少しだけ、距離を置いたまま。
「……貧血とか? それとも……」
「……なんでもないよ」
かすれた声で言うと、自分でも笑えるくらい不自然だった。
強がったって、誤魔化せてないのはわかってる。
それでも、追い詰められた犬みたいに、反射的に噛みつくしかなかった。
「ほっといてくんない?」
「わかった」
即答だった。
あまりにあっさりしたその一言に、逆に虚を突かれた。
「え……?」
「無理に何か聞くつもりはないよ。ただ……」
言いながら、阿部ちゃんはゆっくりと、
屋上のベンチに腰を下ろした。
俺から、数メートルは離れた位置。
風上にも立たない。完全に“気を遣った”距離。
「俺、もう少しここにいるね。何も言わないから。君が落ち着くまで、ただいるだけ」
その言葉に、心のどこかがぐらついた。
「……なんでそんなことするの。俺のこと、何も知らないのに」
「知らないけど……君が“ひとりで隠そうとしてる顔”は、なんか、見てられない」
やさしい声音だった。
でも、それが一番困る。
やさしさなんか向けられたら、俺、弱くなる。
それで信じて、裏切られて、全部壊れてきたのに。
(……やめてよ)
そう言いかけて、言葉が喉に引っかかった。
……いや。
阿部ちゃんは、何もしてない。
ただそこにいるだけで、“助けようとすらしてない”のに。
それでも──その“ただの存在”が、
どうしようもなく、ありがたく感じてしまった。
ふと、風が止んだ。
甘い匂いも、一瞬だけ消えた気がした。
「……ねぇ、阿部ちゃん」
「ん?」
「……あの紙、今度出すよ。ちゃんと。だからさ、今日はこのまま……」
「うん、わかった」
最後まで言わせないうちに、優しい声が返ってきた。
それが、なんだかすごく救われた気がして、
俺はやっと、深く息を吐いた。
たった数メートルの距離。
そこに誰かが“何も言わずにいてくれる”ことが、
これほどまでに、温かいなんて。
俺はまだ、この世界に期待しちゃいけないって思ってたのに。
(……やばいな、これ)
あの目。
あの声。
“あの人”だけは、今までの人たちと違うかもしれない──
そんな希望を、知らないうちに抱きかけている自分がいた。
風が止んだ屋上で、体の奥がじくじくと疼いていた。
さっきまでは「軽く」だったはずの火照りが、急に熱を帯び始める。
呼吸が浅くなり、意識が身体の芯に引きずられていく。
(おかしい……こんな、急に……っ)
ヒートは周期に合わせてくるものだと思ってた。
それが、こんなにも感情や状況に引っ張られるなんて──知らなかった。
皮膚が薄くなるような感覚。
服の擦れる感触すら、耐え難くて。
「あ……ぁ……」
喉から、堪えきれずに声が漏れる。
足元がふらついて、膝が崩れそうになる。
視界の端で、阿部ちゃんが立ち上がるのが見えた。
「佐久間!」
「……っ、こないで……!」
声を張ったつもりなのに、かすれた吐息にしかならなかった。
それでも阿部ちゃんは一歩も近づかず、じっと俺の目を見ていた。
その眼差しが、苦しいほどやさしくて──
(……だめだ)
こらえきれなかった。
もう逃げ場なんてなかった。
「……お願い」
気がつけば、俺はふらふらと阿部ちゃんに近づいて、
その手を、掴んでいた。
「助けて……お願い、阿部ちゃん……」
俺の指先は震えていた。
でも、それでも掴んだ。自分から。
阿部ちゃんの目が、揺れた。
葛藤してるのがわかる。
でも、振り払わなかった。
「ここは、だめだ」
そう言って、そっと俺の肩に手を添えてきた。
柔らかくて、でもしっかりした手だった。
「歩ける?」
「……うん」
腕を借りて、階段を降りる。
時間帯と場所を考えて、誰にも会わないように、人気のない旧校舎の方へ。
阿部ちゃんが開けたのは、使われていない準備室。
扉を閉めて鍵をかけたその瞬間、
抑えていたものが、とうとう崩れた。
「……っ、だめ……もう、無理」
目の奥が熱くて、思考がまとまらない。
欲しくて、苦しくて、怖くて。
でも、それでも──
「お願い、阿部ちゃん……触れて……抱いて……」
懇願なんてしたくなかった。
でも、自分の体がもう限界だった。
「……っ、わかった」
低く、決意をにじませた声だった。
次の瞬間、腕の中に引き寄せられて、
胸の奥で、なにかが崩れる音がした。
そのぬくもりに包まれながら、俺は、
ずっと張り詰めていたものがほどけていくのを感じていた。
誰かに、受け入れられる感触。
こんなにも、あたたかいなんて──知らなかった。
制服の上から阿部ちゃんの手が触れた瞬間、
その熱が、肌を伝って身体の奥にしみこんでいった。
「……ん、っ……」
舌の奥から漏れる声が、自分のものじゃないみたいだった。
首筋に置かれた唇が、柔らかく、けれど確かな意志をもって吸い上げる。
「……ごめん、痛かったら、言って」
「大丈夫……だから、もっと……」
視線を重ねると、阿部ちゃんの眉がわずかに寄っていた。
迷いと、決意の混ざった瞳。
触れる手つきはどこまでもやさしくて、
それがまた、たまらなく心を締めつける。
「さくま……俺、本当にいいのか、わからないよ……」
「いいの……お願い、ここで終わらせて……」
制服のボタンを外す手が震える。
でも、その震えすら、どこかいとしく感じた。
押し倒されるような強さじゃない。
ただ寄り添うように重なった身体は、
熱を分け合うようにじっくりと馴染んでいく。
肌と肌がふれて、どちらの吐息かわからなくなる。
浅く唇を吸われたあと、舌先でなぞるように味を確かめられて、
思わず背中が跳ねた。
「あ……ぁ……ん……っ」
何も考えられなかった。
ただ、欲しいものにやっと触れられて、
それを受け入れてくれる人が、目の前にいる。
それだけで、どうしようもなく、涙がにじんだ。
「……泣いてる?」
「ちが……う……安心、しただけ……っ」
耳元で阿部ちゃんが小さく息をのむ。
そして、唇がそっとまぶたの際に触れた。
「……大丈夫、最後までちゃんといるから」
その言葉に、胸の奥がゆっくりとほどけていく。
これ以上はないほどの熱と、やさしさに包まれて、
俺は、世界で初めて“安全な場所”にいる気がした。
ふたりの呼吸が乱れ、汗がにじんで、
教室の小さな空間は、やがて静寂と熱で満たされていく。
求めて、応えて、重なって──
どこまでも、逃げ場なんてなくていいと思えた。
阿部ちゃんが、ここにいてくれるなら。
「……大丈夫、最後までちゃんといるから」
阿部ちゃんのその声が、胸の奥に静かに染み込んで、
今にも壊れそうな心をそっとつなぎ止めてくれる。
次の瞬間、唇が重なった。
迷いも、言い訳も、何も挟まない──ただ、確かめるみたいに。
柔らかくて、あたたかくて、でも深くて。
(……ああ、だめだ)
呼吸なんてどうでもよくなって、
自然と首を伸ばして、もっと深くを求めた。
舌先が触れたとき、
喉の奥から、くぐもった甘い声が漏れた。
恥ずかしいとか、みっともないとか、そんな感情はもう、遠くに置いてきた。
唇が離れたあとも、阿部ちゃんは視線を落とさず、俺を見ていた。
その目が、まっすぐで苦しそうで、それでも逃げていなくて──
「さくま……っ」
名前を呼ぶ声が低く、少しだけ掠れていて、
それがまた、体の奥に火をつける。
ズボンの布越しに撫でられる指先が、慎重で、優しくて。
くすぐったいような、でも、ぞくりとするような感覚に変わっていく。
「……っ、あべちゃ……そこ……」
声が震える。
腰が引けそうになるのを、自分から必死に受け止めて。
息が詰まるほどの熱に、自分の身体が翻弄されていくのがわかる。
だけど、不思議と怖くなかった。
いや、むしろ、すべてをさらけ出してもいいと思えた。
「もっと、ちゃんと……さくまに触れたい……」
阿部ちゃんのその言葉は、
まるでどこか祈るみたいで、優しくて切なかった。
肌があらわになって、唇が胸元を辿るたび、
火照りが一層深く染み込んでくる。
鼓動の速さなんて、もう聞かれたって隠しきれなかった。
「……すごい……可愛い、顔……してる」
「や、やめ……て、見ないでよ……っ」
「見たいよ、ちゃんと……全部。佐久間のこと、ちゃんと……」
耳元で囁かれる声に、身体がまた跳ねた。
ぴたりと重ねられた手のひらと、
交わされるキスと、熱を帯びた吐息と。
求められて、触れられて、愛されて──
そのすべてが、知らなかった感情を目覚めさせていく。
「……もう、無理、限界……っ」
「大丈夫、俺がいる。全部受け止めるから……」
最後にもう一度、深く、深くキスを落とされた。
舌を絡めるキスは、支配でも強制でもなく、
むしろ、すべての不安を溶かしていくようだった。
(……壊れても、いい)
そう思えるほど、
今この瞬間だけは、ただこの腕の中で、
安心して沈んでいけた。
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