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「──ねえ、ほんとにここでいいの?」
沙耶香が笑いながら言った。
ハイヒールの踵が床を軽く叩く音。玄関の鍵は開いていた。
蓮司は無言で手を伸ばし、勝手に中へ入る。
まるで、自分の家のように。
リビングの灯りは落とされていたが、廊下の奥──遥の部屋の扉は、わずかに開いていた。
「なに、また泣いてたりして。……泣けるんだっけ、あの子」
沙耶香の声に、蓮司はくすっと笑った。
「泣かないけど、喉は震える。……最近は、“演技”も上手くなってきた」
「“好きになっちゃいそう”って言ったの、覚えてる?」
「言ったっけ?」
「言ったよ。でも、蓮司が誰かに執着するわけないって、わかってる」
沙耶香は、わずかに唇を歪めた。その表情は笑っていたが、どこか“優越”の色があった。
──遥の部屋の中には、静かな呼吸だけがあった。
灯りをつけると、ベッドの上に座る遥がいた。
首筋に手の痕が残っている。唇は切れていないが、乾いて白くなっていた。
シャツは前が半開きのまま、ボタンがいくつか千切れている。
それでも、遥は笑っていた。見られるのが“当然”だというように。
「……また来たんだ」
声はかすかだが、舌が笑いの形を作っていた。
「来たくなかったけどね。蓮司が“顔見たい”って言うから」
沙耶香が言うと、蓮司はベッドの脇に腰を下ろした。
「何か、喋ってみてよ。……“今日の遥”は、どんな感じ?」
「今日のオレ? うーん……“まだ壊れてないふり”が、ちょっとだけ上手くなったかな」
「ふーん」
蓮司は、遥の顎に手をかけ、わざとらしく見上げさせる。
「ねぇ、壊れてないって、誰に証明したいの?」
「さあ……沙耶香? それとも蓮司? ……それとも、あの優等生くん?」
「誰にでもないよ、って言えば?」
沙耶香が笑う。
「……でも、“誰かに見せるため”に喋るようになったんでしょ。あの教室で」
遥の瞳が、一瞬だけ揺れる。
けれど──すぐに戻る。
「“見せる”って、便利な言葉だよね。……見られてる限り、“演じてる自分”でいられるから」
「壊れるのって、案外、演技の延長線上にあるよね」
蓮司の指が、遥の髪をかき上げる。
「それ、沙耶香に言っても怒られないんだ」
「うん。俺、沙耶香にしか怒られたくないから」
その会話の間、遥はただ笑っていた。
けれどその笑みは、どこか“もう選べない”という絶望の上にあった。
──その夜も、遥は「誰のものにもならないまま」、
「誰の自由にもならないまま」、
ただ、“壊れたふり”を続けた。
蓮司は、それを楽しんでいた。
沙耶香は、それを見ていた。
そして遥は、自分の「役割」が増えていくことを、ただ数えていた。