テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
リビングの明かりは落とされていた。壁際に寄せられたソファ。テレビの画面だけが、青白く点滅している。
遥は黙って、その明滅の中に立っていた。
右手の袖は濡れている。口元に微かに血の匂い。
晃司は、カウンター越しにコーヒーを飲んでいた。スーツのまま、ネクタイを緩めた手が優雅だった。
「……おかえり」
遥の声は、どこか乾いていた。
返事はない。テレビの音がノイズのように響く。
「今日、頑張ったよ、オレ。先生にも褒められた。……“あいつ、壊れてるのに、律儀に返事だけはする”って」
笑いながら言った遥の声に、色はなかった。
「……で?」
晃司の声が落ちた。
遥の喉が、ぴくりと動いた。顔だけを向ける。
「……『で?』って、なに」
「どうせ、媚びるみたいな声出して、笑いながら股開いてんだろ。学校でも」
その言葉に、遥はかすかに笑った。
苦い笑みだったが、拒絶ではない。
「……知ってた? ああいう笑い方ってさ、最初は喉痛いんだよ。でも慣れると、“音”だけなら簡単に出せる。……意味は、もうなくていい」
「意味を消せたら、“壊れた”って言えるわけか」
晃司は立ち上がり、遥の前に来た。指先が顎に触れる。
遥は抵抗しない。まなじりをわずかに上げて、笑うように──見せた。
「兄貴の“定義”に近づけて、嬉しいよ」
「そんな口の利き方、誰に教わった?」
「全部、兄貴のおかげ。……ねぇ、まだ“足りない”の?」
その瞬間、晃司の手が動いた。
音はなかった。ただ、遥の頬がわずかに揺れ、表情が崩れ──それでも笑った。
「……ごめん。もうちょっと、可愛く泣いた方がよかった?」
その目は、どこかで冷え切っていた。
なのに──どこかで、まだ「評価」を求めていた。
晃司の指が、遥のシャツのボタンにかかる。
「──なぁ」
遥が言った。顔はもう、虚ろなまま。
「“飽きたら捨てる”って、ちゃんと宣言してくれよ。そしたら、もうちょっと“頑張る”から」
その声音に、本当の“望み”はなかった。
だが──どこかで、“捨ててほしい”と願っているようでもあった。
晃司は答えなかった。
答える必要がないと思っていた。
遥の言葉も、身体も、すべてが「所有物」として、そこにあった。
──明け方、遥は鏡の前で笑顔を作る練習をする。
皮膚の下で、何かが割れているのを、知っているまま。